エピローグ:赤い星の下で(後編)
【深夜、エリアーナの書斎】
ホログラム・モニターの青白い光が、乱雑に積み上げられた古文書の山を照らし出している。
歴史学徒であるエリアーナは、昨夜放送されたニュース映像を、もう何度目かわからない溜め息と共に再生していた。
画面の中では、恩師であり古代史の権威、アリステア教授が、子供のように目を輝かせて「神話の実在」を熱弁している。
「……教授ったら、また学会で笑い者になりますよ。サガミノカミが実在したなんて」
彼女は再生を止め、椅子に深く沈み込んだ。
彼女の専門は「古代言語学」。データと文献こそが全てだ。魔法だの異世界だの、そんな非科学的な要素が入り込む余地はない。
だが、それでも。
彼女の胸の奥に刺さった小さな棘が、疼いて止まない。
『――豊穣は、星の飢えを呼ぶ。備えよ、次の収穫に』
ニュースで報じられた石碑の文言。
あまりにも詩的で、具体的で、そして不吉な警句。それが、彼女の理性の壁をノックし続けている。
エリアーナは、無意識のうちに自分の左手首に触れていた。そこには、家訓として父から譲り受けた、古びた奇妙な紋章のブレスレットがある。
(……確かめなきゃ)
彼女は衝動に突き動かされるように通信端末を起動した。
『――教授。私にも、その「お伽噺」の続きを見せていただけますか』
【数週間後、オダワラ地底遺跡・発掘キャンプ】
吹き抜ける風は冷たく、乾いた土の匂いがした。
エリアーナは、巨大な発掘穴の縁に立ち、眼下に広がる太古の都を見下ろしていた。
この数週間、彼女は寝食を忘れて遺跡の調査に没頭した。そして、調べれば調べるほど、彼女の常識は音を立てて崩れ去っていった。
地層から出土する、生物学的にあり得ない巨大生物の化石。
放射性炭素年代測定が示す、異常な数値の断絶。
そして何より、この城塞都市の建築様式。それは大陸のどの時代の、どの文化圏にも属さない、完全に「孤立」し、かつ「完成」された文明の痕跡だった。
「……どうかな、エリアーナ君」
背後から、アリステア教授が声をかけてきた。
「君のその明晰な頭脳は、この遺跡をどう『解釈』したかね」
「……わかりません」
エリアーナは正直に首を振った。
「わかりません、教授。ですが、一つだけ確信したことがあります。私たちが信じてきた『歴史』は、書物の一ページ目が破り取られた物語だったのではないか、と」
教授は満足げに頷き、そして発掘現場の中心を指差した。
「その破れたページが、今、見つかりそうだ」
現場から、作業員たちのどよめきが上がった。
「教授! 新発見です! 石碑の直下から、巨大な空洞反応! ……入り口が見つかりました!」
エリアーナたちが駆けつけた時には、屈強なドワーフの血を引く作業員たちが、巨大な一枚岩の蓋を慎重にこじ開けているところだった。
プシュッ、という音と共に、数千年間閉じ込められていた空気が漏れ出す。それは、カビ臭い澱んだ空気ではなく、不思議と清浄で、どこか懐かしい香りがした。
現れたのは、地下へと続く石の階段。
一行は、ライトの光を頼りに、その闇の中へと足を踏み入れる。
階段の先にあったのは、ただの地下室ではなかった。
黒曜石を磨き上げて作られた、静謐な円形の広間。壁には、見たこともない美しい文字で、何かの歴史が刻まれている。
そして、その中央。
黒漆の台座の上に、三振りの刀が、奇跡的な保存状態で静かに安置されていた。
一振りは、優美な反りを持つ長大な太刀。その鞘には黄金の稲穂の蒔絵が施され、見る者を圧倒する「統治者」の風格を漂わせている。
一振りは、実用性を突き詰めた質実剛健な打刀。その柄には獅子の顔が彫り込まれ、ただそこにあるだけで肌を刺すような「武」の圧力を放っている。
そして最後の一振りは、反りのない直刀に近い、異形の忍び刀。光を吸い込むような漆黒の鞘は、「影」に生きる者の沈黙を物語っていた。
「……間違いない」
アリステア教授が、震える声で呟く。
「神話に謳われた三柱の英雄……統治神『サガミノカミ』、武神『ジキハチマン』、そして影神『コタロウ』。彼らが実在したという、これ以上ない証拠だ……!」
エリアーナは、何かに導かれるように、中央の太刀へと歩み寄った。
心臓が早鐘を打つ。この刀を、知っている気がする。
彼女は、震える手でライトを近づけ、太刀の鞘の、最も目立たぬ場所を照らした。
そこに、小さく、しかし確かに刻まれていたのは――。
――三つの、三角形を組み合わせた、鱗の紋章。
エリアーナは息を呑み、自らの左手首のブレスレットを見た。
同じだ。
一族のものだけに、代々その意味も知らされずに受け継がれてきた、家紋。
閃光のように、理解が走る。
サガミノカミは、神ではなかった。獅子の一族は、天から降りてきたわけではない。
彼らは、人間だったのだ。
