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32_その関係の果てに【オリビアside】

 

「どうしてこんなことしたの? オリビア」


 鉄格子の向こうから、エミリーがオリビアを見下ろしてそう言う。


「どうして……ですって?」


 話したところで、最初から何でも持っているエミリーに、オリビアの気持ちなど分かるはずがない。

 暗い牢屋から見上げたエミリーは、手持ちランプの明かりのせいかか、いつにも増して眩しく見えた。――憎らしいほどに。


「私はただ、あなたみたいに……なりたかった」


 本当はこんなことを言うつもりはなかったのに、口をついたようにそんな言葉が漏れていた。

 腹の底から感情が込み上げてきて、目頭がじわりと熱くなる。


 豪奢な馬車に乗るエミリーを見たときから、羨ましかった。

 優しくて、前向きで、小さな幸せを愛しく思える女の子の理想のようなエミリー。対する自分は、意地悪で、卑怯で、女に嫌われる女だ。


「家柄も、能力も性格も、何もかも、私はあなたに勝てない! ずっとそれが悔しくて、あなたなんか不幸になればいいと思ってたのよ!」


 エーリクとの不倫がベルベラにバレたとき、彼女はオリビアを脅してきた。『不倫をバラしてあんたを社会的に殺してやる』と。

 せっかく医療魔術師として頑張ってきたのに、たった一度の過ちでキャリアを潰され、貴族になる道を絶たれるのが許せなかった。


 だから、入院してきた夫人に危険な魔法薬を飲ませて、殺した。


 それを、エミリーに見つかってしまった。だが、エミリーはオリビアの罪を他の者に報告する前に、大怪我をした。だから、罪が明るみに出る前に、エミリーから記憶を奪ったのだ。彼女が最も大切にしていた記憶ごと。


 すると、エミリーが言った。


「羨ましかったのは、私の方だよ」

「そんなはずない! 嘘言わないで!」


 彼女の呟きに、一も二もなく、強く否定する。


「嘘じゃないよ」


 エミリーは呪文を唱えた。すると、彼女の白い顔の半分側から、痛々しい痣が浮かび上がる。


「子どものころ、浄化魔術のコントロールを誤って暴発して、怪我したの。治癒魔術じゃ治せなくて、今は幻影魔術で常に痣を隠してるんだ」


 エミリーに数多く来ていた縁談だが、顔の傷を知った相手方が断ってきたという。魔物討伐に関わるのを拒んだのも、浄化魔術へのトラウマが理由だった。


 傷のことを知るのは家族だけで、リノにも言っていなかった。

 けれど、そんな傷跡を受け入れたアステラがいたから、浄化魔術のトラウマを克服し、医療魔術師になったと――エミリーは語った。


「だからね、初めてオリビアに会ったとき、綺麗な人だなって思うのと同時に、心がざわざわした。私もオリビアみたいに綺麗な肌だったら、縁談が白紙になることも、男の人からひどい言葉を言われることもなかったのにって」

「なんて……言われたの?」

「私みたいな醜い女とは結婚できないとか、そんな感じかな」


 エミリーは強がるようにへらりと微笑む。


「はっ、そんな無神経な男、こっちから願い下げだって言ってやればいいのよ」

「ふふ、オリビアならそう言うだろうね。はっきり思ったことを言えるところも、かっこよくて羨ましかった。石吐き症になるまで自分を追い詰めたのも、気持ちに蓋をする自分の弱さのせいだと思うから。……羨ましかったんだよ、ずっと」

「…………っ」


 エミリーは手持ちランプを床に置いて、こちらをまっすぐに見据えた。火傷跡に覆われた顔が、ありのままに照らされていた。


「ないものはないよ。人と比べて辛くなることって、きっとみんなある。それでも、やれることを一生懸命やっていたら、他の誰にもない輝きを掴めるんじゃないかな。オリビア」

