第九十三話:解放の一太刀
英雄たちの種族を超えた共闘は、一つの完璧な交響曲となっていた。
それぞれの楽器が己の音色を最大限に奏でながらも、決して互いを打ち消すことなく、より高次な調和を生み出していく戦場の旋律。
ブロック王率いるドワーフの『鉄壁兵団』が、大地に根を張る古木のように災厄の化身『成れの果て』の物理的な猛攻を正面から受け止める。
鋼の盾が怨念の波動に触れて甲高い悲鳴を上げるが、彼らは一歩たりとも退かない。
その不動の壁のわずかな隙間から、グルマッシュ率いるオークたちが飢えた狼のように躍り出る。彼らの戦斧が巨人の足首を砕き、その巨大な体躯のバランスを執拗に、そして確実に奪っていく。
サー・ゲオルグが生き残った騎士たちを鼓舞し、陽動の突撃を敢行する。彼らの槍は巨体に弾き返されるが、その誇り高き魂の輝きが、『成れの果て』の憎悪の矛先をわずかな時間引きつけた。
若き獅子、氏照と氏邦の騎馬隊がその隙を突き、戦場を疾駆する。彼らは『成れの果て』が生み出す亡者の軍勢を蹴散らし、主力部隊が本体に集中できる「道」を切り開く。
そして、戦場を囲む森の闇。そこはエルフたちの聖域であった。
エルフの三百の魔法矢が、光の雨となって降り注ぐ。弱体化した『成れの果て』の再生能力を阻害し、その力を削いでいく援護射撃であった。
「グ……オオオオオオ……」
『成れの果て』の巨体から、苦悶の声が漏れる。
その時、戦場にいた誰もがその異変に気づいた。どす黒い怨念の塊であったはずのその巨体が揺れ始め、その黒い輪郭の奥に、一瞬だけ別の姿が透けて見えたのだ。
白銀の鎧を纏い、その顔に深い悲しみを刻んだ、一人の気高い騎士の姿が。
櫓の上。鎮魂の儀式を続ける北条幻庵は、その光景を魂で見据えていた。
(……届いておる! 我らが祈りが、黄梅院殿の慈愛の光が、数千年の憎悪の奥底に眠る英雄アストリオンの魂に、確かに届き始めておるのじゃ!)
彼の隣では、リシアが自らのマナの全てを注ぎ込み、幻庵の言葉を古エルフ語の精霊に届く音色へと変換し続けていた。
幻庵の【神祇感応】の力がその言霊を増幅させ、戦場全体へと黄金の波紋となって広げていく。
儀式は最終段階へと入っていた。彼は自らの魂そのものを、アストリオンの凍てついた魂の奥深くへと送り込んでいたのだ。
彼の精神は憎悪の奔流に飲み込まれた。神への裏切り、世界への絶望、民を守れなかった無念。数千年分の負の感情が、幻庵の魂を内側から引き裂こうとする。
(……これが、英雄の孤独か。なんと重く、なんと哀しいものよ……)
だが原案は、その憎悪に憎悪で応えなかった。彼はただ受け止めた。そして、万物に神が宿るという絶対的な肯定の理を、慈悲の言霊として紡ぎ続けた。
「――かけまくも、かしこき、時の狭間に迷いし気高き英雄の御魂よ。そなたの怒り、そなたの悲しみ、そなたの無念、しかとこの老骨が受け止めた。なれど聞け。そなたの剣は無駄ではなかった。そなたの民は滅びてはおらぬ。そなたの魂は、今もなおこの大地に生きる森の子ら、山の子ら、地の子らへと受け継がれておるのだ」
幻庵の言葉が、アストリオンの魂に届く。
黄金の光の鎖が『成れの果て』の巨体を内側から縛り、その動きをさらに鈍らせていく。黒い怨念の体にいくつもの亀裂が走り、その隙間から白銀の魂の光が漏れ出し始めていた。
だが。
解放されかけた英雄の魂とは裏腹に、その肉体――数千年の憎悪と絶望そのものが形となった怨念の集合体が、最後の抵抗を試みた。
それは、自らが消え去ることを断固として拒絶する、滅びへの本能であった。
「aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa」
声なき最後の絶叫。
『成れの果て』は、その巨体から残された全ての負のマナを、漆黒の衝撃波として全方位へと放った。それはもはや生きる者を殺すための攻撃ではない。この世界そのものを道連れにせんとする、純粋な破滅の波動であった。
英雄たちがその凄まじい圧力に吹き飛ばされ、防衛線が一瞬崩壊する。
