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第九十七話:騎士王の十字架


 小田原城、本丸御殿。

 その一室は、戦勝の喧騒とは無縁の、張り詰めた静寂に支配されていた。


 部屋の中央には、ただ二人。玉座ではなく、あえて同じ高さの席に座す総大将・北条氏康。そしてその前に、客将として招かれた旧レミントン領の領主、サー・ゲオルグ・フォン・ヴァレンシュタイン。


 ゲオルグは、自らの領地で北条家から派遣された文官たちと共に、戦後復興の第一歩を踏み出していた。先の反乱を武力ではなく慈悲で収めた彼の統治は、民の心を確かに掴み始めていた。


 だが、彼の心は未だ晴れることのない深い霧の中にあった。先の評定で下された、五万もの帝国兵捕虜の受け入れ。そのあまりにも重い責務が、彼の双肩に鉛のようにのしかかっていたのだ。


「サー・ゲオルグ。そなたのこれまでの働き、見事であった」

 氏康の声は静かであったが、その一言一句に歴史を動かすほどの重みが宿っていた。


「そなたは我が北条のやり方を学び、それをそなた自身の民のために見事に使って見せた。民は、そなたを圧政者オズワルドに代わる新たな光として見始めている」


「……お言葉、痛み入ります。なれど、わたくしはただ、為すべきを為しているまでのこと」

 ゲオルグの声は硬かった。それはもはや捕虜のそれではない。一つの領地を背負う、指導者の声であった。


 氏康は、その硬質な誇りをむしろ好ましいとでも言うように、静かに頷いた。


「うむ。その『為すべきこと』について、だ。そなたには、更なる重責を担ってもらわねばならぬ」


「五万の元帝国兵。彼らはもはや兵士ではない。だが、民でもない。ただ憎悪と絶望の狭間でその魂を彷徨わせる、巨大な亡霊の群れよ。彼らを導き、新たな生を与える者が、どうしても必要だ」

 氏康は立ち上がると、ゲオルグの前に立った。


 その目は勝者のそれではない。同じ「国」という怪物を背負う者としての、静かで、しかし絶対的な覚悟を宿した王の目であった。


「ゲオルグよ。そなたに新たな役目を与える。旧レミントン領の、ただの領主ではない。かの地の、正式な『君主』となるのだ」


「……何と、申されるか」

 ゲオルグは自らの耳を疑った。


「私を……君主に、と? 北条の傀儡かいらいとして、飼い殺しにするおつもりか」

 その言葉には、対等な立場を求める領主としての矜持と、警戒心が滲んでいた。

 だが、氏康は静かに首を横に振った。


「違う。そなた自身の民のための、真の指導者となれと言っておるのだ」


「我らはそなたに力を貸そう。我らが誇る『陽光米』を民の腹を満たすための糧として。幻庵が生み出した『魔石機関』を荒れ地を耕すための力として。そして、我らが誇る『法』と『制度』を国を治めるための知恵として。……だが、それらを使い、どのような国を築くかは、全てそなたの双肩にかかっておる」

 氏康は、ゲオルグの目を射抜くように見つめた。


「これは慈悲ではない。取引でもない。『試練』だ。そなたの信じる『騎士道』が、ただの自己満足か、あるいは真に民を救う力となりうるのか。それをこの乱世で、そなた自身の手で証明してみせよ」

 ゲオルグは絶句した。


 目の前の男は、自分を支配しようとしているのではない。試しているのだ。自分という一人の男の、その魂の奥底にある騎士としての本質を。


 小田原で見た「片葉の会」の光景が、脳裏に蘇る。死ぬ場所ではなく、生きるための戦場を。


(……これか。これこそが、私がこの男に敗れた本当の理由か)


 武勇ではない。知略でもない。人の魂そのものの、あまりにも巨大な器の差。


 誇りを捨てるのか、民を捨てるのか。

 いや、違う。誇りを懸けて、泥を被るのだ。


 彼は長い、重い沈黙の後、その場にゆっくりと、しかし深く片膝をついた。それは臣下の礼ではない。一つのあまりにも重い使命を、一人の君主として受け入れるための、覚悟の姿勢であった。