「うるさい! そんな綺麗事言ったって、もう何もかも遅いのよ……っ!」


 オリビアの叫び声が、冷たい牢屋に響き渡る。


「私は人殺しなのよ? どうせ、処刑されるんだから」


 平民が貴族を殺せば、確実に死刑だ。怪我をさせたり、暴言を吐いただけでも処刑されることがある。それほど、平民の命は貴族よりも軽い。

 しかし、貴族たちは自分の地位や権力を利用して、情状酌量を求めたり、罪そのものを揉み消したりする。


 だからオリビアは、一刻も早く、アステラのヘリオス魔術の論文を自分の手柄として発表し、功労者を受賞して貴族になろうとしていた。


 石吐き症の利権のために、画期的な治療法を研究するアステラを、殺そうとしていたエーリク。

 呪いをかけた魔物から、禁術である操作魔法がかけられていた痕跡が見つかり、エーリクの部屋からは魔方陣が書かれた紙が押収された。彼には余罪も複数あるので、貴族といえども制裁から逃れられないだろう。


 すると、エミリーがふっくらとした唇を開いた。


「殺してないよ」

「…………は?」

「オリビアが夫人に魔法薬の包みを渡したあと、すぐに気づいて取り上げたの」

「じゃあなんで、二日後に亡くなったのよ」

「本当に、持病の悪化だったみたい。でも、私はオリビアが自分の罪を自覚するべきだと思って、言わなかった」


 それを聞き、全身の力が抜けていくような感覚になった。


「ずっと、罪悪感を抱えているのは辛かったでしょ。自分の罪の重さが、時間とともにどんどんのしかかってきたんじゃない?」

「……」

「私が知ってることは、薬の包みと一緒に全部上に報告してる。記憶を奪う禁術を使った件もあるし、死刑はなくても医療魔術師の免許は剥奪されると聞いたし、そうなるべきだと思ってる。オリビアにはもう、医療に関わってほしくない」


 エミリーはそうきっぱりと告げた。だが、実際に殺したのと殺害未遂では罰の重さが違う。


 死刑を免れたのは、エミリーが気づいてくれたおかげだ。

 エミリーがもう一度、生き直すチャンスを与えてくれたのだ。


「最後にひとつだけ聞かせて。私からグエン先生との思い出を全部奪ったのはどうして?」


 オリビアがエミリーから奪った記憶はふたつだ。


 ひとつは、夫人殺害に関する記憶。

 もうひとつは、アステラに関する記憶。


 夫人殺害の真相を闇に葬るだけなら、アステラの記憶を奪う必要はなかった。けれど、そうしたのは……。


「アステラさんを脅して論文を手に入れるため、ただそれだけよ」


 オリビアが唇に嘲笑を浮かべて答えると、エミリーは表情に落胆を滲ませた。


「私を人殺しにしないでくれたのは、感謝するわ。でももう、あなたとは今後一切関わらない。友達ごっこはおしまいよ」

「……そう、分かった。今まで……ありがとう」


 エミリーは最後に笑顔で礼を言い、牢屋を出ていった。彼女の笑顔を見る度に忌々しく思っていたのに、今日は胸の奥が切なく締め付けられた。


(私にお礼なんて、馬鹿じゃないの)


 ひと月後にオリビアの裁判が控えており、それが終われば、特異医療院に足を踏み入れることはないだろう。


 もう二度と、エミリーに会うこともない。

 激しい劣等感に苛まれることもなくなる。


「これで、せいせいする。せいせいするはず……なのに……」


 気づくと、オリビアの瞳から、熱いものが零れ落ちていた。

 エミリーに追いつけなくて、ずっともがいてきた自分。けれど、オリビアが憧れてきたエミリーにもまた、苦悩があったと分かった。オリビアは何も知らずに、自分の欠乏感に酔いしれていただけだったのだ。


『私からグエン先生との思い出を全部奪ったのはどうして?』


 先ほどのエミリーの問いかけを思い出し、拳を握り締める。


 禁術は、強力な効力を発揮する代わりに、往々にして反動がある。つまりは――代償だ。

 エーリクが魔物を操ってアステラを襲わせたときは、動物複数体の心臓を代償として捧げた。


 そして、エミリーからアステラとの思い出を奪うために、オリビアはその年数分の――自分の寿命を捧げた。


「あなたに、生きててほしかったのよ」


 無鉄砲で、優しい、たったひとりの友達だから。

 憎しみだけではなく、オリビアの胸の奥に根付いていたものが確かにあった。ひとりで魔物を討伐するなんて無茶、もう二度としてほしくなかったのだ。


(馬鹿なのは、私ね)


 どうしたって、関われば妬み、憎み、傷つけてしまうかもしれない。だから、ここで別れるのがお互いのためだろう。オリビアの呟きは、静寂に溶けていった。


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