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【第一部完】第16話「紫電の退却」

 紫色の閃光が、森を塗り潰した。


 視界が白く焼け、鼓膜が破れそうな轟音が遅れて襲ってくる。

 俺は反射で魔晶球を抱え込んだ。……抱え込んだはずなのに、腕の感覚がない。


(生きてるのか、俺……?)


 焦げた木の匂い。湿った土が蒸発する臭い。

 そして――金属が焼ける臭い。


「……ガ、ルド……さん……?」


 声が上手く出ない。

 喉が乾いて、砂を噛むみたいだ。


 紫の光が薄れ、輪郭が戻る。


 そこに――“壁”がいた。


「ぐ、ぅ……っ……」


 ガルドが膝をついていた。

 黒鉄の大盾は、焼け焦げ、表面が赤黒く歪んでいる。スパイクは地面に深く刺さったまま、まるで避雷針みたいに周囲へ紫電を逃がしていた。


 鎧はところどころ溶け、肩当ての端が焦げ落ちている。

 それでも――盾は、まだ立っている。


「……っ、は……! 生きて……る……!」


 フィリアの声が裏返った。

 彼女は泣きそうな顔で、でも前に出ようとして、足が震えて止まる。


 俺は見た。

 ガルドの背中が、まだこちらを守っているのを。


 そして、魔狼――《紫電の魔狼ヴァイオレット・ヴォルグ》は。


 ……一歩、後ろに下がっていた。


「グルゥ……」


 金色の瞳が細くなる。

 その毛並みの紫電は一瞬弱まり――その瞬間、俺は叫んだ。


「今だ!! 攻撃の通る“3秒”!!」


 視界の端で、セラフィーナが息を吸い込む。

 涙で濡れたまつ毛の奥、瞳は燃えていた。


「――聖歌【戦神の咆哮】!!」


 歌が、爆発する。

 それは優しい祈りじゃない。骨の奥を震わせる、戦場の鼓動だ。

 空気が変わる。体温が上がる。血が走る。


「フィリア!!」


「はいっ!!」


 フィリアが踏み込む。

 森の泥濘ぬかるみが、今だけ“舞台”に変わった。


 銀髪が翻り、新装備の白と銀糸が、闇に光を刺す。

 彼女の剣が、風を呼んだ。


「《風裂》――」


 フィリアが息を吸う。

 そして、今までで一番、深く――鋭く――声を叩きつけた。


「――『終奏フィナーレ』!!」


 暴風が一点に収束する。

 薄い刃じゃない。旋回する嵐そのものを“槍”にして突き出したような、異質な一撃。


 魔狼の毛並みから紫電が消えた、ほんの刹那。

 そこへ――突き刺さる。


 ズァァァァン!!


 空気が裂け、木々が揺れ、森が悲鳴を上げた。

 魔狼の肩口から胸にかけて、深い裂傷が走る。紫の血――いや、魔力混じりの血が噴き上がり、蒸気になって霧散した。


『うおおおおおおお!!』

『入った!!!!!』

『今のやばい!!』

『ネームドに傷つけたぞ!?』


 俺の魔晶球が震える。

 コメントが洪水みたいに流れ、視聴者数の数字が跳ね上がる。


『視聴者数:1294』


 だが、そんな数字に酔ってる暇はない。

 魔狼は――まだ、生きている。


「グ、ルルルルルル……!!」


 怒り。

 森が震えるほどの殺気。


 ガルドが、焼けた盾を持ち上げようとして、腕が痙攣する。


「……く、そ……もう、動か……ねぇ……」


「ガルド!!」


 セラフィーナが叫ぶ。

 彼女はもう、攻撃歌を維持しているだけで限界だ。喉が裂けそうで、声が掠れている。


 リンが一歩前に出た。

 いつもの余裕ある微笑みはない。狩人の顔だ。


「ボクが――止める」


 リンは弓を引き絞る。

 矢は一本。だが、矢尻に集まるのは風精霊でも光精霊でもない。


 ……土だ。


 地面の腐葉土が渦を巻き、矢にまとわりつく。


「《地精霊ノーム》――縫い止めろ」


 放たれた矢は、魔狼の“影”に刺さった。


 ズン、と地面が沈む。

 根が伸び、土が絡み、魔狼の四肢を一瞬だけ縛り上げる。


「今の一瞬だ!」


 リンが叫ぶ。

 俺はその声で、はっと我に返った。


(倒せない。……でも、撤退させられる)


