第九十九話:禄寿応穏の盟約
翌朝。小田原城の大手門広場には、歴史の転換点を目撃しようとする数万の兵と民が集結していた。
昨夜の評定で共有された「世界の真実」という絶望的な秘密は、指導者たちの胸の内に深くしまわれている。彼らが今、民に示すべきは「絶望」ではなく、それを覆すための「希望」の形であった。
秋晴れの空の下、巨大な演台が組まれている。
その上に並ぶのは、かつては互いに刃を交え、あるいは忌み嫌い合っていた者たちだ。
ドワーフ王ブロック、オーク族長グルマッシュ、エルフの長エルウィン、ヴァレンシュタイン総督ゲオルグ、そして旧帝国の諸侯たち。
種族も、言葉も、信じる神さえも異なる彼らが、今、一列に並び、同じ方向を見据えている。その光景だけで、広場を埋め尽くす人々の間には、言葉にならないどよめきが広がっていた。
その中央に、北条氏康が進み出た。
彼は武器を持っていない。鎧も纏っていない。ただ、為政者としての威厳のみを身にまとい、静かに口を開いた。拡声の魔道具が、その声を隅々まで届ける。
「皆、聞け!」
「長きにわたる戦いは終わった。帝国は滅び、古い秩序は崩れ去った。だが、それは終わりではない。今日、この場所から、新たな歴史が始まるのだ!」
氏康は、並び立つ異種族の王たちを示した。
「見よ! これが、これからのこの大陸の姿である!」
「我らは、剣で血を流す時代を終わらせる。これより先、我らを結ぶ絆は『血』にあらず! 互いの暮らしを守り、育て、共に生きるための『盟約』である!」
氏康の合図と共に、板部岡江雪斎と大道寺政繁が、巨大な羊皮紙の巻物を広げた。
そこに記されているのは、勝者が敗者を支配するための条約ではない。昨夜、指導者たちが膝を突き合わせて練り上げた、共存のための五つの誓い。
『禄寿応穏の盟約』。
氏康は、高らかに宣言した。
「我らは、この盟約の下、一つの巨大な連合となる! その名を『大陸共存連合』とする!」
「この連合の目的は、領土の拡大にあらず! 全ての民が、飢えることなく、怯えることなく、天寿を全うできる世を創ること! ただ、それのみである!」
広場が、爆発したような歓声に包まれた。
人間が、ドワーフが、エルフが、オークが、それぞれの言葉で叫び、手を叩き、あるいは足を踏み鳴らす。それは、長引く戦乱と不安に疲弊しきっていたこの世界が、初めて手にした「確かな明日」への渇望の爆発であった。
その熱狂の中、厳粛な調印式が執り行われた。
ブロック王が、重厚なミスリルの印章を押す。
エルウィンが、世界樹の枝で作られた筆で署名する。
グルマッシュが、自らの血で手形を押す。
ゲオルグと帝国の諸侯たちが、騎士の誓いを立てて名を連ねる。
そして最後に、北条氏康が、力強い筆致でその名を記した。
その瞬間、空に五色の魔法花火が打ち上がり、新たな時代の幕開けを祝福した。
◇
式典の後。
本丸の軍議の間では、早くも連合としての最初の「戦」の準備が進められていた。
だが、テーブルの上に広げられているのは、侵攻作戦図ではない。膨大な兵糧と物資の輸送計画図であった。
「――帝都ルーメンでは、内乱と飢饉により、毎日数千の民が命を落としているとの報せです」
風魔小太郎の報告に、氏政が厳しい顔で頷く。
「放置すれば、疫病が蔓延し、大陸全土に災厄が広がる。……父上、我々の最初の一手は、決まっておりますな」
氏康は、頼もしげに息子を見つめ、頷いた。
「うむ。連合軍、総員出動せよ。ただし、持つのは槍ではない。米と、薬じゃ」
氏康は、居並ぶ諸将に号令した。
「これより、我らは帝都へ向かう! だが、これは征服ではない! 『救済』である!」
「ドワーフの鉄壁兵団は、崩壊した帝都の瓦礫を撤去し、道を開け! エルフの部隊は、森の力で汚れた水を浄化せよ! オークの部隊は、その剛腕で物資を運べ! そして我ら北条は、全ての民に『陽光米』を炊き出し、腹を満たしてやるのだ!」
ブロック王が、ニカッと笑った。
「戦よりも骨が折れそうだが、悪くない仕事じゃ。ハンマーの使い道としちゃ、上等だ」
グルマッシュも鼻を鳴らす。
「腹を空かせた奴を見るのは気に食わねえからな。運んでやるよ、山ほどな」
かつて殺し合った軍勢が、今、一つの目的のために動き出そうとしている。
それは、武力でねじ伏せる「覇道」ではなく、徳と実利で心服させる「王道」の行軍。
出陣の準備が進む中、氏康は、テラスに出て、慌ただしくも活気に満ちた城下を見下ろしていた。
その背後に、氏政が歩み寄る。
「父上。……これで、よろしいのですね」
「ああ。賽は投げられた。あとは、この流れを大河にするだけよ」
氏康は、空を見上げた。
そこには、まだ昼の光にかき消されて見えないが、確かにあの不吉な赤い星が存在している。
(見ているか、星よ。我らは、ただ喰われるだけの家畜ではない。こうして手を取り合い、運命に抗う術を持った『人』だ)
彼は振り返り、息子の肩を叩いた。
「氏政。帝都への救援、総指揮はそなたに任せる」
「父上? しかし……」
「わしは、ここ小田原で、連合という新しい神輿の土台を固める。現場で汗をかき、異種族と酒を酌み交わし、絆を深めるのは、次代を担うそなたの役目だ」
氏康の目は、厳しくも温かかった。
「行ってこい。そして、世界に見せてやれ。『禄寿応穏』の旗の下に集う我らが、どれほど強いかを」
「……はっ!」
氏政は、深く頭を下げた。その顔には、もはや迷いはない。
数日後。
小田原城から、前代未聞の大軍勢が出発した。
武器の代わりに食料を、殺意の代わりに希望を満載した、大陸共存連合の第一陣。
その先頭には、誇らしげに翻る「三つ鱗」の旗と、各種族の旗が並んで掲げられていた。
それは、来るべき「大災害」という絶望的な未来に対し、人類が初めて「団結」という答えを突きつけた、最初の一歩であった。
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