「……その、あまりに非道で、そしてあまりに慈悲深いご命令。このサー・ゲオルグ、我が魂の全てを以て拝命いたしまする」

 彼は顔を上げた。その目にはもはや葛藤はなく、ただ決意の光だけが宿っていた。


「ですが、勘違い召されるな。私は北条に屈したのではありません。ただ、我が民のために、それだけです。」

 その捕虜の身でありながらなお失われぬ気概に、氏康は初めて満足げな笑みを浮かべた。


「よかろう。それでこそ竜騎士団長よ」

 氏康は懐から一枚の和紙を取り出した。そこには流麗な筆で、新たな領地の名と、ゲオルグの新たな称号が記されている。


「そなたの故郷は、もはや旧レミントン辺境伯領ではない。そなたがその手で再生させる新たな国、『ヴァレンシュタイン領』と改めることを許す」


「そして、そなたに新たな名乗りを与える。唐の国で地方の長を意味していた『総督』の名乗りを許す。ヴァレンシュタイン総督領の初代総督として、かの地を安寧へと導いてみせよ」


 ◇


 それから数週間後。

 五万の捕虜が移送された、ヴァレンシュタイン領の中央平原。


 その中央に急ごしらえの演台が組まれ、サー・ゲオルグはただ一人、その上に立っていた。


 彼が纏うのは、帝国の紋章が刻まれた鎧ではない。小田原の職人が敬意を込めて打ち直した、どこの国にも属さぬ、ただ一人の騎士としての白銀の甲冑。


 眼下には、五万の絶望と憎悪に満ちた元帝国兵たちの視線が突き刺さる。彼らは武器を持たず、誇りを失い、ただ飢えた獣のような目をしていた。


「――聞け! かつての我が同胞たちよ!」

 ゲオルグの声が、魔法の拡声器を通り、平原の隅々まで響き渡る。


「私はサー・ゲオルグ・フォン・ヴァレンシュタイン! 貴様らと共に戦い、そして貴様らと共に敗れた、ただの騎士だ!」


「我らが信じた帝国は滅んだ! 我らが祈りを捧げた神は沈黙した! 我らは見捨てられたのだ!」

 そのあまりに率直な敗北の言葉。捕虜たちの間に動揺が走る。


「貴様らは今、何を思うか! 己を打ち破った北条への憎しみか! あるいは己を見捨てた帝国への恨みか!」

「だが、憎しみも恨みも腹を満たしはしない! 凍える夜にその身を温めはしない!」

 ゲオルグは拳を握りしめた。


「北条の指導者は、我らに選択を与えられた! 一つは、飢えと内乱が渦巻く、もはや故郷ではない荒野へと無様に帰る道! そして、もう一つは――」

 ゲオルグはそこで一度言葉を切った。そして、自らの血の滲むような覚悟をその声に乗せた。


「――もう一つは、この地に留まり、自らの手で我らの新たな国を築く道だ!」


「武器を鍬に持ち替えよ! 剣を槌に持ち替えよ! この我らが血で汚した大地を、今度は我らの汗で清めるのだ!」


「北条は約束された! 働く者には腹一杯の粥を! 家を建てる者には土地と木材を! そしてこの地で生まれる我らの子らには、二度と我らのような偽りの正義のために死ぬことのない、安寧の未来を!」

 彼は自らの腰から剣を抜き放つと、その切っ先を天ではなく、眼下の大地へと突き立てた。


 ガギンッ! という硬質な音が響く。

「私は決めた! 私はもはや帝国の騎士ではない! この『ヴァレンシュタイン総督領』に生きる全ての民に、この剣を捧げる初代『総督』となる!」


「我が十字架はあまりに重い! だが、貴様らと共に背負うならば、あるいはこの絶望の荒野に小さな国を築けるやもしれぬ!」


「さあ、選べ! 滅びゆく過去に殉ずるか! あるいは私と共に、この茨の道を歩むか!」

 その魂からの叫び。

 平原は静まり返っていた。風の音だけが通り過ぎる。


 やがて、捕虜たちの最前列にいた一人の若い兵士が、震える足で一歩前に出た。そして、その手に持っていた錆びついた兜を大地に置くと、深く、深くゲオルグの前に膝をついた。


 それを皮切りに、一人、また一人と兵士たちが膝をついていく。

 波紋が広がるように、五万の男たちが次々と恭順の意を示していく。


 それは歓声ではなかった。

 絶望の底で初めて見出した、小さな、しかし確かな希望の光に対する、声なき涙の音であった。嗚咽が、さざ波のように広がる。


 その日、旧レミントン辺境伯領にヴァレンシュタイン総督領、新たな君主が誕生した。


 彼は栄光の冠ではなく、民の命というあまりにも重い贖罪の十字架をその双肩に背負っていた。

 夕日を背に立つその背中は、竜の背にあったどの時よりも大きく、そして気高く見えた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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