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第九十話:絶望の中の灯火

 ゴオオオオオオオオオン……。

 鎮魂の鐘が、重く、低く、戦場に響き渡る。


 だが、その清浄な音色さえも、眼前に迫る災厄の前では、嵐の中の小鳥のさえずりのように無力であった。


 災厄の化身――『成れの果て』は、その顔のない巨面を小田原城へと向け、ゆっくりと歩みを進めていた。その一歩ごとに大地が悲鳴を上げ、空間そのものが恐怖にひきつるように歪む。


 その絶対的な死の行進を阻むべく、二つの壁が立ちはだかった。


 鋼の壁、ドワーフ王ブロック率いる『鉄壁兵団』。

 牙の壁、大族長グルマッシュ率いるオーク精鋭部隊。


「――構えよ、山の民! 我らが五千年の歴史、その重みをこの一歩に刻め!」

 ブロック王の咆哮に応え、ドワーフたちが巨大な盾を連結させる。城門の前に築かれたのは、物理的な壁ではない。種族の誇りそのものであった。


 成れ果ては、彼らの前に立ち止まり、山のような右腕を振り上げた。

 だが、放たれたのは物理的な打撃ではなかった。


 振り下ろされた腕が地面に触れる寸前、ドワーフたちの足元の影が、沸騰するコールタールのように泡立ち、どす黒い泥沼へと変貌したのだ。怨念が大地を侵食し、物理法則そのものを書き換えたのだ。


「ぐっ……! 踏み堪えろ! 決して、退くな!」

 大地の民であるドワーフにとって、足場を奪われることは魂を否定されるに等しい。


 鋼の足が泥に沈み、膝まで飲み込まれる。腐臭を放つ泥は、生き物のように彼らの鎧にまとわりつき、その自由を奪っていく。だが、彼らは重心を落とし、歯を食いしばって耐えた。


 五千年の歴史上、初めて『鉄壁』が揺らいだ。盾に刻まれた守護のルーンが、憎悪の波動に触れてガラスが砕けるような音と共に次々と光を失っていく。


「今だ! 喰らいつけぇ!」

 その僅かな隙を突き、グルマッシュが吠えた。


 側面から、獣のような雄叫びと共にオークたちが躍りかかる。彼らの筋肉は極限まで膨張し、その一撃は岩盤をも砕く威力を持っていた。

 だが、彼らの戦斧は、その黒い巨体に届くことさえなかった。


 ガギィン!

 虚空に見えない壁があった。


 成れ果ての周囲に展開された、憎悪と拒絶の障壁。それが物理的な攻撃を一切無効化したのだ。


「馬鹿な……! 刃が、通らん!」

 弾かれた戦斧を見て、歴戦のオークたちが戦慄する。


 手が痺れるほどの反動以上に、彼らの心を折ったのは「絶対的な拒絶」の感覚だった。


(違う、これは壁ではない。俺たちの怒り、戦士としての魂そのものが、こいつの前では意味をなさねえのか!?)

 大手門の櫓の上。


 若き総大将代理、北条氏政は、その絶望的な光景を前に、手すりを握りしめたまま凍り付いていた。爪が食い込み、木片が掌に刺さる痛みさえ感じない。


「……政繁。策は、あるか。わしには、もう何もない」

 その声は、か細く震えていた。すがるような目で腹心を見る。だが、大道寺政繁は蒼白な顔で首を振ることしかできなかった。神話級の災厄の前には打つ手がなかった。


「……万策尽きました。今は耐えるしか。幻庵様の儀式に、全てを賭けるしか……」


 ◇


 城の最高所、櫓の上では、もう一つの静かなる死闘が繰り広げられていた。


「――かけまくも、かしこき……」

 北条幻庵の口から紡がれる慈悲の言霊。


 その声は黄金の光の粒となり、戦場へと降り注いでいく。隣ではリシアとエルウィンが、自らの生命力を削り取るようにしてマナを注ぎ込み、儀式を支えていた。二人の肌は白蝋のように血の気を失い、指先は震えている。


