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第九十六話:三十万の遺産

 帝国十字軍が遺したものは、骸の山と破壊された大地だけではなかった。


 小田原城の西、かつて決戦の舞台となった平原には、巨大な、そしてあまりにも重い「負の遺産」が残されていた。


 降伏した帝国兵たち。その数、およそ五万。


 彼らは武器を取り上げられ、急ごしらえの木の柵で囲われた巨大な収容所に押し込められていた。だが、それはもはや「管理」と呼べる状態ではなかった。


 小田原の兵二万に対し、捕虜は五万。数が違いすぎる。

 監視に当たる北条兵の顔には、勝利の安堵など微塵もない。あるのは、飢えた獣の群れを檻に入れた調教師のような、極限の緊張感だけだった。


「……水だ! 水をくれ!」


「怪我人が死んだぞ! 運び出せ!」


 柵の中からは、絶え間なく怒号と悲鳴が響いてくる。敗戦のショックから立ち直りつつある捕虜たちの目には、飢えと、未来への絶望、そして監視する者たちへの静かな憎悪が宿り始めていた。


 この五万という数は、いつ爆発するとも知れぬ巨大な火薬庫と化していたのだ。

 その火薬庫の熱を、城壁の内側で誰よりも肌で感じていたのは、内政を統括する北条氏政であった。


 評定の間。中央に座す父・氏康の前で、彼の声はこれまでにないほどの焦燥を帯びていた。


「父上! もはや限界にございます! 五万もの訓練された兵を、この城下のすぐ傍に置いておくのはあまりに危険すぎる! 我が兵たちは不眠不休で監視を続けておりますが、いつ暴動が起きてもおかしくない状況です!」

 その言葉を引き取り、腹心である大道寺政繁が物理的な問題を突きつける。


「加えて、場所の問題が。これだけの数を収容し続ける土地は、この小田原にはございません。既に開拓した農地の一部を潰して収容所としておりますが、これでは本末転倒。民の間にも、捕虜への食料配給に対する不満が生まれ始めております」

 

 その重い報告に、評定の間に集った連合軍の長たちの間に、張り詰めた緊張が走った。 


「……殺すしかあるまい」

 最初にその沈黙を破ったのは、オークの族長グルマッシュであった。彼は巨大な拳で円卓を叩きつける。


「話は単純だ! 奴らが牙を剥く前に、こちらが牙を剥くまでよ! 全員、奴隷とせよ! 抵抗する者は見せしめに殺し、恐怖で縛り付ける! それが、数を支配する唯一の理であろうが!」

 そのあまりにもオークらしい、力による支配の論理。


 その言葉をドワーフ王ブロックが、ゆっくりと首を横に振って否定した。


「グルマッシュ殿。それは火薬庫の隣で火遊びをするに等しい愚策よ。五万の恨みは、いずれ我らの足元を掬う毒の沼となろう」

 ブロック王は白銀の髭を扱きながら、より冷徹で現実的な策を口にした。


「安全を確保する道は一つしかない。将校どもは責任を取らせ、首を刎ねる。残りの雑兵は、二度と我らに刃向かえぬよう、利き腕の筋を切った上で、崩壊したという帝国へと送り返す。彼らが故郷で野垂れ死のうと、我らの知ったことではない。非情であっても、自国の民を守るのが王の務めぞ」

 奴隷か、追放か。いずれもが血の匂いのする、しかし戦国の世では当然の選択肢。


 そこへ、これまで沈黙を守っていた騎士王サー・ゲオルグが、重い口を開いた。


「……彼らは、かつて私の同胞でした」

 ゲオルグの声は震えていた。


「偽りの神と愚かな領主の言葉を信じ、この地に刃を向けた。その罪は万死に値しましょう。ですが……その罪を彼ら一人ひとりに問うことが、真の『正義』と呼べるのでしょうか」


「彼らの多くは、ただの徴用された農夫であり、町で暮らす名もなき民でした。彼らを奴隷とし、あるいは廃人にして荒野に放り出すことが、我らが掲げる『新たな秩序』の始まりだというのなら……それは、我らが倒したはずの帝国と、一体何が違うというのですか」

 その魂からの問いかけ。


 正論では片付かない倫理の壁。評定の間は、答えのない重い沈黙に支配された。

 その混沌の中心で、これまで全ての議論にただ静かに耳を傾けていた北条氏康が、ゆっくりと立ち上がった。


 彼はそれぞれの長たちの顔を、一人ひとり、その黒い瞳で見据えた。


「ブロック殿。そなたの言う通り、安全こそが国の礎だ。だが、五万の飢えた獣を荒野に放てば、彼らはやがて我らの国境を脅かす五万の盗賊となろう。それこそが最大の脅威ではないか」


「そして、サー・ゲオルグ殿。そなたの言う通り、我らはただの勝利者であってはならぬ。この大陸に、新たな『理』を示す者でなくてはならぬ」

 氏康は、円卓の中央に広げられた地図を、その指でとん、と叩いた。


 その場所は、小田原ではない。先の戦で主を失い、ゲオルグのもと復興へと道を進んでいたが、また、この大戦で荒廃した「旧レミントン領」であった。


「グルマッシュ殿、ブロック殿。そなたたちは根本を間違えておる。問題は、五万の捕虜をいかにして『縛る』かではない。いかにして、彼らを『捕虜ではないもの』に変えるか、だ」

 氏康の言葉に、全員が息を呑む。


「我らは彼らに『仕事』を与える。武器を、鍬と槌に持ち替えさせ、この自分たちが破壊しようとした大地を、自らの手で再建させるのだ。その労働には、我らの民と同じく、正当な対価――食料と住まいを約束しよう」


「彼らをこの小田原に置くのではない。旧レミントン領へと移送し、サー・ゲオルグ、そなたの指揮の下、新たな国を彼ら自身の手で築かせるのだ」

 それはあまりにも壮大で、そしてあまりにも北条氏康らしい策であった。


 治安の問題を「物理的な距離」で解決し、場所の問題を「未開の土地の開拓」で解決する。そして何より、五万の「不満分子」を、五万の「国家建設の労働力」へと、その役割そのものを完全に反転させてしまう。

 敵を殺すのではなく、生かし、取り込み、自らの力とする。


「……狂っておる」

 ブロック王が、呻くように言った。


「……だが、面白い。実に面白いわい。五万の敵を、五万の民に変えるだと? そのような途方もない賭け、このブロック、生まれてこの方聞いたこともない」


「ガハハ! 働いた分だけ飯が食える、か。それは我らオークの理屈にも似ている。……悪くねえ」

 グルマッシュもまた、獰猛な笑みを浮かべて賛同した。


 氏康は最後に、静かに力強く宣言した。

「これは、ただの戦後処理ではない。我らが帝国に代わり、この大陸に新たな百年を築くための、最初の布石よ。これこそが、我が北条が掲げる『禄寿応穏』の、真の姿じゃ」

 その言葉は、新生・北条領がただの東の小国から、大陸全体の未来を左右する巨大な「覇者」へと、その一歩を踏み出したことを告げる、力強い産声であった。


 五万の捕虜は、もはや重荷ではない。

 新たな国を築くための、巨大な礎石となったのだ。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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