 獣は賢い。

 “痛み”が“獲物に対する危険”を示したなら、無駄な消耗は避ける。


 だから、最後に必要なのは――“追撃”じゃない。

 “追撃できるぞ”という宣告だ。


「セラフィーナさん!」


 俺が叫ぶ。


「仕上げに――威嚇を! 最大音量で!! こっちはまだ戦えるって、見せろ!!」


「……っ、言うじゃない……!」


 セラフィーナが口の端を釣り上げる。

 涙を乱暴に拭って、息を吸い込んだ。


「聖歌【裁きのカデンツァ】!!」


 音が、刃になる。

 空気が震え、木々の葉が一斉に裏返り、森全体が鳴った。

 光が走り、魔狼の足元に“聖域”の紋が浮かび上がる。


 実際のダメージは――小さい。

 でも、演出としては十分すぎた。


「グルゥッ……!!」


 魔狼が低く唸り、リンの“縫い止め”を引きちぎる。

 金色の瞳が俺たちを睨み、裂けた肩から紫の血を滴らせながら――後ろへ跳んだ。


 一瞬、森の闇に溶けるように消える。


 最後に残ったのは、唸り声だけだ。


「……覚えておけ」


 そんな幻聴がした気がした。


 そして。


 森に、音が戻った。

 鳥の声。虫の羽音。風の葉擦れ。


 生きている世界の音。


「……っ、は……」


 フィリアが膝から崩れ落ちる。

 顔が青いのに、目は涙で濡れている。


「生きて……ます……!」


 ガルドは、盾に寄りかかったまま笑った。


「……ほらな。……通さなかった……だろ……」


 そのまま、巨体がぐらりと傾く。


「ガルド!!」


 俺が駆け寄るより早く、セラフィーナが歌い出す。


「聖歌【癒しのリフレイン】……!!」


 優しい旋律が、焦げた鎧の隙間へ染み込む。

 ガルドの呼吸が、わずかに落ち着いた。


 だが、セラフィーナは歌いながら泣いていた。


「……バカ……! ほんとにバカ……!」


「……うるせぇ……」


 ガルドが薄く笑う。


「……いい歌、だった……」


「当たり前でしょ……!」


 フィリアが震える手でガルドの腕を掴む。


「帰りましょう……! みんなで……!」


 リンが周囲を警戒しつつ、静かに言った。


「急ごう。森が落ち着いた今が、帰れる唯一の時間だ」


 俺は魔晶球を見た。

 コメント欄は、もう文字じゃない。叫びと祈りの奔流だった。


『生きろ』

『帰れ』

『ガルドさん…!』

『フィリアちゃん泣くな…!』

『セラ姉…!』

『リンちゃん神』

『◆lulu:……よくやった。本当に、よくやった。今は帰って。』


 俺は画面に向かって、短く頭を下げた。


「……帰ります。絶対に」


 そして、配信を切った。


          ◇


 ――迷宮都市エルヴァ。


 夕暮れの門をくぐった瞬間、膝が笑った。

 街の喧騒が、嘘みたいに温かい。


 俺たちはギルドに担ぎ込まれた。

 ガルドは治療室へ。フィリアとリンも応急処置。セラフィーナは喉を潰しかけて、治癒術士に怒られた。


 そして翌日。


 冒険者ギルドの大ホールは、異様な熱気に包まれていた。

 掲示板の前に、人だかり。


「……おい、あれ」

「昨日の配信の連中だろ?」

「ネームド相手に生還したって、マジかよ……」


 ベルナさんが俺たちを待っていた。

 いつもの仕事顔じゃない。少しだけ、誇らしそうな顔だ。


「《アンサンブル》の皆さん。ギルドから正式通達です」


 彼女が差し出したのは、新しいプレート。

