13ー6話 Who’s the real one?(5)
会場は、いかにも貸会議室といった雰囲気だった。
壁は白っぽいが、白さが新しい白ではない。
何度も塗り直された白。
蛍光灯の光も均一で、気持ちを奮い立たせるような派手さはない。
むしろ、ここで何かが変わるとしたら、華やかさじゃなく「積み重ね」だ――そんな予感がした。
出入口は一つだけで、大人二人が肩をぶつけながらやっと通れる狭さ。
入った瞬間に空気が重く感じられ、俺は無意識に呼吸を浅くしていた。
“空気が重い”という表現は曖昧だ。
けれど、目に見えない圧がある。
人の気配が、熱じゃなく圧で迫ってくる。
湿度じゃないのに息が詰まる感じ。
二人で使う長机が横に三台、縦に十列。ざっと六十人ほどが定員だろうか。
入口すぐのところに小さな机が置かれ、そこに佑月くんと呼ばれていたスタッフが座り、淡々と受付をこなしていた。
淡々と、というのは仕事が雑という意味ではなく、余計な感情を挟まないという意味だ。
それが、この場所の空気をさらに“試験場”に寄せている。
俺と夏村さんは名簿に〇をつけて席へ向かった。
驚いたのは、誰の指示もないのに受講者が前の席から順に、きっちり詰めて座っていくことだった。
進学塾なら、もっと散らばる。
前列を取り合う人もいれば、あえて後ろに座って気配を薄める人もいる。
「俺は前」「私は後ろ」――その自由が、当たり前にある。
だがここでは、自由がないわけじゃないのに、自由が選ばれていない。
全員が、前から詰めて座っていく。
最初に座った誰かがそうした、というより――最初からそうするのが当然、という空気が出来上がっている。
空気が、ルールを先に作っている。
俺は思わず、自分の手のひらを見た。
汗はかいていない。
なのに、指先が少し冷たい。
「かずや、ちょっと怖い感覚を覚えるのは俺だけか?」
夏村さんが小声で言う。
いつもは教室の空気をぶち壊すように笑う人が、声を潜めている。
それだけでこの場の異質さがわかる。
「いや、俺も同じですよ」
俺も声を落とす。
「なんか……ゾクッとしたっていうか」
言ってから思う。
俺は今、教室に入っただけで“評価されている”気がしている。
評価される理由はない。点数を出したわけでも、成果を見せたわけでもない。
なのにこの場にいるだけで、「どれだけ本気か」が透ける気がする。
俺と夏村さんは視線を交わし、軽く肩をすくめながら隣り合って腰を下ろした。
すでに座っている人々の年齢層は幅広い。二十代後半から六十代くらいまで。
そして彼らは、着席した瞬間から机の上を整えていた。
公式問題集、ノート、ペン、スマホ。
それは“勉強の準備”というより、“戦闘前の手順”に見えた。
目つきがまた普通じゃない。
資格予備校にある「とりあえず勉強しに来ました」という温度ではない。
目の奥が静かに燃えている。ギラギラじゃない。もっと怖いタイプの火。
生活の中で何度も何度も折れそうになって、それでも折れなかった火。
背筋に寒気が走った。
――ここ、勝負の場所だ。
――しかも、大学受験よりずっと“生活と直結した勝負”。
大学受験は、未来の話だ。
この人たちの勝負は、今の話に見える。
昇格、転職、配置換え、海外赴任、夢、期限。
それらが机の上に並んでいるような気配がする。
高校生の俺たちは、その輪の中では異物だ。
異物だが、歓迎されているわけでも、拒まれているわけでもない。
ただ、測られている。
そんな俺たちの方へ、中山先生が近づいてきた。
実物は動画より若干老けている様子だ。
「こんばんは、中山です。こちらが高松くん、そしてこちらが夏村さん、だったわね」
……名前を憶えてる。
俺と夏村さんは思わず顔を見合わせ、同時に姿勢を正した。
名前を覚えるのは当然かもしれない。
