第八十九話:魂の鎮魂歌
北条綱成が地に堕ちたその瞬間、戦場を支配していた全ての音が死んだ。
兵士たちの鬨の声も、負傷者の呻きも、風の音さえも。全てが、眼前に立つ人の形をした災厄――『成れの果て』が放つ、絶対的な憎悪の波動の前に飲み込まれ圧殺された。
「……叔父上……」
大手門の櫓の上で、氏政の口からか細い声が漏れた。
あの無敵であったはずの叔父が。北条家の武の象徴が、ただの一撃で。
その光景は、兵士たちの心に最後の支えとして残っていた細い希望の糸を、無慈悲に断ち切った。
「……だめだ。もう、おしまいだ……」
一人の足軽がその場にへたり込み、槍を取り落とす。
それが伝染した。一人、また一人と兵士たちが戦うことをやめ、その場に立ち尽くし、あるいは武器を捨てて逃げ惑い始めた。統率は完全に崩壊した。
「ガアアアアア!」
その混沌の中、ただ一人、否、一頭だけが絶望に屈していなかった。
オークの族長、グルマッシュ。
彼は自らの戦斧を握りしめ、その獰猛な顔を恐怖ではなく純粋な怒りに歪ませていた。
「てめえら! 何を呆けてやがる! あのデカブツが何だ! 俺たちの牙が通用しねえ道理があるか!」
彼は残ったオークたちに咆哮すると、自ら先頭に立ち、『成れの果て』めがけて捨て身の突撃を敢行した。
だが、その勇猛ささえも弄ばれた。
『成れの果て』は、グルマッシュたちにその腕を振うことさえしない。ただ、その巨体からどす黒い嘆きの波動が放たれただけ。
グルマッシュの屈強な部下たちが、その波動に触れた瞬間、まるで魂を抜き取られたかのようにその場に崩れ落ち、虚ろな目で互いに牙を剥き始めたのだ。
「やめろ! 仲間だぞ!」
グルマッシュの叫びも虚しい。
「……これが、奴の戦い方か」
城門の前で最後の防衛線を築いていたドワーフ王ブロックが、苦々しげに唸った。
「武器ではない。憎悪そのものを武器としておるわ。これでは戦にすらならん」
その地獄の光景を、本丸の櫓の上から、総大将・北条氏康は、その拳を強く握りしめながら見つめていた。
彼の隣で、側近の一人が顔面蒼白で進言する。
「殿! これ以上は無駄死にが増えるだけ! 一刻も早く全軍を城内へ!」
氏康は何も答えなかった。ただ、その黒い瞳で戦場の隅々までを目に焼き付けている。崩壊する自軍の陣形、狂気に陥るオークたち、そして大地に倒れ伏したまま動かぬ綱成の姿。
やがて、彼はゆっくりと、しかし断腸の思いを込めてその決断を下した。
傍らに控える伝令兵に、彼は静かに、しかし有無を言わせぬ声で命じる。
「――法螺貝を吹け」
「全軍に伝えよ。『帰城命令』である、と」
「大手門はブロック殿が死守せよ。氏照、氏邦は翼となって全軍の撤退を援護。そして……」
氏康は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……何としても、綱成を連れて帰れ。たとえ骸であったとしても、だ」
撤退を告げる低く物悲しい法螺貝の音が、戦場に響き渡った。
それは、連合軍の完全な敗北を告げる音であった。
撤退は壮絶を極めた。
「退け! 退けぇ!」
氏照と氏邦が馬上で叫び、混乱する兵士たちをまとめ、少しでも多くの命を城壁の内側へと導こうとする。
ブロック王率いる鉄壁兵団は、その名の通り最後の「壁」となった。彼らは、『成れの果て』が蘇らせた帝国兵や北条の兵の亡者たちの前に立ちはだかり、その進軍を一歩、また一歩と食い止めていた。
「 叔父上が!」
氏照の悲痛な叫び。
戦場の最も危険な場所で、綱成の忠実な家臣たちが主君の亡骸を守るべく必死の防戦を繰り広げていた。だが、次々と亡者の爪牙の前に倒れていく。
「――邪魔だ、どけぇ!」
その絶望的な状況に、巨大な影が割り込んだ。グルマッシュであった。
彼は狂気に陥った同胞をその戦斧の柄で殴りつけ、正気に戻させると、綱成を守る家臣たちの前にその巨体を割り込ませた。
「おい、人間! そいつを担げ! 貸し一つだぞ、地黄八幡!」
それは、種族を超えた絶望の中の共闘であった。
数時間後。
大手門が内側から固く閉ざされた。
本丸御殿の大広間は、泥と血と、そして完全な敗北の匂いにまみれた連合軍の指導者たちが集結していた。
誰もが言葉を発しない。ただ、城壁の外から響いてくる成れ果ての声なき咆哮と、大地が揺れる不吉な振動にその身を固くするだけであった。
戦は、終わった。
そして、本当の地獄が始まろうとしていた。
◇
その凍てついた絶望の中心で、ただ一人、戦うことをやめていない男がいた。
北条幻庵。
彼は傷ついた者たちが運び込まれるその片隅で、血を吐くような思いでその老いた頭脳を極限まで回転させていた。
(……違う。戦うのではない)
彼の脳裏に、あの『沈黙の図書館』で読み解いた『創世神話の原典』の一節が、雷鳴のように響き渡っていた。
『成れの果て』の正体。悲劇の英雄アストリオンのあまりにも悲しい魂の末路。そして、その魂を縛る憎悪の理。
(あれは敵ではない。ただ救いを求める、悲しき亡者に過ぎぬのじゃ……!)
