第九十四話:勝敗の塵、竜の眼差し
英雄アストリオンの魂が、数千年の苦しみから解放され、黄金の光となって天へと還っていった後。
戦場には、死んだような静寂だけが残された。
魂を凍らせるほどの憎悪の気配は完全に消え失せ、代わりに夜明け前の、血と鉄の匂いが混じった冷たい風が、破壊され尽くした大地を吹き抜けていく。
やがて、東の空が白み始め、朝の最初の光が、折り重なる無数の骸と、無残に砕け散った攻城兵器の残骸を、無慈悲に照らし出した。
連合軍の兵士たちは、まだ動けずにいた。彼らは、つい先程まで、世界の終わりそのものを目の当たりにしていたのだ。
その絶望が、あまりに唐突に、そしてあまりに神々しい形で幕を閉じたという現実を、まだ魂が受け止めきれずにいる。勝利の喜びよりも先に、生き残ってしまったことへの困惑が支配していた。
だが、その静寂を破るように、城壁の上から、総大将・北条氏康の張りのある声が響き渡った。
「――勝鬨は、まだ上げぬ」
その声は、勝利の昂揚ではなく、為政者としての重い責務に満ちていた。
「負傷者を収容せよ! 動ける者は、仲間を助けよ! そして、敵であった者たちにも、せめてもの弔いを。この地に散った全ての魂に、貴賤の別はない。皆、何かのために戦い、散った者たちぞ」
その号令が、兵士たちを現実へと引き戻した。
医療院から「片葉の会」の者たちが駆けつけ、敵味方の区別なく、まだ息のある者たちに手を差し伸べ始める。オークたちも、その怪力を、今は瓦礫をどかし、生き埋めになった者たちを救い出すために使っていた。
本当に戦は、終わったのだ。
誰もが、その事実を、目の前のあまりにも夥しい死の数と共に、痛みとして実感していた。
その後処理の喧騒の中。
風魔の一人が、音もなく氏康の元へ現れ、一つの報せをもたらした。
「殿。帝国軍の本陣跡地にて、枢機卿ロデリクと思われる亡骸を、発見いたしました」
氏康は、幻庵と数名の護衛だけを伴い、その場所へと赴いた。
かつては豪奢な天幕が張られていたであろう場所は、今は見る影もなく、ひしゃげたポールと、焼け焦げた絨毯だけが散乱している。
そして、その中央。瀆神の儀式が行われたのであろう祭壇の跡地で、一人の男が、玉座に座るかのような姿勢のまま、絶命していた。
枢機卿ロデリク。
その亡骸は、異様であった。
その肉体は、まるで全ての生命力を吸い尽くされたかのように、ミイラのように干からび、その指は、粉々になった教会の聖印を、今なお固く握りしめている。
かつて神々しいほどに整っていたはずのその顔は、深い苦悶と、そして最後の瞬間に、自らが信じた神にさえ裏切られたかのような、無限の虚無を刻みつけていた。
「……神を信じ、神を騙り、そして、神ならぬものを呼び出した末路か」
幻庵が、静かに、哀れむように呟いた。
「哀れな男よ。彼もまた、己が信じる『正義』の、哀れな虜であったに過ぎぬ。この星の理に踊らされた、道化の一人にすぎなんだ」
氏康は何も答えなかった。
大陸最大の権勢を誇った男の、あまりに惨めで、孤独な最期をその目に焼き付ける。この勝利が、決してただの武運によるものではないことを、そして勝者も敗者も、等しくこの残酷な世界の掌の上にあることを、改めて噛み締めていた。
連合軍の誰もが、これで全てが終わったのだと、そう思った、まさにその時であった。
天が、陰った。
嵐の予兆ではない。雲一つないはずの蒼穹が、突如としてその色を失ったのだ。
まるで、巨大な掌が、太陽そのものを覆い隠したかのように。
「……な、なんだ……!?」
城壁の上の見張りが、絶叫する。
戦場にいた全ての者がその異変に気づき、空を見上げた。
そして彼らは、人の身が生涯で一度たりとも見るべきではない、神話の光景を目の当たりにする。
雲の遥か上。
その、世界の天井ともいえる場所から、一つの巨大すぎる影が、ゆっくりと、しかし抗いがたい威厳を以て降下してくる。
その鱗は、磨き上げられた黒曜石のように鈍色の光を放ち、一枚一枚が家ほどもある。その翼は、広げれば小田原の城下町そのものを容易く覆い尽くしてしまうであろう広大さ。
そして、その双眸は溶岩のように赤く燃え盛り、この地上の全ての営みを値踏みするかのように見下ろしていた。
古竜イグニス。
数千年の眠りから覚醒した、世界の理の番人。
竜は、小田原城の上空、全ての者がその姿を仰ぎ見る絶妙な高度で、その巨体を留めた。
羽ばたき一つで暴風が巻き起こり、地上の旗指物が裂けんばかりにはためく。
だが、竜は攻撃も咆哮もしなかった。
ただ一度だけ、ゆっくりとその戦場の上空を旋回した。
その眼差しが、全てのものを射抜いていく。
連合軍の勝利の陣形。帝国軍の無残な敗残の跡。そして、北条家が築き上げた、異質で、しかし力強い秩序を放つ小田原城そのものを。
それは、裁定であった。
人間たちの矮小な、しかし世界の理をも揺るがすほどの巨大な争いの結末を、ただその目に焼き付けるための静かな観察。
その圧倒的な存在感を前に、もはや人も、ドワーフも、エルフも、オークもなかった。
全ての者が等しくその場に立ち尽くし、あるいは膝をつき、ただ天を仰ぐことしかできない。綱成の【剣聖】の力さえ、この星そのもののような存在の前では、赤子の戯れに等しいことを、誰もが本能で理解していた。
やがて、古竜はその裁定を終えたとでも言うように、静かにその巨体を翻した。
そして、来た時と同じように音もなく、再び雲の遥か彼方、大陸中央の山脈へとその姿を消していった。
後に残されたのは、先程までの静寂とは全く質の違う、神の御業を目の当たりにした者たちだけが共有する、畏怖に満ちた、絶対的な沈黙であった。
氏康は、竜が消えた空をただ見つめていた。
自分たちが手にした勝利が、いかに矮小で、そしていかに危うい均衡の上にあるものか。
そして、この世界には、自分たちの常識では計り知れぬ、さらに巨大な「理」が存在することを、彼は骨の髄まで理解した。
幻庵が、震える声で氏康の傍らに進み出た。
「殿……今のは……」
「うむ。どうやら、我らは眠れる獅子の髭を、撫でてしまったようだな」
氏康の口元に、乾いた笑みが浮かぶ。
「……面白い。実に、面白いではないか。この世界の天下は、まだ遥か先にありそうだわ」
彼の視線は、もはや目の前の戦場の勝利にはない。
遥か天の、さらにその先にある、まだ見ぬ本当の敵を、確かに見据えていた。
それは、星の運命そのものとの、永い戦いの幕開けであった。
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