 だが、『成れの果て』から放たれる負のマナは、聖なる祝詞に対する猛毒であった。


「ぐ……っ!」

 祝詞を紡ぐ幻庵の口から、一筋、黒い血がこぼれ落ちた。


 負のマナが氷の針となって、彼の魂を内側から蝕んでいく。それは肉体の苦痛ではない。記憶と感情の濁流だ。


 英雄アストリオンが数千年抱き続けた、信じていた民に石を投げられた時の絶望、愛する者を守れなかった無力感、神への慟哭。その全ての怨念が、幻庵の精神回路を焼き切ろうとしているのだ。


 儀式を支える黄金の光が、風前の灯火のように激しく明滅する。


「幻庵様!」

 リシアが悲鳴を上げる。


「いけません! このままでは、あなたの魂が砕けます!」


「……案ずるな。この老骨の命一つで、世界の怨念が晴れるなら、安いものよ……」

 幻庵は笑おうとした。


 その顔は死人のように土気色に変色し、目からは血の涙が流れていた。彼の視界は既に霞み、世界は闇に閉ざされかけていた。それでも、彼は詠唱を止めない。止めた瞬間、全てが終わることを知っているからだ。


 下の戦場では、その光の揺らめきを誰もが見ていた。


「いかん! 祈りの光が、消えかかるぞ!」

 ブロック王が叫ぶ。


「あの爺さんを死なせるな! 時間を稼げ! 一秒でも長く!」

 グルマッシュが吼える。


 連合軍の英雄たちは悟った。自分たちが為すべきは、もはやこの怪物を倒すことではない。ただ一秒でも長く、あのか細い祈りが続くよう、自らの命をたきぎとして燃やすことだけが、唯一の使命なのだと。


「――今こそ、騎士の誇りを示す時!」

 最初に動いたのは、サー・ゲオルグであった。


 彼は生き残った騎士たちを鼓舞し、自ら先頭に立つと、『成れの果て』に捨て身の突撃を敢行した。


「我らが狙うは破壊ではない! ただ奴の注意を、一瞬でも我らに引きつける! それこそが民を守る、真の騎士道ぞ!」

 そのあまりにも勇敢で、そしてあまりにも無謀な突撃。『成れの果て』はその黒い腕を煩わしそうに振るった。


 直撃ではない。ただの風圧。それだけで、ゲオルグの体は鎧ごとひしゃげ、枯れ葉のように吹き飛ばされた。地面に叩きつけられた彼の体は、ピクリとも動かなかった。


「兄者!」


「続けぇぇぇッ!」


 北条氏照と氏邦もまた、残った騎馬武者を率いて左右から陽動をかける。だが、彼らの槍も届かない。黒い霧のような瘴気に触れた馬が狂死し、兄弟は泥の中に投げ出される。


 ブロック王とグルマッシュが全霊を込めた一撃を足元に叩き込むが、巨体は揺らぎもしない。逆に、跳ね返された衝撃で二人の巨体が宙を舞う。


 英雄たちの、命を賭した時間の献上。

 だが、その全ては、あまりにも巨大な絶望の前には、ささやかすぎる抵抗であった。


 一人、また一人と英雄たちが地に伏していく。


 ブロック王の伝説の盾は砕け散り、グルマッシュの戦斧は折れ、誇り高き戦士たちが泥に塗れる。

 ついに、防衛線は完全に崩壊した。


 『成れの果て』は、もはやその足元で蠢く小虫たちに興味はないとでも言うように、再びその顔を櫓の上へと向けた。


 そして、その巨腕をゆっくりと天へと掲げる。

 次の一撃で、あの櫓を、祈り手ごと、希望ごと、完全に粉砕するために。その手には、圧縮された負のマナが黒い太陽のように渦巻いている。


「……これまで、か……」


 櫓の上。

 ついに幻庵の膝ががくりと折れた。彼の意識が、負のマナの奔流に飲み込まれ、暗黒の底へと沈んでいく。


 儀式を支えていた黄金の光が、ガラスが砕けるような甲高い音を立てて霧散し、ふっ、と完全に消え失せた。


 静寂。


 全ての鐘が鳴り止んだ。


 全ての祈りが絶えた。


 戦場に、再び絶対的な闇と絶望だけが戻ってきた。

 希望の灯火は、今、確かに尽きたのだ。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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