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第百話(最終話):赤い星の下で


 あの日から、幾つもの季節が巡った。


 かつて戦火に怯えていた小田原の城下は、今や転移直後の混乱を知る由もないほどに変貌を遂げていた。


 大通りには、ドワーフの石工たちが敷き詰めた平滑な石畳が幾何学模様を描いて伸び、夜になれば幻庵が開発した「魔石灯」が、ガス灯のように柔らかく街を照らし出す。


 軒を連ねる商店には、エルフの織る虹色の織物と、日本の職人が染めた藍染めの着物が並び、オークの行商人が背負ってきた珍しい鉱石を、人間の錬金術師たちがこぞって買い求めている。


 城壁の外、かつて血で染まった決戦の舞台となった西の平原は、今や見渡す限りの黄金色の水田となっていた。


 黄梅院の祈りと、魔石機関による自動灌漑設備が生み出した、この世の楽園。風が吹くたびに、黄金の波がさざめき、それはまるで大地が豊穣の歌を歌っているかのようであった。


 北条氏康が夢見た「禄寿応穏」の理念は、理想論の枠を超え、確固たる「文明」の形となって、この異世界の大地に深く根を張り、花開いていたのである。


 ある春の日の評定。


 この日は、連合の歴史に新たな一ページが刻まれる日となった。

 まず進み出たのは、エルフの長エルウィンである。彼の顔には、長年の苦闘を終えた者だけが持つ、深い安堵と誇りが浮かんでいた。


「氏康殿。ご報告がございます。我らが故郷、シルヴァナールの森が、ついに開国を決断いたしました」

 風魔の忍たちが流し続けた真実と、小田原で成功した若者たちの帰郷は、頑なだった長老会の心を溶かしたのではない。彼らの足元を支える民の支持を、完全に塗り替えてしまったのだ。


「ロエリアン議長は責任を取って隠居し、森は新たな指導体制へ移行します。我々は、正式に『大陸共存連合』への加盟を申請いたします」

 広間がどよめき、次いで割れんばかりの拍手が巻き起こった。


 だが、驚きはそれで終わらなかった。

 次に進み出たのは、あの大戦で共に戦ったドワーフの英雄、ドルグリムであった。しかし、今日の彼はいつもの煤けた作業着ではない。豪奢な黄金の冠と、王のマントを身に纏っていた。


「……似合わんじゃろう? 笑ってくれ」

 ドルグリムは照れくさそうに髭をさすった。


「ご報告する。我がドワーフの国、カラク・ホルンでも、王位の継承が行われた。先王ブロック・アイアンフィスト陛下は、『これからは変化の時代だ。新しい槌には、新しい腕が必要じゃ』と言い残され、退位された」

 彼は背筋を伸ばし、氏康を見据えた。


「このドルグリム・ストーンハンマーが、新たなドワーフ王として即位したことを、ここに宣言する! 我が国は、これまでの伝統を守りつつ、革新の火を絶やさず、北条と共に歩むことを誓おう!」

 さらに、その横には、見違えるほど立派な鎧を纏ったオークの大族長、グルマッシュの姿があった。


 彼は、野蛮な略奪者としての顔を完全に捨て去っていた。


「俺たち鉄牙部族も、変わったぞ。北条の支援で築いた『鉄牙都市アイアン・ファング』は、今や大陸一の傭兵と土木の都だ。力自慢のオークたちが、剣を振るうだけでなく、道を作り、橋を架けることに喜びを見出している」