 五枚――全員分。


 刻まれていたのは。


『C』


「……C?」


 フィリアが固まった。

 ガルドも目を見開く。

 リンは口笛を吹き、セラフィーナは「ふん」と鼻を鳴らしたが、指先が少し震えている。


「昇格、です」


 ベルナさんがはっきり言う。


「ネームド・モンスターと交戦し、生存し、さらに“負傷撤退”を選ばせた。これはギルドでも前例がほとんどありません。総合評価として、あなたたちはCランク相当――いえ、“Cランクとして扱うべき戦果”を上げました」


 ざわめきが、どよめきに変わる。


「ただし」


 ベルナさんが視線を鋭くした。


「今回の件は、褒めるだけでは終われません。ネームドは本来、遭遇時撤退が原則です。あなたたちは……無茶をした」


 空気が締まる。


 俺は一歩前に出て、頭を下げた。


「……はい。命を賭けました。二度と同じ判断はしません。俺が指揮官として、学びました」


 ベルナさんは少しだけ目を細めて――ふっと息を吐いた。


「ならいいです。あなたが“学ぶ指揮官”なら、ギルドは伸びる芽を潰しません」


 そして、最後に小さく笑った。


「それに……街の人たちも、あなたたちを認めました。昨日の配信、見てましたよ。ほとんど全員が」


 俺は喉の奥が熱くなった。


 プロデューサーとして、数字は知っている。

 でも昨日の数字は、ただの数字じゃなかった。


 “命を繋いだ視線”の数だった。


          ◇


 夜。

 いつもの酒場。


 ガルドはまだ包帯だらけで、腕の動きも鈍い。

 でもジョッキは持てる。持てるなら大丈夫だ。


「……Cか」


 ガルドがプレートを眺めて、照れくさそうに鼻をこする。


「俺が……C……なぁ……」


「当然よ」


 セラフィーナがワインを揺らす。


「私の歌を受けて生き残ったんだから。……誇りなさいよね」


「お前が一番誇ってるだろ」


「うるさい」


 フィリアはプレートを胸に抱えたまま、ずっと笑っている。

 泣いたり笑ったり、忙しい。


「私……怖かったです。でも……みんながいたから……!」


 リンは相変わらず優雅にグラスを掲げた。


「君の“終奏”は美しかったよ、お姫様。あれは森ですら息を止めた」


「ふ、ふえぇ……」


 フィリアがまた真っ赤になる。


 俺はその様子を見て、静かに息を吐いた。


 第一部は、ここで終わる。

 でも、物語は終わらない。


 むしろ――ここからだ。


 Cランクになったことで、行ける場所が増える。

 受けられる依頼の格が変わる。

 そして――ネームド《紫電の魔狼》は、撤退しただけで死んでいない。


 あいつは、覚えている。


 俺たちの匂いを。

 俺たちの音を。


 ふと、魔晶球が小さく震えた。

 通知。


 匿名アカウントからの短いメッセージ。


『◆lulu:おめでとう。……でも、次は“勝つ準備”をしなさい。あの魔狼は、また来る。』


 俺は画面を閉じて、笑った。


「……当然です」


 グラスを掲げる。


「《アンサンブル》――これからも、もっと派手にいきましょう」


「おう」

「はい!」

「ふん」

「いいね」


 五つのグラスが重なり、澄んだ音が鳴った。


 不協和音だった俺たちの音が、今は確かに――ひとつの音楽になっていた。

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