第九十八話:新たなる評定
古竜イグニスが天へと消え、枢機卿ロデリクの亡骸が塵へと還った後。
小田原城の本丸御殿、大広間は、戦勝の熱狂とは無縁の、冷たく張り詰めた緊張感に支配されていた。
それは、戦いの終わりを祝う宴ではない。大陸の未来、あるいはこの星の理そのものを左右する、歴史上類を見ない「評定」の始まりであった。
玉座には、不動の威容をたたえる北条氏康。その左右を、次代を担う氏政と、世界の秘密を知る幻庵が固める。
一段下には、武の双璧、北条綱成と遠山綱景。そして、氏康の子である氏照、氏邦。外交僧・板部岡江雪斎と、内政を預かる大道寺政繁は、書記として末席に控えている。
そして、広大な円卓を囲むように、この地に集った全ての勢力の長たちが顔を揃えていた。
山の王国カラク・ホルンの王、ブロック・アイアンフィスト。
鉄牙部族連合を率いる大族長、グルマッシュ。
森の民を導く指導者、エルウィン。
そして、新生ヴァレンシュタイン領の総督、サー・ゲオルグ。
だが、この日の評定には、もう一つの勢力が招かれていた。
帝国の内乱から逃れ、あるいは新たな秩序に活路を見出すべく、この東の異端国家に救いを求めてきた、旧帝国の諸侯たちである。
彼らは皆、豪奢だが泥に汚れた衣装を纏い、不安げに視線を泳がせていた。つい先日まで北条家を「蛮族」と蔑んでいた彼らの顔に浮かぶのは、敗戦国としての屈辱と、自分たちがこれからどうなるのかという、隠しようのない恐怖の色であった。
重い沈黙を破り、氏康は静かに立ち上がった。
「皆、よう集まってくれた。先の大戦、見事であった。じゃが、あの戦はもはや過去のものと知れ」
彼の視線は、まず連合軍の長たちへ、そして次に、身を固くする旧帝国の諸侯たちへと向けられた。
「帝国は滅んだ。だが、我らが真に戦うべき敵は、人の国ではなかった。今日、この場に皆を集めたのは、その『真の敵』の正体を、全ての者に共有するためである」
「幻庵。皆に伝えよ。我らがこの地に呼ばれた、本当の理由を」
幻庵はゆっくりと進み出た。
その老いた瞳には、世界の深淵を覗いた者だけが持つ、深く、冷徹な知性の光が宿っていた。
彼は『沈黙の図書館』で読み解いた『創世神話の原典』に記されていた戦慄の真実を、淡々と、しかし容赦なく語り始めた。
「――皆、心して聞かれよ。我らが『転移』と呼んだこの現象。それは救済にあらず。この滅びゆく世界を延命させるための、『生贄の召喚』にございまする」
広間が、さざ波のようにどよめいた。特に、初めてそれを耳にする旧帝国の諸侯たちの顔は、驚愕に歪んでいた。
「この星は、周期的にその生命力を失い、死に瀕する。その病を癒すため、星は異界から生命力に満ち溢れた文明を、その民ごと『種子』として移植するのです」
「種子は根付き、文明を築き、繁栄する。そして魂の総量が頂点に達した時……再び『大災害』という名の『収穫期』が訪れる」
「星は、文明が蓄えた全ての生命力を根こそぎ喰らい尽くし、若さを取り戻す。……これこそが、この世界のあまりにも残酷な『理』の全貌」
幻庵は、盟友であるブロックとエルウィンに、悲しげな視線を向けた。
「そなたたちも知っての通りだ。ドワーフも、エルフも、かつてこの星に選ばれた『種子』であった。我らは皆、肥え太らされ、喰われるのを待つ家畜に過ぎぬのです」
再びの、静寂。
それは、ブロックたちにとっては古傷を抉られるような痛みであり、帝国の諸侯たちにとっては、拠って立つ世界が崩壊する音であった。
「……戯言を」
一人の諸侯が、震える声で叫んだ。
「そ、そのような……神への冒涜だ! 我ら人間こそが、神に選ばれた地上の支配者であるはず! 餌だと? 供物だと? 巫山戯るな!」
「そうです! あの古竜も、きっと神の使いに違いない!」
彼らの絶叫は、恐怖の裏返しであった。
絶望が、広間を黒く塗りつぶしていく。
戦に勝ったところで、何の意味がある。どうせ、我らは全て、この大地に喰われるだけの運命。
その重苦しい空気が、全てを圧殺しようとした、その時。
ククッ……ハハハハハ……!