 グルマッシュは、ニヤリと笑って胸を叩いた。


「俺たちは、この連合の『盾』であり『礎』だ。誰かがこの平和を乱そうとすれば、俺たち鉄牙が、その鼻っ柱をへし折ってやる」

 エルフの開国。ドワーフの王位継承。そしてオークの文明化。


 かつて敵対し、あるいは孤立していた種族たちが、今、一つのテーブルを囲み、同じ未来を見つめている。


 その報告を受け、玉座に座していた氏康は、深く、満足げに頷いた。

「……そうか。皆、見事だ。我らが蒔いた種は、想像を超える大樹へと育ったようだな」

 氏康はゆっくりと立ち上がり、広間を見渡した。


 そこには、かつての敵も味方もなく、ただこの国の未来を背負う頼もしい同志たちがいた。


「皆、聞け。時は満ちた」

 彼は隣に控える嫡男、氏政を手招いた。


 氏政は、父の意図を察し、緊張に身を硬くしながらも、力強い足取りで進み出る。その顔には、かつての頼りなさは微塵もない。


 数多の修羅場を潜り抜け、兵站と法整備の陣頭指揮を執り続けてきた者だけが持つ、揺るぎない自信と、王としての風格が宿っていた。


「今日、この日を以て、わし、北条氏康は全ての公務から退き、完全に隠居する。以後の北条家のこと、並びに連合議長の座は、氏政に譲るものとする!」

 驚きの声はなかった。


 ただ、深い納得と、一時代の終わりを惜しむ静かなため息が漏れた。それは、誰もが予期し、そして受け入れていた未来であったからだ。


 氏政は父の前に跪いた。

「……父上。その御背中、あまりに遠く、大きゅうございました。ですが、必ずや追いつき、そしてこの国を、父上が夢見られたその先へと導いてみせます」


「うむ。頼んだぞ、氏政。民を、頼む」

 氏康は腰の太刀『禄寿応穏』を解き、恭しく息子の手に渡した。その重みは、単なる鉄の重さではない。この国の命運そのものであった。


 ◇


 それから、さらに数年の時が流れた。


 隠居した氏康は、穏やかな日々を送っていた。だが、かつての英雄たちもまた、ただ老いさらばえていたわけではない。彼らはそれぞれの場所で、次なる世代へとその魂を継承していた。


 城下に新設された「総合学問所アカデミー」。

 その大講堂では、北条幻庵が教壇に立ち、人間、エルフ、ドワーフの若者たちに熱弁を振るっていた。黒板には、複雑な数式と魔法陣が入り混じった図解が描かれている。


「良いか! 魔法と科学は対立するものではない! マナの流れを数式で解き明かし、それを歯車の回転へと変換する。この『魔導物理学』こそが、次なる大災害に対抗する鍵となるのじゃ!」

