第14話「深緑の蹂躙劇と、捕食者の影」
ゲートの光が収束し、視界が開けた瞬間、むせ返るような湿気と濃密な緑の匂いが俺たちの鼻腔を突いた。
「……うっぷ。なんだこりゃ、空気が重てぇな」
ガルドが顔をしかめ、まとわりつくような湿気を手で払う仕草をする。
第3層『大森林』エリア。
天井が見えないほど巨大な木々が頭上を覆い隠し、垂れ下がる無数のツタとシダ植物が視界を遮る。
地面は腐葉土と苔でぬかるみ、一歩踏み出すたびに靴が沈み込む感覚があった。
「綺麗な森……と言いたいところだけど、ボクの故郷とは大違いだね」
リンが眉をひそめ、周囲の木々を見上げる。
「風が通らない。木々が光を奪い合って、森全体が飢えている……そんな気配がするよ」
エルフならではの感性か、それとも精霊射手としての直感か。
俺は胸元の魔晶球を起動しながら、周囲を警戒した。
『配信開始』
『視聴者数:198』
『うわ、画面暗っ』
『ここが3層か……なんか不気味だな』
『リンちゃん今日もイケメン!』
視聴者数は200人近く。
幸先の良いスタートだが、俺のプロデューサーとしての勘は警鐘を鳴らしていた。
(画作りが難しいな……)
木々が邪魔で、引きの画が撮れない。
それに、薄暗さと緑一色の背景のせいで、キャラクターが埋もれてしまう。
「隊列を詰めましょう。ここじゃあ、お互いの姿を見失いかねない」
俺の指示で、ガルドを先頭に、フィリア、俺、セラフィーナ、そして後衛にリンという陣形を組む。
だが、探索開始から十分もしないうちに、俺たちの足並みは乱れ始めていた。
「――あっちだね」
最後尾のリンが、唐突に横の茂みへ向かって矢を放った。
ヒュッ、という音と共に、隠れていた大芋虫が悲鳴を上げて絶命する。
「おいコラ! 勝手に撃つな!」
ガルドが怒声を上げた。
「敵の位置が分からねぇと、こっちは盾を構えられねぇんだよ! いきなり横で矢が飛んだらビビるだろうが!」
「おや? 気配で分かるだろう? あんなに大きな呼吸音が聞こえていたのに」
「聞こえるか! 俺たちはエルフじゃねぇんだ!」
リンには見えている世界が、他のメンバーには見えていない。
さらに、足場の悪さがフィリアの機動力を殺し、セラフィーナもイライラを募らせている。
「ちょっと! リズムがバラバラよ! 私がバフをかけるタイミングで前衛が詰まってるじゃない! もっとスムーズに動きなさいよ!」
「うぅ……ごめんなさい! 根っこが引っかかって……!」
フィリアが涙目で謝る。
個々の能力は高い。装備も一級品だ。
けれど、まだパーティとしての「音」が揃っていない。不協和音が、森の中に響いていた。
その時だった。
カサカサカサカサカサ……。
頭上から、背筋が凍るような音が降り注いだ。
風に揺れる葉の音ではない。もっと硬質で、大量の何かが這い回る音。
「――上だッ!」
俺が叫ぶと同時に、天井の闇から無数の黒い影が降ってきた。
「ジャイアント・スパイダー……しかも、群れかよ!」
ガルドが盾を掲げる。
落下してきたのは、大人の胴体ほどもある巨大な蜘蛛たちだった。
鋼のような剛毛に覆われた八本脚。滴る毒液。その数は十や二十ではない。
全方位包囲網。
上からも、横の樹上からも、蜘蛛の吐き出す粘着性の糸が俺たちを絡め取ろうと迫る。
「くっ、おおぉぉぉッ!」
ガルドが大盾で頭上をガードする。
だが、敵は立体的に攻めてくる。正面を防げても、背後や真上からの攻撃には対応しきれない。
「いやぁっ! 糸が……切れない!」
フィリアが剣を振るうが、粘りつく糸に刃を阻まれ、動きを封じられていく。
リンが矢を放ち、セラフィーナが防壁魔法を展開するが、数が多すぎて処理が追いつかない。
『うわあああああ』
『数ヤバすぎだろ!』
『画面が蜘蛛で埋まってる、無理無理』
『これ全滅コースじゃ……』
コメント欄が悲鳴で埋まる。
完全にジリ貧だ。このままでは、数に押し潰される。
(どうする? 撤退か? いや、囲まれていて逃げ道がない)
俺はカメラ越しに戦況を見た。
暗い森。無数の敵。バラバラに戦う仲間たち。
――違う。
バラバラだから弱いんじゃない。
「見えていない」から繋がらないんだ。
俺は腹に力を込め、戦場の騒音に負けない声で叫んだ。
「リンさん!あなたの『目』をみんなに貸してくれ! 《光精霊》で敵全員をマーキングしろ!」
リンが一瞬きょとんとし――すぐに不敵に微笑んだ。
「なるほど。……この薄暗い森を、ダンスフロアに変えろってことかい?」
「そうだ! ガルドさんは光った敵を引きつけろ! フィリアさんはその隙間を走れ! セラフィーナさんは全開でテンポを上げろ!」
俺の指示が、不協和音を一瞬で断ち切った。
全員の視線が定まる。
「了解だ。……満天の星空にしてあげるよ!」
リンが弓を垂直に構える。
つがえたのは一本の矢。だが、そこに込められた魔力は膨大だった。
「《精霊弓・流星雨》!」
放たれた矢が、空中で弾けた。
数百の光の粒となって、森の闇に潜む蜘蛛たちへと降り注ぐ。
ダメージはない。だが、光の矢が突き刺さった蜘蛛たちは、一斉に青白く発光した。
暗闇の中で、敵の位置、数、動きの全てが「可視化」された。
「へっ、これなら狙いようがあるぜ! おいクソ虫ども、こっちだ!」
ガルドが黒鉄の大盾を打ち鳴らす。
スキル【挑発の咆哮】。
光る標的たちが、本能的にガルドへと殺到する。
五十匹近い巨大蜘蛛の突進。
だが、ガルドは盾の下部にあるスパイクを地面に深く突き立て、重心を落とした。
「――鉄壁!」
ドォォォォォン!!
