13ー1話 Who’s the real one?(序)
◇◇ 四月四日 ◇◇
一学期の始業式もつつがなく終了し、体育館から教室に戻る流れが一斉に生まれた。
拍手の余韻がまだ天井に残っている気がするのに、床ではもうスリッパが擦れる音が始まっている。
誰かがミュートにせず、着信音を鳴らし、それに釣られて別の誰かが笑う。
終わった、という実感よりも、「次だ」という圧が先に来る。
三年生の春は、終わりより始まりのほうが重たい。
体育館の出口に近づくにつれて、人の密度が上がる。
肩と肩が触れ、鞄が脚に当たり、柔軟剤と汗と整髪料が混ざった匂いが鼻に刺さる。
春らしい匂いのはずなのに、どこか息苦しい。
「クラスどうだった?」
「担任だれ?」
「終わったわ、マジで」
声は軽い。笑いも多い。
けれど、その軽さの裏側に、誰もが同じことを考えているのがわかる。
――三年だ。
俺は坂本達、勉強仲間と固まって歩いていた。
自然と集まった、というより、離れないほうが楽だから一緒にいる。
こういうとき、誰と歩くかで立ち位置が決まる。決まってしまう。
「高松、ちょっと」
その声が、ざわめきの中から抜けてきた。
足が止まる。
名前を呼ばれた瞬間、肩の奥がわずかに強張る。反射だ。
振り返ると、進路指導担当の岡田先生が立っていた。
背筋が妙にまっすぐで、人の流れの外側にいる。
体育館の出口という一番混む場所で、なぜか一番落ち着いて見える。
高松。
つまり俺だ。
用事があるときだけ呼ぶ人だ。
しかも、その用事は大抵、俺の予定を勝手に前倒しする。
「先、戻ってて」
そう言うと、坂本、佐々木が苦笑して頷いた。牧野、鵜坂は何も言わない。
その無言が一番正しい対応だと、俺もわかっている。
俺は岡田先生のほうへ歩いた。
人の波から一歩外れるだけで、音の質が変わる。
ざわめきはそのままなのに、少しだけ遠くなる。
「高松、筑波大の受験準備の進捗はどうだ。浦和高校でもやっていた特講を君にはしているから、だいぶ状況は把握しているのだが」
週一で筑波大学推薦試験に向けた特講を受けている。
だから、この話がそれに関係することはすぐに想像がついた。
――そうであってほしかった、というのが正確なところだ。
岡田先生や正見教頭からの話は、俺にとって「良い知らせ」ではない。
少なくとも、楽な知らせではない。
いつも何かしらの責任や役割がくっついてくる。
ありがたい、という言葉を使うのは簡単だ。
でも、そのありがたさの裏に、いつも「条件」がある気がして、素直に受け取れない。
中学のときの進路指導が、まだ身体のどこかに残っている。
あのときのひどい対応と、同時に突き放された感覚。
もう解決した話なのだが、こういう場面になると勝手に蘇る。
俺は一瞬だけ言葉を選び、結局、正直なところを口にした。
「余裕はあります。おかげで自分の弱点だった英語での会話や説明といった勉強ができているので、ありがたいくらいです」
優等生の回答だ。
口に出した瞬間、舌の奥に違和感が残る。
感謝と自己防衛が混ざった言葉。
「そうか。だろうな。そんな答えがお前から返ってくると想定していたよ」
岡田先生は小さく頷き、続けた。
「じゃあ、もっと実践的な英語の勉強をしないか?」
「と、言いますと」
「TOEICという国際的に認められた英語の試験がある。ReadingとListeningのみだが、内容はビジネス英語に近い。浦和高校でも推奨していたし、大学によっては成績が考慮される」
TOEIC。
名前は知っている。
英語が得意なやつが点数で語るやつだ、という程度の認識しかなかった。
ただ、ビジネス英語という言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ反応した。
同じ医学部志望でも、俺の志願理由は医療ロボットの開発だ。
当然、志願書の志望理由にも記載してもらった。
合格し、その後の研究の場や現場も、国内だけで完結するとは思っていない。
海外との対応。
面接で、海外とのやり取りを想定した話をされた場合、英語でどう対応するのか――そこは、ずっと気になっていた部分だった。
理屈としては、納得できる。
理屈が立つときほど、人は簡単に前に進んでしまう。
「いいとは思うんですが、TOEICって……何点とれば合格なんですか?」
言ってから気づく。