 九十を超えてなお、その知の探求心は衰えるどころか、若者たちを圧倒するほどの熱量を放っていた。


 最前列では、リシアが助教として、困ったような、しかし誇らしげな顔で老賢者をサポートしている。彼女の指には、エルウィンから贈られた指輪が光っていた。


 練兵場。

 そこでは、老境に入った北条綱成が、ヴァレンシュタイン領から留学してきた若き騎士たちを相手に、木刀一本で立ち回っていた。


「遅いッ! 剣に頼るな、気で斬れ! ゲオルグ総督が教えたのは、そんな柔な剣か!」

 鋭い裂帛の気合と共に、若き騎士が吹き飛ばされる。


「ぐぬぬ……! まだだ、もう一本!」

 泥まみれになって立ち上がる若者を見て、綱成は豪快に笑う。


「いい目だ! その根性があれば、いつか俺の膝くらいはつけるようになるわ! さあ、かかってこい!」

 そこには、かつての「地黄八幡」の猛々しさと共に、次代を育てる厳しくも温かい師の顔があった。


 遥か北、ドワーフの地下王国。

 新王ドルグリムは、玉座の上で山積みになった書類と格闘していた。


「ええい、また陳情か! わしは鉄を打ちたいんじゃ! 王冠なんぞ溶かして金槌にしてやる!」

 そうボヤきながらも、彼が押す印章の一つ一つが、ドワーフの国を閉鎖的な地下社会から、開かれた技術大国へと変えていっていた。


 隠居した先王ブロックは、今や一人の鍛冶師として、王の苦悩を肴に酒を飲むのを楽しみにしており、二人の間には奇妙な友情が芽生えていた。


 西の荒野、鉄牙都市。

 大族長グルマッシュは、人間とオークの混成部隊を率いて、大規模な街道整備の指揮を執っていた。


「ほら、そこ! もっと腰を入れろ! この道は大陸の血管になるんだ、半端な仕事はすんじゃねえ!」

 彼の元で育った若いオークたちは、もはや略奪を知らない。彼らは「創る」ことの喜びと、仲間を守る強さを誇りとしていた。


 そして、ヴァレンシュタイン領。

 総督サー・ゲオルグは、見渡す限りの麦畑の中を、馬で巡回していた。


 かつて焦土と化したこの地は、今や大陸有数の穀倉地帯となっていた。農作業に汗を流す元帝国兵たちが、ゲオルグを見つけると手を振る。


「総督! 今年の麦は最高ですよ!」

 ゲオルグは穏やかに微笑み、手を振り返す。彼の背負った贖罪の十字架は、今や民からの信頼という花で飾られていた。


 小田原城、本丸の執務室。

 当主となった氏政の前で、弟の氏照と氏邦が、そして末弟の氏規が、新しい政策について熱く議論を交わしている。


「兄上! 街道の整備を急ぐべきです! 流通こそが国の血流!」


「いや、まずは魔石の安定供給だ! 産業の心臓を止めちゃならん!」


「まあまあ、両兄上。自由都市同盟との関税交渉も大詰めですから」

 その傍らでは、黄梅院が、夫や義弟たちのために茶を点てている。


 彼女の「豊穣の女神」の力は、今も静かに、この国全体の安寧を支え続けていた。

 氏政は、頼もしい弟たちと、愛する妻を見渡し、静かに微笑む。


「皆、良い顔をするようになったな。……父上に見せてやりたいものだ」


 ◇


 ある秋の夜。

 氏康は一人、天守の最上階で夜風に当たっていた。眼下には、宝石箱をひっくり返したような小田原の夜景が広がっている。


 背後で、衣擦れの音がした。


「……祖父上、ここにおられましたか」

 振り返れば、そこには元服を間近に控えた孫、北条氏直(幼名:新九郎)が立っていた。その聡明な瞳は、若き日の氏政よりも、あるいは氏康自身によく似た、理知と情熱を宿していた。


「おお、新九郎か。どうした、眠れぬか」


「はい。……父上たちが、評定で難しい顔をしておられましたので」

 氏直は氏康の隣に歩み寄り、不安げに空を見上げた。


「祖父上。西の空に見える、あの赤い星。近頃、ますます輝きを増し、不気味な色を帯びているように見えます。あれは、一体何なのですか?」

 孫の指差す先。


 満天の星々の中で、一つだけ異質な輝きを放つ、血のような紅玉ルビーの星。


 幻庵が予見した、数百年に一度の『大災害』。


 この星が生命を維持するために、地上の文明を刈り取る「収穫期」の象徴。それは、刻一刻と、この世界に近づいていた。


 氏康は、その星を見据えたまま、静かに答えた。


「あれはな、新九郎。この世界が我らに突きつけている『問い』よ」


「問い、ですか?」


「うむ。『お前たちは、生きるに値する存在か』とな」

 氏康は孫の肩に手を置いた。その手は、かつて剣を握り、国を背負ってきた男の、節くれだった、温かい手であった。


「かつて、この世界に喚ばれた者たちは、その問いに答えられず、喰われ、滅びた。個々の力は強くとも、手を取り合うことを知らなかった故にな。だが、我らは違う」

 彼は、眼下に広がる小田原の夜景を指し示した。


 魔石灯の明かりが、海のように広がっている。そこには、種族を超えて手を取り合い、知恵を出し合い、明日を信じて生きる「強き民」の営みがあった。


 それは、かつての帝国のように力で抑えつけたものではなく、信頼と法によって結ばれた、強靭な絆の輝きであった。


「見よ。我らは城壁を築き、法を定め、異種族と盟約を結んだ。剣だけでなく、知恵と、何より『絆』という最強の武器を手に入れた」


「あの星が、我らを喰らおうと降りてくるなら、迎え撃つまでよ。我々が築き上げたこの国は、神の気まぐれで滅ぼせるほど、柔ではない」

 氏康の声には、老いを感じさせない、鋼のような響きがあった。


 それは、一人の武人としての闘志であり、国を背負った為政者の矜持であった。そして何より、この世界で生きる全ての命を守り抜くという、親としての決意であった。

 氏直は、祖父の横顔を見つめ、そして力強く頷いた。


「はい! 私も……私も、祖父上や父上のように、この国を守り抜きます! 私たちの未来は、誰にも奪わせません!」


「うむ。頼もしいぞ」

 氏康は孫の頭を撫で、そして再び、赤く燃える星へと視線を戻した。


 恐怖はない。あるのは、来るべき試練への静かなる興奮と、覚悟。


(来るなら来い、星の農夫よ。この北条氏康が蒔いた種は、貴様の鎌では刈り取れぬほど、太く、深く、根を張ったわ)

 風が吹き抜け、氏康の陣羽織をはためかせた。


 その背中には、北条の三つ鱗が、月光を浴びて誇らしげに輝いていた。


「――さあ、行くぞ新九郎。夜明けは近い。我らの戦は、まだ始まったばかりよ」



 これにて本編は完結となります。

 次はエピローグです。


 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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