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第九十一話:女神の奇跡

希望の灯火は、尽きた。


 幻庵が崩れ落ち、鎮魂の儀を支えていた黄金の光が砕け散ったその瞬間、戦場を支配していた最後の抵抗の熱さえも、冷たい絶望の底へと沈んでいった。


 災厄の化身『成れの果て』は、その巨腕をゆっくりと天へ掲げる。掌に圧縮された負のマナが、黒い太陽のように渦を巻く。


 次の一撃で、あの櫓を、そしてこの小田原城そのものを、歴史から完全に抹消するために。

 大手門の櫓の上で、氏政はその光景をただ呆然と見上げていた。


 思考が白く染まる。指揮官としての責任も、北条の当主としての誇りも、圧倒的な「死」の前に霧散していく。


「……あ……」

 声にならない呻き。彼の手から軍配が滑り落ち、乾いた音を立てた。


 ◇


 だが、その絶望の波動が届かぬ場所が、城内に一つだけあった。

 本丸の奥深く、先の『神罰』で傷ついた民が運び込まれた臨時の医療院。

 そこは、戦場の轟音さえも遠く感じる、苦痛と静寂の空間であった。 


 北条氏政の妻、黄梅院は、そこで眠れぬ子供をあやし、負傷した兵の額の汗を拭い、ただ必死に自らにできることを続けていた。


 彼女には戦のことわりはわからない。ただ、外から響く地響きが、愛する夫と民を今まさに蹂躙しようとしていることだけは、肌で感じていた。


 不意に、全ての音が止んだ。

 直後、津波のような、静かで、しかし魂を凍らせるほどの純粋な「絶望」の波動が城壁を透過し、彼女の心を直接打ち据えた。


 幻庵が倒れ、防衛線が崩壊した余波だ。


(……あ……)


 彼女の鋭敏な感受性が、全てを感じ取る。

 夫の心が折れる音。兵士たちの戦意が尽きる気配。そして、この城に満ちる幾万の民の、声なき恐怖の悲鳴。


 彼女の膝ががくりと折れ、その場に崩れ落ちた。涙が止めどなく溢れ出す。


(民が、ただ、苦しんでいる……)


(もう、やめて……。戦など、もう……)


 彼女の脳裏に浮かぶのは、栄光や勝利ではない。


 豊穣祭で見た子供たちの笑顔。夫が美味しそうに握り飯を頬張る顔。泥だらけになって田を耕す農民たちの背中。 

 ささやかで、尊い、日々の営み。


(傷ついた兵も、怯える赤子も、皆、懸命に生きている。ただ生きて、温かいお粥を食べて、笑って……。わたくしは、ただ、それだけを守りたかっただけなのに……!)


 それは、戦勝を願う祈りではなかった。


 ただ「生きていてほしい」「お腹いっぱい食べてほしい」という、母のような、あまりにも純粋で、そして根源的な「慈愛」の叫び。 


 彼女の魂がこの世界に来てからずっと育んできた大いなる力が、その無垢な願いを鍵として、解き放たれた。


 スキル【豊穣の女神】の、真の覚醒。


 ◇


 ふわり、と。

 黄梅院の体から、柔らかな黄金色の光が溢れ出した。


 それは太陽のように猛々しく全てを焼き尽くす光ではない。春の陽だまりのようにどこまでも温かく、そして炊き立ての米の湯気と、雨上がりの土の匂いを伴った、生命そのものの輝き。