『合格』という言葉がズレている。
岡田先生は、俺の顔を見て、声を出して笑った。
「先生、笑わなくてもいいじゃないですか。こっちはTOEICの『と』の字も知らないんだから」
思わず口が先に出た。
恥ずかしさをごまかすとき、俺は少しだけうるさくなる。
「悪い悪い。この試験は習熟度を点数で示すものだ。GMARCHで七百点以上、早慶だと八百点以上と言われている」
そこで一拍置いて、岡田先生は言った。
「だから、高松の目標は八百点だ」
勝手に決められた、と思った。
同時に、期待されているとも思った。
その二つが同時に来るのが、一番厄介だ。
期待は、鎖になる。
「国立大の推薦なんて簡単には受からないと思うので、一般入試も見据えて受けておくか……。将来的にも有効だと思うし……。ところで、試験はいつですか」
「今月の二十日」
「今月の……二十日?」
「今月の二十日だ」
言葉が一拍遅れて身体に落ちる。
「ちょ、ちょっと待ってください。二十日って受験まであと二週間くらいしかないじゃないですか! 申し込みは?」
「もう済ませた」
「俺の許可もなく?」
「我慢しろ。お前が結果を出せば、今後は校内で希望者を集めての団体受験も視野に入る」
雑だ。
相変わらず。
まるで俺が、学校の都合のいい試金石みたいだ。
胸の奥で、小さな怒りがくすぶる。
でも、これが試金石なら、やるしかない。
逃げ道を探すより、結果を出すほうが早い。
「受験料は?」
「学校で出す。要するにタダだ。ただし、逃げるなよ。受験番号を控えておくので結果は一目瞭然だ」
タダ。
その言葉が、甘くて、少し怖い。
感謝すべきなのか、警戒すべきなのか、自分でもわからない。
ただ、もう引き返せないことだけははっきりしている。
廊下の向こうで、夏村の姿が見えた。
誰かと話しながら笑っている。
人の話を聞くときだけ、少し柔らかくなる表情。
この話を、今すぐ言うべきか。
言えば、たぶん笑いながら「やれ」と言うのだろう。
でも、その瞬間、俺の進路は完全に俺だけのものじゃなくなる。
……もう、なり始めているのに。
それでも、この取り組みがさよりや晏菜たちの未来に繋がるなら、俺が先にやるしかない。
そうやって俺は、いつも自分を納得させる。
立派な理屈は、現実の前では簡単に崩れる。
四月二十日。
春のはずなのに、締め切りみたいな日付。
しかし、そう簡単に世の中はうまく回るわけがない。
ーー 放課後 ーー
放課後の廊下は、朝とは違う騒がしさをしていた。
部活に向かう足音が早く、教室に残る声はだらだらと長い。
始業式の日特有の浮つきが、まだ床や壁に残っている。
俺と夏村さんは、昇降口に向かって並んで歩いていた。
靴箱の前で立ち止まり、上履きを脱ぐ。
その何気ない動作の途中で、俺は少しだけ言葉を探した。
「夏村さん。俺、ちょっとコルソの本屋に立ち寄って行こうと思うんですけど」
声に出してから、理由を付け足すべきか迷った。
用事がある、というだけでは足りない気がして。
「いいよ、俺も行く」
即答だった。
立ち止まることも、考える素振りもない。
「今日は何が目的だ?」
「始業式の後、岡田先生に呼び止められたんですけど」
「ああ、捕まっていたな」
その言い方が少し可笑しくて、俺は小さく笑った。
捕まっていた、という表現は正確だ。
俺に選択権はなかったからだ。
「その時、TOEICっていう英語の試験を受けてみろって言われたんです」
「TOEICねぇ……」
夏村さんは靴を履き替えながら、少しだけ視線を宙に泳がせた。
「聞いたことはある。確か、青山と法政の願書の冊子に、その試験で何点以上取った人は、とか書かれていた記憶があるな」
記憶の引き出しを丁寧に開けるみたいな口調だった。
自分の進路に必要な情報を、きちんと整理している人の喋り方だ。
「それを受けるのか」
「勝手に岡田先生が申し込んだみたいで……。ビジネス英語がメインの試験らしいのですが、良い成績を取れば受験にも有利なんですね」
「それで、うちの生徒にも有益か確認するため、かずやを生け贄にしたと」
「正解です」
俺は肩をすくめて言った。
冗談みたいに言わないと、少し悔しかったからだ。
「じゃあ、俺も受ける」
「……なんですと?」
思わず立ち止まった。
靴箱の前で、俺だけが一拍遅れる。
「俺も受けるよ。かずやと一緒にTOEICの勉強するよ」
