幕間八:影の戦場
風が、枯れ葉を攫っていく。
小田原領の最も深い森の中。外界から隔絶された風魔忍軍の隠れ里。 神聖とされる洞で、頭領である風魔小太郎は膝をついていた 。
彼の前には、先の戦いで命を落とした三名の部下の遺品が並ぶ 。使い古された鎖鎌、数枚の手裏剣、血に汚れた黒い頭巾 。
葬儀に言葉はない 。 小太郎が遺品の一つ一つを、洞の奥にある青白い冷気を放つ炎の中へと投げ入れていく 。
炎は一瞬だけ赤く燃え上がり、鉄と布と、失われた魂の無念を煙と共に天へと還していく 。仮面の下、彼の瞳が僅かに揺らめいたのを、誰も知る由はなかった。
儀式を終え、彼は里の最も奥、図面の間へと足を向けた 。 部屋の中央には巨大な大陸地図が広げられ、彼の「目」や「耳」となる部隊の配置を示す小さな黒い石の駒が置かれている 。 だが、この一月で、その駒は二つ、盤上から取り除かれていた 。
一つは、本拠地である小田原領内 。 帝国の密偵「黒薔薇騎士団」の男一人を捕らえる代償に、三名の熟練の配下を失った 。
あの戦いは風魔の常識を覆した 。敵はただの暗殺者ではない 。聖なる術を使い、影を狩ることに特化した「狩人」であった 。光を放ち、影そのものを焼き払う異質な存在。
そして、もう一つ 。 小太郎の視線は大陸中央、白亜の都を示す「ルーメン」の文字の上で止まった 。 そこにあるはずの駒がない 。帝都の心臓部に潜入させた、最も信頼する駒が。
「――小太郎様」 背後の闇から、腹心であるくノ一の霞が姿を現した 。
その声には、常の冷静さとは違う焦燥が滲む 。
「帝都に潜入させた弥彦の隊より、定時の鷹による報せが、昨夜より途絶えました 。最後に弥彦の鷹が運んできた知らせは三日前の夜半 。その足に結ばれた羊皮紙には、断片的な暗号のみが、血で記されておりました 。……『黒薔薇、都に満ちる。我ら既に巣の中。脱出不能』と 」
静寂が部屋を支配する 。 弥彦は小太郎が信頼する部下の一人であった 。人の心に付け入り、どんな場所にも水のように溶け込める、最高の忍び 。 その彼が率いる五名の精鋭部隊が、消息を絶った 。鷹だけが、主の最後の言葉を届けたのだ。
「巣の中、か……」小太郎が低く呟く。
「弥彦ほどの男が、敵の罠に気づかぬはずがない。嵌められたとすれば、それは……」
「恐らくは、人の心を利用した罠かと」霞が静かに応える。
「弥彦は情に厚い男。帝都の民の中に、助けを求める者がいたのかもしれません。黒薔薇は、そこに巣を張っていた……」
先の戦いで小田原に潜入した密偵を小太郎は捕らえた 。だが、それは巨大な蜘蛛の巣にかかった一匹の蝶に過ぎなかったのだ 。
巣の主は遥か西、帝国の中心にいる 。そして、その巣は想像よりも巨大で、緻密であった 。人の心さえも、その糸とするか。
「……霞」 小太郎は地図から目を離さぬまま言った 。
「我らは、戦のやり方を間違えていた 」
これまでの風魔の戦は、大名の懐に潜り込み、情報を盗み、要人を暗殺する、点の戦いであった 。だが、帝国が仕掛ける戦は違う 。
「奴らは、我らと同じ、あるいはそれ以上に巨大で厄介な『巣』を大陸全土に張り巡らせている 。弥彦たちが捕らえられたのは衛兵に見つかったのではない 。帝国の、その巨大な巣の見えざる糸に触れ、絡め捕られ、喰われたのだ 」
霞が息を呑む 。
「では、我らは…… 」
「うむ。今のやり方のまま帝都に兵を送り込むのは、飢えた獣の口に肉を投げ込むに等しい 。無駄死にさせるだけよ 」
小太郎は立ち上がると訓練場へと向かった 。 そこでは若き忍たちが、帝国が使う光の術を想定し、目隠しをしたままマナの揺らぎだけを頼りに互いの気配を探る、新しい訓練を繰り返していた 。
光を屈折させ、影の中に完全に溶け込む術。敵の魔法が生み出す影を利用し、背後を取る術。苦悶の表情を浮かべながらも、彼らの目には必死さが宿る。先の戦いで得た教訓 。帝都で失った大きな代償 。それらは、五代にわたる風魔忍軍の歴史上、最も大きな変革を彼に迫っていた 。
彼は訓練場を見下ろしながら、集まった全ての忍びたちに、その冷徹な声を響き渡らせた 。
「全隊に通達せよ 」 その声は、冬の夜気よりも冷たく、硬質であった 。
「これより、帝国内における全ての能動的諜報活動を凍結する 。全部隊は、新たな戦術への移行を開始せよ 」
「我らは、影に潜むだけの存在ではない 。敵の光を利用し、その影を操り、影そのものを武器とする新たな『理』を、この身に宿すのだ 」
「潜伏を徹底せよ。接触は避けよ。ただ、敵の『光』を観察し、記録せよ。奴らの光が強ければ強いほど、その下に生まれる影もまた、深くなる。その影こそが、我らの新たな戦場となる」
「帝国の『黒薔薇』が我らを狩るというのなら、面白い 」
小太郎は、仮面の下で、獰猛な楽しげな光をその瞳に宿した 。
「――我ら風魔もまた、狩人となってくれようぞ 」
それは、敗北を認めた上で、決して屈しない影の軍団の次なる戦いの始まりを告げる反撃の狼煙であった 。
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