でも、当然だと思いたい自分と、そこで既に“掴まれた”と感じる自分が同居する。
先生の目は、笑っているのに、観察している。
観察しているのに、冷たくない。
この矛盾が、妙に落ち着かない。
「で、まず確認したいんだけど、受講の目的は?」
問いが終わる前に、次の問いが重なる。
「それから今までTOEICを実際に受けた経験はありますか?」
さらに。
「受験してみての感想は? どこが難しかったと思うんです?」
次。
「今、TOEICに一日どのくらい時間を割いてますか?」
次。
「独学ではどんな方法をとっているんです?」
次。
「教材は何を?」
そして――俺にとって一番、胸がきゅっとなる質問。
「ちなみに、模試……旺文社とかセミナー統一の成績はどうです?」
言葉が喉で引っかかった。
“成績はどう”
その問いは、俺がこの場で何者かを測るための問いだ。
俺はそれに答えることで、自分を差し出してしまう。
でも、答えないわけにはいかない。
答えなければ、もっと違う形で測られる。
俺が必死に答えると、先生は「なるほど、そういうことですね」と即座に復唱して確認し、次へ次へと畳みかけてくる。
テンポが尋常じゃない。
なのに、不思議と頭にすべて入ってくる。
発音がクリアすぎるんだ。
日本語としても、英語としても、音がくっきりしている。
雑音の少ない声。
言葉の輪郭が見える声。
しかも、先生は俺の言葉を要約する。
要約して、整理する。
整理した上で、次の質問で不足を埋める。
俺が自分の頭の中でやりたかったことを、目の前でやられている。
そのことが悔しいより、ありがたいが先に来る。
――俺は、今、整理されたいんだ。迷いを切ってほしいんだ。
次は夏村さん。
俺とは全然違う角度から質問が飛ぶ。
状況の違いを一瞬で見抜いて切り替えるあたり――恐ろしく頭の回転が速い。
夏村さんが答えに詰まりそうになると、先生は言い換えで助ける。
助けるが、甘やかさない。
「それはつまりこういうこと?」と、先に結論を置いてから選ばせる。
数分で終わった質疑応答は、実際には濃密すぎて体感的に一瞬だった。
最後に先生は、柔らかい笑顔でこう言った。
「二人なら大丈夫だと思いますよ」
“二人なら”。
その条件が、少しだけ胸に引っかかる。
褒められているのに、そこに依存してしまいそうで怖い。
「すぐに結果は出ると思いますよ。あなたたちがまだネットで変な情報に惑わされてないのは強みなんですよ」
先生の言葉で、俺の中の“ネットの霧”が言語化される。
変な情報。惑わされる。
まさにそれだ。俺は自分の不安に都合のいい断言を探して、勝手に疲れていた。
「まあ詳しいことは授業で話しますけどね。集中力はかなり必要になりますから、頑張ってください」
先生が他の受講者の方へ歩いていくのを見送って、夏村さんが小声でつぶやいた。
「すっげえ質問量と早口だな! でもさ、発音クリアすぎて頭にスッと入ってくんだよな……かずや、すげえだろ?」
「そうですね」
俺は息を吐く。
「返答を即座に整理してくれてますし……頭の回転が段違いに速い先生ですね」
二人で同時にため息をついた。
もう始まる前から、軽く疲れていた。
疲れているのに、嫌じゃない。
むしろ“使われた”感じがある。頭が、ようやく正しい方向に回された感じ。
そこへ、隣の列の二十代後半くらいの女性が笑いながら声をかけてきた。
「君たち、初めてでしょ? 先生の話の速度に面食らうの、当たり前だよ」
声は柔らかい。
だけど、発する言葉に迷いがない。
この人もまた、ここに居場所ができている。
「やっぱりそうなんですね……」
「でもね、今のはまだ予備運転。本番の授業に入ったらもっと速くなるんだよ」
「もっと……?」
俺は思わず夏村さんを見た。
夏村さんも、同じ顔をしている。
「当たり前じゃないですか。だって、公式問題集を5冊まるごと、たった10回の講義でやるんですから」
