第九十二話:英雄たちの共闘
戦場を支配していた絶対的な絶望は、一つのあまりにも優しく、そして強大な光によって朝霧のように払われていた。
城の中心から立ち上る黄金の奔流。それは、地に伏していた英雄たちの砕かれた骨を繋ぎ、裂かれた肉を癒すだけではない。絶望に凍てつき、砕け散ってしまった彼らの「魂」そのものを、その根源から焼き直していた。
それは、母の胎内にいるような安心感であり、同時に、戦士の腹の底に火を灯すような、猛々しい生命力の塊であった。
「……なんだ、これは……」
最初に身を起こしたのは、ドワーフ王ブロックであった。
自らの誇りの象徴であり、無残に砕け散っていた大盾の破片が、光の中で舞い戻り、見る間に修復されていく。傷一つない鋼の輝き。五千年の時を生きた王でさえ、そのあり得ない奇跡に目を丸くし、自らの節くれだった手を握りしめた。
「……熱い。炉の火よりも、深く、芯まで温まる熱じゃ……。大地の脈動が、わしの鼓動と重なって聞こえるわ」
「ガハハ……ハ……!」
隣では、オークの族長グルマッシュが、乾いた、しかし今度は確かに喜悦に満ちた笑い声を上げていた。
折れていた戦斧が再生し、以前にも増して凶悪な輝きを放つ。彼は自らの胸を叩き、溢れ出る力を確かめた。
「力が……力が湧いてきやがる……! 傷が治っただけじゃねえ、魂のど真ん中に、直接極上の肉を詰め込まれた気分だぜ!」
一人、また一人と、地に伏していた英雄たちが立ち上がる。
サー・ゲオルグは、光を浴びて輝く白銀の鎧を見つめ、自らが信じてきた神の奇跡とは異なる、より根源的で、血の通った「救済」の力に打ち震えていた。
(……これが、民の祈り。これが、守るべき日常の重さか……! 神は天上の玉座にはおらぬ。人の心の、最も温かい場所にこそ宿るものだったのか!)
若き獅子、氏照と氏邦もまた、互いの傷が癒えていくのを信じられない思いで見つめ合い、再びその手に槍を強く握りしめる。
彼らの瞳には、もはや敗北の色はない。ただ、この女神が与えてくれた最後の好機を、決して無駄にはしないという鋼の意志だけが燃え盛っていた。
そのあまりにも異質な光の奔流に、『成れの果て』が初めてその動きを止めた。
憎悪と絶望の塊であるその魂にとって、この純粋な生命と慈愛の光は、最も理解不能で、そして最も耐えがたい「毒」であった。
巨体が、聖なる炎に焼かれるように苦痛に喘ぐ。振り上げていた腕が、力なく下ろされた。構成していた負のマナが蒸発し、その輪郭が揺らぎ始める。
本丸の櫓の上。
総大将・北条氏康は、その千載一遇の好機を見逃さなかった。彼は軍配を振り下ろし、裂帛の気合を込めて命じた。
「――全軍、聞け!」
彼の、絶対的な王としての号令が、再び戦場に響き渡る。
「女神が道を開いてくださった! この奇跡、無駄にするな!」
「儀式を援護せよ! 幻庵がかの英雄の魂を鎮めるまで、我らがこの世界の盾となるのだ! 一歩も引くな、一秒を削り出せ!」
その言葉が、引き金となった。
絶望の底から這い上がった兵士たちの、腹の底からの雄叫びが、一つの巨大な鬨の声となって戦場を震わせた。
「今こそ、騎士の誇りを示す時!」
最初に動いたのは、またもやサー・ゲオルグであった。彼は生き残った騎士たちを鼓舞し、自ら先頭に立つ。
「我らが守るべきは、帝国の虚飾ではない! この地に生きる全ての民の明日だ! 我に続け!」
彼らは成れ果ての巨大な足元へと狙いを定め、その体勢を崩さんと捨て身の突撃を敢行した。
今度こそ、確かに槍は届いた。巨体に大きな傷を付けたわけではない。だが、その騎士としての誇りを賭した突撃は、確かに『成れの果て』の憎悪の矛先を、その足元へと引きつけた。
巨人が煩わしげに足を踏み鳴らすが、騎士たちは散開し、決して足を止めない。
「兄者!」「続けぇぇぇッ!」
北条氏照と氏邦もまた、残った騎馬武者を率いて左右から陽動をかける。
彼らの役目は、『成れの果て』が生み出した亡者の軍勢を蹴散らし、主力部隊が本体に集中できる「道」を切り開くことだ。若き獅子の牙が、絶望の闇を切り裂いていく。
「父上の御前だ! 北条の武、見せつけろ!」
「ブロック! 俺の背中は任せたぞ!」
「言われるまでもねえわ、角付きが!」
ブロック王とグルマッシュが、今度はただの壁としてではない、巨大な槌と斧となって『成れの果て』へと躍りかかる。
王の盾が怨念の波動を正面から受け止め、その衝撃を逃がすことなく踏みとどまる。その一瞬の隙に、族長の戦斧が巨人の足首を力任せに打ち据えた。
ドゴォン!!
岩盤が砕けるような音が響き、巨体が大きくぐらつく。物理法則を書き換える泥沼も、黄梅院の光によって無効化されている今、彼らの怪力は確かに神話級の怪物に届いていた。
森の闇から、エルフが放つ数百の魔法矢が、光の雨となって降り注ぐ。
それは致命傷を与えはしない。しかし、弱体化した成れ果ての、おぞましいまでの再生能力を阻害し、その力を確実に削いでいく。精霊の光が、黒い霧の再生を焼き焦がし、傷口を広げていく。
英雄たちの、命を賭した連撃。
その種族を超えた完璧な連携が、ついに巨大な絶望の化身をその場に縫い留めた。
だが、『成れの果て』はまだ倒れない。その胸の奥で、黒い魔石核が不気味に脈打ち、最後の、そして最大の反撃を放とうとしていた。
その瞬間であった。
戦場の後方、医療院から、一つの黄金の閃光が放たれた。
それは地を這う流星のように戦場を一直線に貫き、英雄たちが作り出したその僅かな好機の、まさにその中心へと舞い戻ってきた。
衝撃波が亡者たちを吹き飛ばし、土煙の中からその姿が現れる。
「――待たせたな、我が朋友ども! この地黄八幡、地獄の淵から舞い戻ったわ!」
その声に、戦場にいた誰もが歓喜に震えた。
砕けていたはずの骨も、裂けていたはずの筋肉も完全に再生し、その身に以前にも増して力強い黄金の闘気を纏った、一人の武神。
北条綱成。
その、帰還であった。
彼は大地に突き立てられた愛刀『獅子奮迅』をその手に取った。主の復活に呼応するように、刀身が再び、太陽のごとき黄金の輝きを放ち始める。その光は、成れ果ての放つ闇をも切り裂くほどに鋭い。
「見事な働きであったぞ、皆の衆! さあ、仕上げだ! あの化け物の、神ならぬ魂、このわしが天へと還してくれるわ!」
綱成の帰還により、連合軍の士気は最高潮に達した。
櫓の上で、黄梅院の光に支えられ、再び意識を取り戻した幻庵の儀式が安定し、黄金の鎮魂の光が以前にも増して力強く輝き始める。
氏康は、その全ての光景を満足げに見つめていた。
「行け、我が将たちよ。この世界の、夜明けを告げるのだ」
全ての駒は、盤上に出揃った。
絶望を覆すための、最後の共闘が、今、決着の時を迎えようとしていた。
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