 光は、まず医療院の中を満たした。

 苦痛に呻いていた負傷兵たちの傷が塞がり、顔色が戻る。恐怖に泣きじゃくっていた子供たちが、その温もりに包まれ、すうっと安らかな眠りに落ちていく。 


 光は留まらない。天井を突き抜け、城壁を越え、戦場へと穏やかな、しかし抗いがたい大河となって流れ出していく。 


 その光が、最初に触れたのは大地であった。

 『成れの果て』が作り出した、物理法則を無視した黒い怨念の沼。あらゆる生命を拒絶する死の大地から、あり得ない光景が生まれた。


 黒い泥の中から、ぽつり、ぽつりと、黄金色の小さな芽が芽吹き始めたのだ。

 それは見る間に成長し、茎を伸ばし、葉を広げ、やがて一面の輝く稲穂となって風に揺らぎ始めた。


 死の沼が、豊穣の海へと書き換えられていく。

 光は次に、地に伏していた英雄たちを包み込んだ。

 ブロック王の砕けた盾の破片が、光の中で舞い戻り、傷一つない鋼の輝きを取り戻す。


 ゲオルグの折れた骨が繋がり、グルマッシュの砕けた牙が再生する。

 そして何より、彼らの心を縛り付けていた絶対的な絶望の枷が、まるで朝霧が晴れるように消え失せていった。


「……なんだ、これは……」

 ブロック王が、自らの盾を見つめ、呻く。


「……温かい。まるで、春の山の懐に抱かれておるようだ……」

 体が軽い。恐怖がない。ただ、力が体の奥底から湧き上がってくる。


 ◇ 


 そのあまりにも異質な光の奔流に、『成れの果て』が初めてその動きを止めた。

 憎悪と絶望の塊であるその魂にとって、この純粋な生命と慈愛の光は、最も理解不能で、そして最も耐えがたい「猛毒」であった。


「グオオオオオ……ッ!?」

 その巨体が、聖なる炎に焼かれるように苦痛に喘ぎ、ぐらりと揺らめく。振り上げていた腕が、力なく下ろされた。負のマナが浄化され、その絶対的な支配力が崩れていく。


 櫓の上。

 意識を失いかけていた幻庵が、その光を浴びて目を開いた。 


 彼の魂を蝕んでいた氷の針のような痛みが、湯に溶ける雪のように消えていく。彼は城の中心から立ち上る、その神々しいまでの光の柱を見つめ、震える唇で呟いた。


「……なんと。武でも、知でもない。ただ民を想う、慈愛の心……『育み、養う力』こそが、この世界の怨念(飢え)を癒す、真の『理』であったか……! 黄梅院殿……!」

 大手門の氏政もまた、その光が誰のものであるかを魂で理解していた。


 戦場を満たす、懐かしい香り。自分が守りたかった、日常の匂い。


「……お梅……」

 彼の心に、再び火が灯る。


 恐怖は消えた。代わりに宿ったのは、自らを信じ、民を信じ、そして愛する妻が起こしたこの奇跡を、決して無駄にはしないという若き獅子の絶対的な覚悟であった。


 戦場に満ちていた絶望は、今、確かに払われた。

 成れ果ての力は弱まり、その足元の泥沼は稲穂の海へと変わった。


 そして、地に伏していた英雄たちが、一人、また一人とその身を起こす。彼らの瞳には、もはや敗北の色はない。ただ、この女神が与えてくれた最後の好機を、決して逃しはしないという鋼の意志だけが燃え盛っていた。


 一方、城の本丸。

 担ぎ込まれ、死の淵を彷徨っていた北条綱成の体が、その黄金の光に包まれた。


「う……おお……」

 呻き声と共に、彼の目がカッと見開かれる。 


 砕けていたはずの骨が、裂けていたはずの筋肉が、光の粒子となって再構成されていく。そのあり得ない再生を、傍らで看病していた薬師たちはただ呆然と見つめることしかできない。


 綱成はゆっくりと、しかし確かな力でその身を起こした。


 傍らに置かれていた愛刀『獅子奮迅』が、主の復活を祝うようにカタカタと震える。彼がその柄を握った瞬間、刀身が再び、いや以前にも増して力強い黄金の輝きを放ち始めた。


 彼は櫓の窓から、弱体化した『成れの果て』の姿を睨みつけた。

 ニヤリと、猛獣の笑みが浮かぶ。


「……待たせたな。喧嘩の続きといくか」

 静かに、しかし大地を揺るがすほどの闘気が、その身から立ち上った。


 武神、再臨。

 反撃の時は来た。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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