第六十八話:氷塵の門と賢者の試練
北へ。
ドワーフの国を過ぎてから、さらに十数日が過ぎていた。
一行が踏み入れたのは、もはや地図にさえ記されぬ、完全な未知。生命を拒絶する、極寒の荒野であった。空は常に鉛色の雲に覆われ、風は、ガラスの刃となって容赦なく体温を奪っていく。
永遠に続くかと思われた白と灰色の世界に、ある日、一つの異質な「黒」がその姿を現した。
それは巨大な氷河のその谷間に、まるで黒曜石の楔を打ち込んだかのように、静かに佇んでいた。
山の斜面に人為的に穿たれた巨大な門。高さは十丈はあろうか。黒い、磨き上げられた石材で作られたその門には、雪と氷がこびりつき、その表面には、一行が知るどの文字とも違う、古代のルーンがびっしりと刻まれている。
「……あれか。沈黙の図書館……」
幻庵が、畏怖の念を込めて呟いた。
門の周辺だけが、不思議なほど風が凪いでいる。完全な無音の世界。ここが世界の知の墓場であり、宝物庫であることを、その異様な静寂が何よりも雄弁に物語っていた。
ドルグリムが、その職人としての知識を総動員し、数時間かけて門の仕掛けを解き明かす。やがて、ゴゴゴゴゴ……という、数千年の沈黙を破る、重い石の軋みと共に黒い門は内側へと開かれた。
門の先に広がっていたのは、凍てつくような、しかし、乾いた空気と完全な闇であった。
◇
幻庵が灯した魔石の光が、その異様な空間を照らし出す。想像を絶する広さを持つ、巨大な回廊。天井は遥か高く闇に溶けて見えない。壁には、水晶でできた書架がどこまでも続いていた。
その書架に書物は一冊もない。まるで持ち主を待ち続ける、巨大な骸骨の肋骨のようであった。
回廊を、数体の氷と黒曜石で作られた、人型のゴーレムが、滑るような音のない動きで規則正しく巡回している。
回廊の最も奥。次の階層へと続くのであろう、さらに巨大な一枚岩の扉が固く閉ざされていた。その巨大な扉の上部には、入り口の門にも刻まれていた、一つの巨大な紋様が彫られていた。
だが、よく見ると、その紋様の下に、一本だけ、横線が加えられている。
幻庵が、その紋様を、食い入るように見つめる。
「……この紋様、そして、下の一本線。これは、おそらく、この場所が『第一の階層』であることを示す印じゃろう」
リシアも頷く。
「はい。文字から放たれるマナの『意味』も、幻庵様のお考えを裏付けています。そして、その横に並ぶ、この文字は……」
「うむ。『知識』と、『回廊』。そう、読める」
――第一階層『知識の回廊』。
扉の中央には、マナの光で、一つの巨大なルーン文字が明滅している。
「ふむ……。なぞなぞ、じゃな。扉を開くための、賢者の試練、といったところか」
一行は、ゴーレムの視界から隠れられる、水晶の書架の陰に身を潜め作戦を練った。
まず、動いたのは小太郎であった。彼は、影から影へと音もなく移動し、数十分かけて、ゴーレムの動きを完璧に把握した。
「ゴーレムの巡回経路は、寸分の狂いもない。扉の前が、完全に死角となる時間は、半刻(約1時間)に一度。その時間は、三十秒ほどしかない」
次に、幻庵が扉のなぞなぞに挑む。
「読めぬ。じゃが、この文字の成り立ち、その骨格から、意味を推し量ることはできる。……この部分は『声を持たぬ』、そして、この螺旋は『物語を紡ぐ』という意味を含んでおる。そして、この外枠は、『世界を内包する』という概念を示しておるな」
「声なくして物語を紡ぎ、その内に世界を抱くもの……」
リシアが、はっとしたように呟く。
「……『書物』、です!」
「うむ。答えは、それであろうな」
ドルグリムが、扉の構造を、遠目から観察していた。
「扉の周りに、いくつもの小さなルーンが刻まれておる。恐らく、答えとなる文字のルーンを、正しい順番で押すのじゃろう」