女性はさらっと言う。
さらっと言うから、余計に重い。
「情報量は尋常じゃないと思うんです」
俺の顔に浮かんだ「やばいところに来たかも」という不安を見透かしたのか、彼女はにっこり笑って続けた。
「ネットでも『何点上がった』とか書いてありましたが、本当なんですね」
「その分、勉強量も多くなるけどね」
笑いながら言う。
笑いながら言えるのは、覚悟があるからだ。
「受験勉強と並行してだと大変だけど……信じる者は救われるよ」
信じる者。
その言葉が冗談みたいに聞こえるのに、冗談じゃない温度を持っている。
「ありがとうございます。あっ、名乗らずにすみません。私、高松和也と言います」
「私は内田利依。今は聖路加病院で看護師をしています」
看護師。
その単語が、俺の中で別の現実を連れてくる。
医療の現場にいる人が、ここでTOEICをやっている。
それはつまり、この試験が“学校の外側”にあるということだ。
「病院勤務で資格もあるのにTOEICも頑張っているんですね」
「私の夢は海外で看護活動をすることなんだ。そのためにはTOEICを850点以上とらなくてはいけなくて、そのために猛勉強中」
850点。
その数字が、俺の条件と重なる。
同じ数字なのに、彼女の言う850点は“現実の扉”みたいに聞こえた。
俺の850点は、岡田先生の条件だ。学校の中の数字。
彼女の850点は、人生の方向を決める数字だ。
「すごいなあ、夢に向かって仕事をしながら勉強だなんて」
「わたしなんてまだまだ」
内田さんは前の列を見た。
「前の列で勉強している人なんかは外資系の会社に行きたいとか、昇格のためとか……みんな人生かけて頑張っている人たちばかりなんだよね」
前の列。
確かに、前列の人たちは空気が違う。
動かない。無駄がない。
姿勢がいいとかそういう話じゃない。
“揺れない”のだ。周囲の会話や笑いに、一瞬も心を預けない。
「あなたたちも頑張ってね」
「ありがとうございます」
その一言が、励ましというより通達みたいに聞こえた。
ここでは、“頑張る”は選択肢じゃない。
壁掛け時計が開始時間を告げる少し前。
黒板の前に立った中山先生がマイクを付ける――が、案の定、スピーカーから音は出なかった。
「え~と、大変失礼しました(笑)。うちでは、これ『恒例行事』みたいなもんなんです」
会場内が大爆笑になる。
その笑いは救いだった。
笑っていい場所なのだ、と確認できる。
ただし、笑いは軽い。
重い本気の上に薄い笑いが乗っている。だから崩れない。
スピーカーのスイッチを入れ、音が出るのを確かめながら先生は続けた。
「佑月くん、次はちゃんと事前にセッティングしておいてくださいね」
「先生が余計なところ触るからですよ!(笑)」
「はい、はい、原因が私ってことで話は終わりにしましょう(笑)。じゃ、気を取り直していきますよ」
最初から教室の空気が和らぎ、俺と夏村さんも顔を見合わせて苦笑した。
この人は、場を操る。
操るというより、整える。
その後、先生は授業のルールを簡潔に説明した。
録音はOKだが外部流出は禁止。同意書にサイン。飲食・退出は自由だが私語は禁止。質問は休憩時間と授業終了後にまとめて。
「だって、即座に質問されちゃうと、流れ止めちゃうじゃないですか」
先生の口調は軽い。
でも言っていることは徹底している。
「リズム崩れると効率落ちると思うんです。だからね、質問があれば休み時間にどうぞ」
……なるほど。テンポを何より重視するスタイルなんだ。
いや、テンポというより“処理速度”だ。
TOEICは速さの試験。なら、教え方も速くなる。
ここまで理屈が一致していると、納得せざるを得ない。
そして間髪入れずに本題へ。
「今日はPart1から始めますね。ここは全問正解を狙ってください」