重低音が響く。
蜘蛛の群れが盾に激突し、その衝撃で折り重なって団子状態になる。
ガルドの鎧が軋み、足元の地面がひび割れる。
だが、彼は一歩も下がらなかった。
「今よフィリア! 遅れるんじゃないわよ!」
セラフィーナの杖が振られる。
《聖歌・戦乙女の舞踏》。
激しいアップテンポの旋律が、フィリアの身体を包み込む。
「はいっ……見えます、道が!」
フィリアが地面を蹴った。
泥を蹴散らし、残像だけを残して加速する。
ガルドが止めた、光る敵の塊。
そこは、彼女にとって最高の「的」だ。
「《風裂》・乱れ桜ッ!」
銀色の暴風が吹き荒れた。
フィリアの姿が消え、無数の斬撃の軌跡だけが空中に描かれる。
硬い甲殻が紙のように切り裂かれ、緑色の体液が舞う暇もなく、次々と光の粒子へと変わっていく。
一秒間に五連撃。十連撃。二十連撃。
圧倒的な速度と火力による、一方的な蹂躙。
最後に残った一匹が、糸を吐いて逃げようと樹上へ跳ねた。
「逃がさないよ」
リンはフィリアの動きを見守ったまま、ノールックで追撃の矢を放つ。
眉間を貫かれた蜘蛛が、光となって消滅した。
静寂が戻る。
あれほどいた蜘蛛の群れは、一匹残らず消滅していた。
「……ふぅ」
フィリアが着地し、ふわりと広がるスカートの裾を抑えながら、カメラに向かってピースサインを作る。
汗一つかいていない。完璧な勝利だ。
『…………』
『え、なに今の』
『強すぎワロタ』
『あんなにいたのに一瞬で消えたぞ』
『ガルドが止めてフィリアが斬る、この黄金パターン完成しすぎだろ』
『リンちゃんのサポート有能すぎ』
『これがアンサンブルか……!』
コメント欄が爆発的な速度で流れていく。
視聴者数は一気に跳ね上がり、250人を突破していた。
「やった……! すごいです、私たち!」
フィリアが興奮気味にガルドとハイタッチをする。
ガルドも、傷だらけになった盾を愛おしそうに撫でながらニヤリと笑った。
「おう。リンのおかげで敵が丸見えだったからな。これなら、どんな群れが来ても怖くねぇ」
「私のバフも完璧だったでしょ? 感謝しなさいよね」
セラフィーナが胸を張る。
俺たちのパーティは、この一戦で完全に「噛み合った」。
このメンバーなら、どこまでも行ける。第3層どころか、その先へも――。
そんな全能感に包まれていた、その時だった。
「……ッ!」
リンの耳が、ピクリと跳ねた。
「静かに」
彼女の鋭い声に、歓喜の空気が凍りつく。
「……どうしました?」
「音が……消えた」
言われて気づく。
さっきまで聞こえていた鳥の声も、虫の羽音も、風の音さえも。
全てがピタリと止んでいる。
森が、怯えている。
漂ってくるのは、濃密な血の匂い。
「グルゥゥゥゥ……」
重低音の唸り声が、腹の底を震わせた。
前方の藪が揺れ、ゆっくりと「それ」が姿を現す。
デカい。
通常の狼の三倍はある巨体。
月光のように美しい蒼銀の毛並み。
その身体には、バチバチと紫色に放電する「雷と風の魔力」が纏わりついていた。
「……嘘だろ」
ガルドの声が震えた。
彼は本能的に盾を構えたが、その足が一歩、後ずさる。
「おい、冗談じゃねぇぞ……。今の威圧感、さっきの蜘蛛なんかの比じゃねぇ」
目の前の魔物は、ただそこに立っているだけで、周囲の空気を歪めていた。
圧倒的な強者だけが持つ、捕食者のオーラ。
フィリアの手から、カラン、と剣が滑り落ちそうになる。
戦う前から、身体が理解してしまっているのだ。「勝てない」と。
「……ネームド・モンスター」
リンが、蒼白な顔で呟いた。
「《紫電の魔狼ヴァイオレット・ヴォルグ》。……この階層の生態系を支配する、生きた災害だ」
魔狼が、金色の瞳で俺たちを一瞥した。
興味なさげに、あくびをするように口を開く。
その口から漏れた吐息だけで、近くにあった太い木の幹が、真空刃を受けたように両断され、ズズンと倒れた。
『え……?』
『何今の』
『吐息で木が切れたぞ?』
『やばい、逃げて!』
『画面越しでもプレッシャーやばいんだけど』
楽しい配信の空気は一変し、絶望が支配する。
俺は震える手でカメラを固定し続けるのが精一杯だった。
その時、コメント欄に真っ赤な文字が流れた。
『◆lulu:バカ! 撮影止めて今すぐ逃げて!!』
普段は冷静な、分析をしている◆luluが、なりふり構わず連投してくる。
『◆lulu:そいつはネームドよ! Bランクパーティでも全滅があり得る化け物だわ! あなたたちが戦える相手じゃない! 全力で逃げて!!!』
魔狼が、ゆっくりと身を沈めた。
攻撃態勢。
紫色の雷光が、その全身で激しくスパークする。
死が、形を持って目の前に迫っていた。