あまりにも自然に言うものだから、一瞬、意味が理解できなかった。
夏村さんは、この時点で目標である慶應大学の合格ラインにほぼ達していた。
模試の結果も安定しているし、今さら新しい試験に手を出す必要はない。
むしろ、リスクだ。
だからこそ、胸の奥に二つの感情が同時に生まれた。
ありがたい。
そして、申し訳ない。
ここで無理をしてTOEICの勉強をするよりも、自分の勉強に集中した方がいい。
それは、理屈としては明白だった。
「いや……夏村さんは、自分の夢の合格を目指してくださいよ」
俺は、できるだけ穏やかな声を選んだ。
「ここでわざわざ、まわり道を行く必要なんかないんです」
「ビジネスに役立つんだろう」
夏村さんは、少しだけ笑った。
「俺も、世界を股にかけた経営者になりたいしな。うん、やっぱ、受けるわ」
論理的に誤った発言ではなかった。
だからこそ、俺はそれ以上、否定できなかった。
内心では、二つの感情がせめぎ合っていた。
――巻き込んでしまった、という罪悪感。
――一人じゃない、という安堵。
どちらも本音で、どちらも捨てられない。
「……難しくても、知らないですよ」
それは脅しでも拒否でもなく、ただの確認だった。
「かずやと一緒なら、大丈夫だよ」
即答だった。
その一言で、決まってしまった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
同時に、彼女の時間を奪ってしまうのではないかという不安が、遅れて湧いてくる。
コルソの書店は、放課後の高校生で混んでいた。
参考書コーナーに向かう足取りは、それぞれ違う。
切羽詰まっている者、惰性で歩く者、目的がはっきりしている者。
俺たちは、迷わずTOEICの棚に向かった。
公式問題集が、ずらりと並んでいる。
背表紙に書かれたVol.の数字が、妙に圧迫感を放っていた。
「じゃあ……」
自然と役割分担が決まる。
Vol.5から7までを夏村さんが。
Vol.8から10までを俺が。
合計六冊。
紙袋に入れると、ずっしりと重い。
その重さが、そのまま未来の重さみたいに感じられた。
帰宅後、風呂を済ませ、机に向かう。
時計を見ると、もう夜だ。
入浴後、睡眠までの二時間。
その全てを、問題集に注ぎ込んだ。
公式問題集は一冊につき二回分の試験が収められている。
後日知ったことだが、実際の試験よりやや易しめに作られているらしい。
だが、そのときの俺にとっては、そんな情報は何の救いにもならなかった。
二時間。
たった二時間。
それが、永遠みたいに長い。
リスニングが始まってすぐ、時間の感覚が狂った。
音声は待ってくれない。迷った瞬間に次の問題が流れる。
リーディングに入る頃には、肩と首が重くなっていた。
文章を読んでいるはずなのに、意味が頭に入ってこない。
何度も時計を見る。
見るたびに、絶望する。
――まだ、こんなにあるのか。
自分の英語力の低さに、はっきりと突きつけられる。
一言で言えば、地獄だった。
その難しさは、後からなら理屈で説明できる。
一.時間制約の厳しさ
リスニング約四十五分で百問、リーディング七十五分で百問。
一問あたり、三十六秒。
特にリーディングは、考えた瞬間に負ける。
考える前に処理しなければ、間に合わない。
二.集中力の維持
二時間、逃げ場がない。
リスニングは聞き逃したら終わりだというプレッシャーが、常に背中に張り付く。
三.実践的な英語力
ビジネス用語、フォーマルな表現、複雑な文構造。
さらに、聞き慣れないアクセント。
特に、イギリス英語やオーストラリア英語。
単語は知っているはずなのに、音になった瞬間、別物になる。
――こんなはずじゃなかった。
頭では理解していても、身体が追いつかない。
「……これは、やばいわ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
岡田先生の期待。
夏村さんの時間。
全部が頭の中で重なり合う。
不安が支配する。
考えることをやめたくなる。
そのまま、気を失うように眠りに落ちた。
目を閉じる直前、最後に浮かんだのは、
四月二十日、という日付だった。
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編集記録
2025/09/08 校正・改稿
2026/01/01 改稿