答えは出た。問題は時間であった。三十秒という短い時間で、不慣れな古代文字を、正確に押し切ることができるのか。
その時、これまで黙って彼らの議論を聞いていた綱成が、静かに口を開いた。
「……わしが、時間を稼ぐ」
「綱成殿!?」
「幻庵殿らは、扉に集中されよ。小太郎殿は、合図を。もし、間に合わぬとあらば、わしが、奴らの気を引く。何としても、扉はこじ開けられよ」
その言葉に、反対する者はいなかった。
それが、この状況における、唯一にして、最善の策であったからだ。
◇
半刻後。
小太郎の、鳥の鳴き真似のような合図と共に、四人が、書架の影から飛び出した。
幻庵、リシア、ドルグリムが、扉の前に陣取り、綱成は、いつでも動けるよう、少し離れた場所で静かに闘気を練っている。
「これと、これじゃ!」「いえ、その次はこちらの螺旋のはず!」
不慣れな古代文字の解読に、三人の額から、冷や汗が流れる。
時間は、無情に過ぎていく。
やがて、回廊の向こうから、一体のゴーレムが、その巡回経路を曲がり、こちらへと向かってくるのが見えた。
「……まずい! あと五秒、間に合わぬ!」
小太郎が、叫ぶ。
その、瞬間であった。
「――面白いッ!」
綱成が、咆哮した。
彼は、あえて扉とは全く逆の方向へと駆け出すと、愛刀『獅子奮迅』を抜き放ち、その刀身を、近くの水晶の書架へと、力任せに叩きつけた。
キィィィィィィンッ!!!!
静寂を切り裂く、甲高い、耳をつんざくような金属音。
その音に、全てのゴーレムが、ぴたり、と動きを止めた。氷の顔を、一斉に音の発生源である、綱成の方へと向けた。
ゴーレムたちの、水晶の瞳が侵入者を捉え、一斉に赤く燃え上がる。
「ハッ! 良い面構えではないか! さあ、この地黄八幡が、遊んでやろうぞ!」
綱成は、獰猛に笑うと、向かってくるゴーレムの群れを一人で引き受けるべく、その場に仁王立ちになった。
「今だ! 押せ!」
幻庵が叫ぶ。
ドルグリムが、最後のルーンを渾身の力で押し込んだ。
直後。巨大な扉が何の音もなく、幻であったかのように、すぅっと、内側へと滑り込んでいく。
「開いたぞ!」「綱成殿!」
綱成の声には、焦りの色が一切なかった。
彼は、殺到するゴーレムの群れの中を、まるで流れる水のようにすり抜けていた。ゴーレムたちの氷の拳が空を切り、彼のいた場所の床を砕くが、その刃は、彼の衣の一片さえも捉えることができない。
小太郎が、幻庵たち三人を、開いた扉の中へと突き飛ばす。
「綱成殿! こちらへ!」
小太郎の声を合図に、綱成は初めて足を止めた。
彼は振り返ると、追ってくるゴーレムたちに向かって、『獅子奮迅』を、ただ静かに一閃させた。
剣から放たれた凄まじい剣圧が、見えない壁となってゴーレムたちの進軍を阻み、その動きを一瞬、完全に停止させる。
その隙に、綱成は、何事もなかったかのように、悠然と扉の向こう側へと歩みを進めた。
その直後、扉は、再び、音もなく閉ざされ、正気を取り戻したゴーレムたちの、怒りの攻撃を、完全に、遮断。
静寂が、戻る。
一行は、荒い息をつきながら、互いの顔を見合わせた。綱成だけが、呼吸一つ乱さず、静かに刀を鞘に納めている。
人間離れした武技を前に、ドルグリムでさえも、畏敬の念に言葉を失っていた。
幻庵の知、小太郎の目、ドルグリムの技、リシアの閃き、そして、綱成の武。
そのどれか一つでも欠けていれば、この最初の試練を、乗り越えることはできなかっただろう。
彼らは、改めて仲間という存在の重みを、実感していた。
一行は、ゆっくりと立ち上がると、目の前に広がる次の階層へと続く、暗く長い下り階段を静かに見据えた。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