玉座に座す北条氏康が、静かに、しかし心の底から楽しむかのように、喉を鳴らして笑い始めた。
そのあまりにも不謹慎で、力強い笑い声に、全ての視線が彼へと注がれる。
氏康は立ち上がると、広間の中央へと進み出た。そして、絶望に沈む全ての者たちの顔を一人ひとり見据え、不敵に言い放った。
「世界の理が、我らを喰らうというのなら、その理ごと、喰らい返してくれるわ」
その声に、悲壮感はない。あるのは、途方もない敵を前にした武人の、獰猛なまでの覇気。
「ブロック殿。そなたの五千年の歴史は餌などではない。この理不尽な星に初めて牙を剥くための、最強の『槌』よ」
「エルウィン殿。そなたの森は檻ではない。農夫の目を欺き、その喉元を掻き切るための『隠れ処』だ」
「そして、帝国の諸侯よ。神がおらぬと嘆く必要はない。ならば今度は、我ら自身の手で、民のための真の『神』を、この地に作り上げればよいではないか」
氏康は、天に拳を突き上げた。
「皆、顔を上げよ! 我らが戦うべき相手は、もはや人間同士ではない! この世界の、理不尽な運命そのものよ!」
「ならば話は早い。まず目の前の混乱を治め、この大陸の全ての民を我らの旗の下に束ねる。そうして初めて、我らは天と交渉する卓に着くことができる! 違うか!」
その言葉は、絶望を燃料として燃え上がる、反逆の炎であった。
諸侯たちの目に、光が戻る。そうだ、ただ喰われるのを待つよりは、この底知れぬ男に賭けてみるのも悪くはない。
「――その旗、このわしがお見せしよう」
氏康は、円卓の中央へと歩み出た。
「我らが為すべきは、ただ一つ。この場にいる全ての種族、全ての国の民の暮らしそのものを、一つの巨大な『城』とすることよ」
「守るべきは王の玉座にあらず。民が眠る藁葺きの屋根。築くべきは城壁にあらず。民が笑い合う市へと続く道。……我らが掲げるべき旗は、ただ一つ!」
彼は両腕を広げ、その言葉を、大陸の全ての指導者たちの魂に刻みつけるように告げた。
「――『禄寿応穏』」
初めて聞くその異質な響きに、ブロック王たちが眉をひそめる。
「『禄』とは、民が食うに困らぬための恵み。『寿』とは、民が病や戦に怯えることなく天寿を全うできる命。『応』とは、その二つに為政者が常に応え続けるということ。そして『穏』とは、その営みが永遠に穏やかに続いていく世のことじゃ」
「民の禄と寿に、穏やかに応える。それこそが為政者の唯一にして最高の務めであるという、我らが国づくりの魂そのものよ」
広間は静まり返っていた。
神の栄光でも、王の権威でもない。ただ、民の暮らしを守るという、あまりにも単純で、しかし誰も成し得なかった深遠な哲学。
「我、北条氏康はここに宣言する!」
「大災害というこの星の宿命に抗うため、我らは種族も国も過去の恨みも乗り越え、ただ一つの巨大な同盟を結ぶ!」
「この盟約を『禄寿応穏の盟約』呼ぶ!」
その宣言と共に、江雪斎が進み出て、盟約の条文を読み上げた。
互いの主権と文化の尊重。共同防衛。技術と知識の共有。関税撤廃と自由交易。そして、全ての決定を合議によって決する『大陸共存連合』の設立。
それは、帝国による支配とは対極にある、共存のためのシステムであった。
ブロック王が、グルマッシュが、サー・ゲオルグが、次々と賛同の意を表明する。帝国の諸侯たちも、その新しい秩序に未来を見出し、膝をついた。
その時、エルウィンがゆっくりと立ち上がった。
「お待ちください、氏康殿」
彼の凛とした声に、視線が集まる。
「今、我らは大陸の未来を導く盟約を結ぼうとしております。ですが、その盟約を率いる貴方様が、今なお一地方の名である『相模守』を名乗り続けるのは、あまりにその器を矮小化するものではございませんか」
エルウィンは氏康の前に進み出ると、深く膝をついた。
「氏康殿。貴殿はもはやただの領主ではございません。この大陸に新たな秩序をもたらした、我ら全ての民の指導者です。どうか、そのお立場に相応しい『王』の称号をお名乗りください」
広間が期待のどよめきに包まれた。そうだ、この男こそ王に相応しい。
だが、氏康は穏やかに、しかしきっぱりと首を振った。
「……ありがたい申し出だ、エルウィン殿。だが、その名はわしには過ぎたるものよ」
彼は膝をつくエルウィンの肩にそっと手を置いた。
「『王』とは、民を支配する者の名。わしが望むは支配ではない。ただ民と共に、この国の礎を支える一人の普請役でありたいだけじゃ。北条は、どこまで行っても北条。相模守で、十分すぎるわ」
王となることを、彼は選ばなかった。
その姿は、彼が掲げる「禄寿応穏」が権力欲から来るものではない、真の魂であることを、何よりも雄弁に物語っていた。
巻物が広げられ、各種族の長たちが署名をしていく。
そして最後に、北条氏康がその中央に、揺るぎない筆跡で「相模守 北条氏康」と記した。
その日、小田原の地で、一つの巨大な意志が生まれた。
彼らの戦いは、もはやただの生存競争ではない。
世界の理不尽な運命そのものへの、壮大な反逆の始まりであった。
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