第九十五話:帝国の弔鐘と森の迷走
北条家がもたらした勝利の一石は、大陸という巨大な水面に、かつてない激震の波紋を広げていた。それは、二つの古き大国にとって、終わりの始まりを告げる弔いの鐘の音であった。
帝国の弔鐘
大陸中央、神聖帝国の首都ルーメン。
その日、帝都は建国以来初めて経験する恐慌に包まれていた。
東方より、一羽の力尽きた伝令鳥がもたらした血に汚れた報告書。そこに記された内容は、当初、誰もが異端者による悪質な狂言であると信じようとした。
白亜の宮殿、その最も豪華な一室「獅子の間」では、皇帝主催の緊急評議会が開かれていた。集った大貴族たちは、まだ東の空の下で繰り広げられているはずの一方的な勝利の報告を待ちわび、退屈そうにワイングラスを傾けていた。
「今頃、ロデリク卿の軍は、あの蛮族の城を更地に変えている頃合いかな」
「我が息子も聖堂騎士団の一員として参加しておる。初陣を飾るには手頃な相手であったわ」
そんな傲慢で、腐敗した果実のような甘ったるい空気を、血相を変えて駆け込んできた一人の侍従が引き裂いた。
「も、申し上げます! 東方十字軍より、最終報告が!」
侍従の手から報告書をひったくった宰相が、その内容に目を通す。彼の血の気のない顔が、みるみるうちに死人のように蒼白に変わっていく。
「……三十万の十字軍、壊滅……」
宰相のかすれた声が、水を打ったように静まり返った広間に響いた。
「宮廷魔術師団、竜騎士団、聖堂騎士団、その悉くが地に堕ち……そして、枢機卿ロデリク閣下は、自らが呼び出した禁忌の力によってその身を滅ぼされた、と……」
「馬鹿なッ! ありえん!」
一人の公爵が、ワイングラスを床に叩きつけて叫んだ。赤い液体が絨毯に広がり、不吉な血痕のように見える。
「我が息子も、あの十字軍に参加しておったのだぞ! 帝国最強の軍勢が、東の蛮族ごときに、なぜ!」
「ロデリクめ! あの狂信者が我らを破滅に導いたのだ! 全ては奴の独断であった!」
「東の蛮族はどうなる!? このまま帝都に攻め込んでくるのではないか!」
大貴族たちは責任をなすりつけ合い、見苦しい罵詈雑言を飛ばし合う。彼らの目には、国の行く末よりも、自らの保身と損得しか映っていなかった。
だが、その醜い混乱の裏で、より冷徹な「力」は既に動き出していた。
帝国軍総司令官、ヴァルケンブルク元帥は、評議会の喧騒を冷ややかな目で見下ろすと、静かに席を立った。彼は、自らが率いる近衛騎士団の部隊長に、ただ短く、感情のない声で命じた。
「――皇帝陛下は、この未曾有の国難に際し、お心を病まれた。これより、帝国の全権は軍が代行する」
その日の深夜。
皇帝の寝室から、短い悲鳴が上がった。公式には、心労による突然の崩御と発表された。
その喉元に近衛騎士団の紋章が刻まれた短剣が突き刺さっていたことを知る者は、もうこの世にはいない。
皇帝の死は、帝国という巨大な樽の、最後の箍を外した。
ヴァルケンブルク元帥が軍事政権の樹立を宣言すれば、豊かな穀倉地帯を持つ南方の公爵がそれに反発し、独立を宣言。
西方の山岳地帯に拠る将軍もまた、自らが新たな皇帝であると名乗りを上げる。
教会もまた、ロデリクの暴走を非難する改革派と、その殉教を讃える原理主義派に分裂し、互いを「異端」と呼び合う血みどろの内紛を開始した。
三十万の兵士とその指導者を失った帝国は、もはや一つの国家ではなかった。
自らの血を求めて喰らい合う、巨大な獣の骸。
大陸を支配した千年帝国の弔鐘は、あまりにも唐突に、そしてあまりにも無様に鳴り響いたのである。
森の迷走
生命樹の都「イグドラシオン」。
数千年の時が止まったかのような永遠の黄昏に満ちた都にも、外界の激動は風の精霊の囁きとなって届けられていた。
長老会議長ロエリアンは、人間たちのその愚かな争いの結末を、自らの執務室で静かに聞いていた。
(……帝国も滅んだか。所詮は、夏蝉のように騒がしいだけの種族よ)
彼の心にあったのは安堵であった。帝国という後ろ盾を失ったことへの焦りではない。これで森を乱す忌々しい二つの勢力が共倒れになったのだ、と。
これで、森には再び永遠の静寂が戻る。
彼はそう信じていた。信じようとしていた。
その確信は、駆け込んできた「森の守り手」の、絶望に満ちた報告によって粉々に打ち砕かれる。
「申し上げます! エルウィンの……いえ、裏切り者どもの残党が、森の各地で若者たちに甘言を囁いております!」
「『見よ! 長老たちの目は節穴であった!』『帝国は滅び、北条こそが新たな時代の覇者となった!』『今こそ古き殻を破り、我らと共に新しい世界を築こう』と!」
「その言葉に心を惑わされ、我らの監視を潜り抜け、東の人間たちの都へと向かう者が後を絶ちませぬ! 今日だけで、五十名が姿を消しました!」
ロエリアンの老いてなお美しい顔が、怒りと屈辱に歪んだ。
北条家は帝国を打ち破っただけではない。その勝利という抗いがたいほどの甘い蜜で、森の未来を担うはずだった若者たちの魂を、根こそぎ奪い去ろうとしているのだ。自分の正しさが、音を立てて否定されていく。
「……許さぬ」
ロエリアンの口から、氷のように冷たい声が漏れた。
「これ以上、一匹たりともあの穢れた都へは行かせぬ。森は我らが聖域。これ以上、外の雑音に惑わされてはならぬ」
彼は評議会に集った長老たちを前に、狂気ともいえる最後の決断を下した。
「これより、我らは森を完全に閉ざす。古の『大結界』を発動させ、何人たりともこの森に出入りすることを許さぬ! 外に出た裏切り者どもは、二度とこの聖なる土を踏むことはできぬと思え!」
その宣言に、比較的若い長老の一人が恐る恐る進言する。
「議長、しかし大結界の発動には、生命樹そのものの莫大な魔力が必要となります! それは、森の寿命そのものを百年単位で縮める禁断の儀式……!」
「黙れッ!」
ロエリアンの絶叫が広間に響き渡る。
「百年、二百年の寿命なぞ、森の永遠に比べれば瞬きほどの時間に過ぎぬ! 重要なのは、変化という名の病から、我らが神聖なる伝統を守り抜くこと! それこそが、我らに課せられた唯一の使命ぞ!」
ロエリアンの瞳には、もはや正気の色はなかった。
失われゆく自らの権威と、古き良き秩序への盲目的な執着だけが、狂気の炎となって燃え盛っていた。
守るべき森の命を削ってでも、己の正しさを守ろうとする老いた指導者。
帝国という共通の敵を失ったことで、エルフの森の内部対立は、もはや誰にも止められぬ破滅への坂道を転がり始めていた。
北条家がもたらした勝利の光は、その意図とは裏腹に、古き大国に癒やしようのない深い影を落としていたのである。
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