先生は当然のことを言うみたいに言う。
「だって問題文も短いですし、難しい単語もほとんど出ないじゃないですか。ここを落とすのはもったいないんです」
声が走り続ける。
走るのに、聞き手を置き去りにしない。
置き去りにしないのは、説明が丁寧だからではなく、要点の刺し方が鋭いからだ。
「ただ、Part1は聞き間違いやすい単語をよく仕込んでくるんですよ」
仕込む。
その単語が、試験の正体を露骨にする。
“試験は仕掛ける側の意図でできている”。
受験英語は知識勝負の顔をしているが、TOEICは仕掛け勝負の顔をしている。
「これは公式問題集を何度もやれば、『また出たな』ってなるんです」
“また出たな”。
それは英語力じゃない。パターン認識だ。
点数を取るための思考だ。
「その瞬間に『はい、これ違う』と切り捨てればいいんです。逆に『これだ』と思うものだけ残してマーク」
切り捨てる。
俺の中で、その言葉が引っかかった。
受験英語では、“全部正確に読む”が正義だった。
わからないところも、丁寧に読み解く。曖昧さを潰す。
それが正しいと思ってきた。
でもここでは、曖昧さを潰す時間がない。
曖昧さを潰す努力が、むしろ点数を下げる。
「こんな短い文、何度も頭の中で反復するなんて無理じゃないですか」
先生は笑いながら言う。
笑いながら言うから、刺さる。
俺は、反復しようとしていた。
理解しようとしていた。
理解する時間がない試験で、理解しようとしていた。
――努力の方向がズレていた。
先生は続ける。
「例えば写真に男の人が写っていて、本を読んでいる。でも、その本が科学の本かどうかなんて、写真からは絶対にわからないじゃないですか」
わからないものは、わからない。
その当たり前が、TOEICでは武器になる。
「そういう不確実な情報は切り捨てる。思い込みでの回答は避ける。これがPart1の鉄則です」
先生の言葉に、俺の背中に電流が走った。
……やばい。
俺、今まで全部“推測”で答えていた。
推測が悪いわけじゃない。
でも、推測は“自分の都合”で埋める作業だ。
試験は、俺の都合なんて知らない。
「では、実際に公式問題集11のPart1を使って練習してみましょう」
黒板横のスピーカーから英語音声が流れる。
シンプルな短文が一度だけ。
俺は無意識に耳を澄ませ、目は写真に釘付けになった。
だが、頭のどこかで「思い込みを捨てろ」と先生の声が響き続けていた。
“捨てる”というのは、逃げじゃない。
ここでは戦術だ。
大学受験の問題は、比較的素直だ。
もちろんひっかけはある。でも知識があれば判断できる。
一方でTOEICは、判断材料の不足をわざと作る。
不足しているものを、勝手に補えば罠に落ちる。
俺はそこで、初めて確信する。
――ここは学校じゃない。
――ここは、結果を取りに来る場所だ。
正しさより、勝ち方。
丁寧さより、速度。
理解より、処理。
居心地は悪い。
でも、この居心地の悪さを越えないと、850点は取れない。
そして何より――
こういう世界の方が、俺は嫌いじゃないのかもしれない。
試験は、仕組みだ。
仕組みには攻略がある。
攻略できるなら、設計できる。
胸の奥で、静かにスイッチがもう一つ入った気がした。
それは焦りのスイッチじゃない。
諦めのスイッチでもない。
――やっと、正しい戦場に立った。
そんな感覚だった。
当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。
面白い・続きが気になる等思われた方は、評価ポイント(↓の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎)を入れて頂けると作者の励みになります。
また、ブックマーク登録・お気に入りユーザー登録もよろしくお願いします。