そして、怨念の化身はその最後の力をたった一つの目標へと収束させた。
櫓の上で祈りを捧げる、か弱き老人の姿。あの忌まわしき鎮魂の儀式の心臓部。あれさえ砕けば、自分は永遠にこの憎悪の中に留まることができる。
『成れの果て』の巨腕が、櫓めがけて振り上げられた。
「いかん!」
幻庵はその全てを理解した。
魂を解放するには、もはやその魂を縛り付ける肉体の檻そのものを、物理的に破壊するしかない。
彼は己の全ての力を振り絞り、戦場の中心でただ一人、その破滅の意志に立ち向かう武神へと、最後の願いを託した。
「――綱成ッ! 今じゃッ!」
幻庵の魂からの絶叫が、戦場に響き渡る。
「わしの言霊では、もはやこの最後の憎悪の殻は砕けぬ! まやかしの英雄ではない、そなたは北条綱成であろうが!」
「その魂を、数千年の長きにわたる苦しみから、解放してやれ!」
その声は、雷鳴となって綱成の魂を打ち抜いた。
彼は、目の前の巨人を、もはや倒すべき「敵」として見てはいなかった。
その黒い怨念の奥に見える、気高き英雄アストリオンの悲しき魂を見ていた。神に、世界に裏切られ、それでも最後まで戦い抜いた、一人の偉大な武人の姿を。
(……そうか。あんたもまた、俺と同じ)
綱成の脳裏に、かつての自分が蘇る。ただ強さだけを求め、敵を斬り伏せることだけに悦びを見出していた修羅の日々。あのまま進んでいれば、自分もまた力を求めるだけの、魂なき『成れの果て』となっていたやもしれぬ。
だが、今の自分には守るべきものがある。信じてくれる主君がいる。背中を預けられる仲間がいる。そして、己が振るう剣の先に、民の笑顔があることを知っている。
(あんたの無念、俺が断ち切る。武人としての、最大の敬意を以て)
綱成の心に、憎悪ではない深い共感と、武人としての最大限の敬意が静かに満ちていく。
彼は愛刀『獅子奮迅』を、ゆっくりと正眼に構え直した。
その刀身に宿る黄金の闘気から荒々しい怒りの炎が消え、代わりにどこまでも澄み渡り、そしてどこまでも温かい浄化の光が灯り始めた。それはもはや地黄八幡の旗印の色ではない。夜明けの空を思わせる、暁光の輝きであった。
もはや、彼の動きに猛々しさはない。
それは神域で舞われる奉納の舞のように、静かで、荘厳で、そして完璧なまでに洗練されていた。
彼は大地を蹴らない。ただ風に乗るように、『成れの果て』の懐へと滑り込む。
彼は咆哮しない。ただ鎮魂の祈りを捧げるように、静かに息を吸い込む。
そのあまりにも神々しいまでの光景に、ブロック王もグルマッシュも、戦うことさえ忘れ、ただ息を呑んで見つめていた。
「あれが……人の身が至る、武の極致か……」
ゲオルグが、畏怖に震える声で呟いた。
そして、その一太刀は放たれた。
それは、力を込めた一撃ではなかった。破壊のための一撃では断じてなかった。
ただ苦しむ魂をその忌まわしい呪縛から解き放つためだけの、感謝と敬意を込めた、あまりにも優しく、そして完璧な、解放の一太刀であった。
スッ……!
まるで張り詰めた絹を裂くかのような、あまりにも静かな音。
白金の刃は、『成れの果て』の怨念の鎧を何の抵抗もなく通り抜け、その中心にある黒い魔石の核を、確かに貫いていた。
静寂。
次の瞬間、巨大な『成れの果て』の体から力が抜けていく。黒い怨念の体が、砂の城のようにさらさらと闇の粒子となって崩れ落ちていく。
そして、その奥から一つの半透明の光の人影が現れた。
白銀の鎧を纏い、その顔に数千年ぶりに安らかな表情を浮かべた、英雄アストリオンの魂。
彼は、自らを解放してくれた綱成と、そして櫓の上の幻庵へと、静かに、そして深く一礼した。
その唇が、声なく動いた。
『――感謝、する』
そして、英雄の魂は黄金の光の粒子となって天へと昇り、数千年の長きにわたるその悲しき役目を、ようやく終えたのであった。
戦場に満ちていた魂を凍らせるほどの憎悪の気配は完全に消え失せ、代わりに夜明けの清浄な空気が、英雄たちの頬を優しく撫でていった。
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