(ならば、我らが為すべきは破壊ではない。斬り伏せることではない!)
幻庵は意を決した。彼は指導者たちが集う氏康の本陣へと駆け込んだ。
「殿! 皆様方! もはや剣も魔法も、あの者には通用しませぬ!」
「我らが今為すべきは、戦うことではございません! あの哀れな英雄の魂を、数千年の長きにわたる苦しみから解放してやること! すなわち――」
幻庵は、その場の全員を見回し宣言した。
「『鎮魂の儀』を、執り行いまする!」
「……戯言を!」
最初にその言葉を否定したのは、ブロック王であった。
「幻庵殿! そなたは正気か! あの化け物に祈りを捧げろと申すか! 我らドワーフは、そのような女子供の戯れのために槌を振るうのではないわ!」
「そうだ!」とグルマッシュも続く。
「祈って腹が膨れるか! 敵の首が獲れるか! 俺たちは戦士だ! 喰らう側だ! 祈られるだけの柔な存在ではない!」
彼らの反発は当然であった。だが、幻庵はひるまない。
「ブロック殿! グルマッシュ殿! 図書館で得た知識は、ただの物語ではございませぬ。あれはこの世界の『理』そのもの。そしてその理を前に、我らの武は無力であったはず!」
「ならば道は一つ! 理には理を以て対する! あの者を縛る『憎悪の理』を、我らが『慈悲の理』で上書きするのじゃ!」
「この儀式はただの祈りではない。わしがこの世界で学んだエルフの精霊への呼びかけと、我らが日ノ本に伝わる言霊の術を融合させ、この場で編み上げた新たな『術』! 魂に直接語りかけ、その怨念を鎮めるための唯一の策にございます!」
その魂からの問いかけに、二人の猛将がぐっと言葉に詰まる。
そこへ、サー・ゲオルグが静かに進み出た。彼は片膝をつき、幻庵に騎士としての最大の敬意を込めて言った。
「……幻庵殿。その儀式、このサー・ゲオルグもお力添えいたそう。苦しむ魂を救うことこそ、神に仕える騎士が最後に為すべき、最も気高き務めにございますれば」
エルウィンとリシアもまた、力強く頷いた。
「我らエルフも、共に祈りましょう。森の歌が、あの英雄の荒れ狂う心を少しでも癒すことができるのなら」
その時、これまで沈黙を守っていた氏康が、ゆっくりと立ち上がった。
「皆、聞いた通りだ」
彼の声は、絶対的な王の威厳に満ちていた。
「我らはこの地で、ただ生き延びるために戦ってきたのではない。この世界の理不尽な怨念の連鎖、そのものを断ち切るために、ここに立っておるのだ」
「幻庵。儀式を始めよ」
「ブロック殿、グルマッシュ殿。そなたたちのその大陸最強の『壁』と『牙』を、今こそ見せてくれ。幻庵が祈りを終えるまで、何者もあの一歩先に進ませるな」
ブロック王もグルマッシュも、もはや何も言うことはできなかった。
ただ、互いの顔を見合わせ、そして獰猛に、しかし確かに笑った。
「……ふん。面白い! 実に面白いわい、ホウジョウ・ウジヤス!」
「ガハハハ! 神だか祈りだか知らんが、あの化け物に俺たちの喧嘩の邪魔はさせん!」
連合軍は、再び一つになった。
ゴオオオオオオオオオン……。
城下の全ての鐘が、一斉に鳴り響き始めた。
それは降伏の鐘ではない。鎮魂の、祈りの鐘。
幻庵は、櫓の最上階、風が吹きすさぶ場所に祭壇を設けると、リシアとエルウィンを伴い、静かにその場に座した。
そして、自らが編み出した、魂をその源へと還すための慈悲の言霊を紡ぎ始めた。
「――かけまくも、かしこき、時の狭間に迷いし、気高き英雄の御魂よ……」
その頃、城外の平原では、『成れの果て』が一方的な蹂躙を続けていた。
その憎悪は、まず自らを呼び出した帝国軍の残党へと向けられる。逃げ惑う騎士たちを黒い怨念の沼が飲み込み、死者の軍勢がかつての仲間たちに襲いかかる。阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、ただ静かに自らがもたらした絶望を味わっていた。
だが、城から響き渡る鐘の音と、櫓から放たれる清らかな光に気づくと、その顔のないはずの顔を、初めてゆっくりと小田原城へと向けた。
その巨体が、ゆっくりと、しかし確実に、そのか細い祈りの声がする方へと歩みを進め始める。
その絶対的な絶望の化身と、たった三人の祈り手との間に、ブロック王率いる鉄壁兵団と、グルマッシュ率いるオークたちが、最後の、そして最も無謀な防衛線を築こうとしていた。
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