このあまりにも理不尽な世界で、民のために、未来のために、その魂を燃やし尽くして戦った、我らと同じ人間。
そして、その血が。その意志が。
幾千年の時を超え、今、この自分の体にも確かに流れている。
「……あ……」
涙が、止めどなく溢れ出した。それは悲しみではない。自らのルーツに出会えた、魂の震えだった。
その時。
背後から、静かな、しかし冷涼な水のような声が響いた。
「――お探し物は、見つかりましたかな」
エリアーナが振り返ると、入り口の影に、一人の青年が立っていた。
作業着を着ているが、その佇まいは、ただの作業員のものではない。闇に溶け込むような気配。全てを見透かすような、深く、静かな瞳。
青年は、エリアーナの前に音もなく進み出ると、その場に片膝をつき、深く頭を垂れた。
「我が名は、風魔。――当代の風魔小太郎」
その名に、教授が息を呑む。神話の英雄の名だ。
青年は続ける。
「我らが一族は、遥か古の昔、初代様よりただ一つの密命を賜りました。『北条の血脈が絶えることなきよう、その影となり、未来永劫支え続けよ』と」
「我らは数千年の間、その言葉だけを頼りに歴史の影に潜み、貴方様のような『獅子の血』を継ぐ者たちを、ただひたすらにお守りして参りました」
青年は顔を上げた。その瞳は真っ直ぐにエリアーナを見据えている。
周囲にいた作業員たちも、一斉に作業の手を止め、彼女に向かって跪く。彼らもまた、風魔の末裔たちだったのだ。
「そして今、当代たる貴方様が、この始まりの地、オダワラへとついにご帰参なされた」
「――これにて、我らが長きにわたる『待ち』の時間は終わりです」
小太郎と名乗った青年は、懐から一枚の古びた書き付けを取り出し、エリアーナに差し出した。
そこには、あの日、氏康が孫に語った言葉が記されていた。
『我らの戦は、まだ終わっていない』
エリアーナは、その紙を受け取った。
彼女はもう、ただの歴史学徒ではない。
忘れられた一族の、遥かなる末裔。太陽の国より来たりし獅子たちの、娘。
彼女の名は、北条エリアーナ。
彼女は顔を上げ、石碑に刻まれた警告の言葉を、今一度心に刻み込んだ。
「……豊穣は、星の飢えを呼ぶ。備えよ、次の収穫に」
それは、過去からの警告ではない。
遥かなる祖父たちが、このか細い未来へと繋いでくれた、最後の、そして最も重い襷だった。
「……教授。私、わかった気がします」
エリアーナの声には、もう迷いはなかった。
「私たちが何をすべきか。この世界が、これから何に立ち向かわなければならないのか」
彼女は、三振りの刀を見つめ、そして自分に付き従う新たな「影」たちを見渡した。
赤い星が、数千年の周期を経て、再びその輝きを増そうとしている。
だが、今回は違う。
準備は、できている。
「――始めましょう。私たちの戦いを」
その時だった。
地下空洞の空気が、急激に熱を帯びた。
発掘現場の照明が明滅し、魔導機器が一斉に警報音を鳴らす。
「な、何だ!? 地震か!?」
アリステア教授が叫ぶ。
違う。揺れているのは大地ではない。大気そのものだ。
石室の天井――かつて小田原城の地下深くにあった岩盤が、まるで幻のように透き通り、そこから夜空が見えた。
満天の星空。
その中でひときわ赤く、不気味に輝く変光星。
そして。
その赤い星を目指すように、一つの巨大な影が、夜空を切り裂いて飛翔していた。
黒曜石の鱗。溶岩の瞳。
その翼は、広げれば街一つを覆い尽くすほどに巨大。
「……嘘……。本物の、竜……?」
エリアーナは、腰が抜けるほどの衝撃に襲われながらも、その姿から目を離せなかった。
古竜イグニス。
数千年の時を生き、世界の観測者。
竜は、地上にいる小さき者たちに気づいているのか、いないのか。
一度だけ、大きく翼を羽ばたかせた。
ゴォォォォォ……!
遥か上空であるにもかかわらず、その風圧が地下空洞の空気を震わせる。
それはまるで、眠っていた獅子の子らを起こす、目覚めの鐘のようだった。
竜は、振り返ることなく、一直線に赤い星へと向かっていく。
その姿は、無言で語っていた。
『時は来た。備えよ』と。
やがて、竜の影は夜の闇へと溶け、天井の岩盤も元の冷たい石へと戻った。
後に残されたのは、圧倒的な静寂と、肌に残る熱気。
そして、傍らで平伏する、現代の忍びたち。
「……教授」
エリアーナは、震える手で眼鏡の位置を直しながら、振り返った。その瞳には、もはや迷いはない。
「研究室に戻りましょう。……お伽噺の続きを、書きに行かなくては」
彼女の、そして、この世界の新たな戦いが、今、静かに始まろうとしていた。
(完)
ありがとうございました。
大好きな歴史ものと異世界ものを混ぜたらどうなるだろうと思い書き始めたものが、完結を迎えました。
個人的には一番お気に入りの作品です。
ここまで御覧いただきありがとうございました。
もう少しおまけがあります。
最後までお楽しみください。




