第10話「湿った闇と、導きの歌姫」
世界樹迷宮、二層への階段。
一段降りるたびに、まとわりつく空気が重くなっていくのが分かった。
「……うぅ。なんか、空気がじめじめします」
先頭を歩くフィリアが、不快そうに鼻を鳴らす。
一層の「苔むした回廊」も湿度は高かったが、ここは質が違う。肌に張り付くような濃密な湿気と、淀んだ水の臭い。
壁は濡れて黒光りし、天井からは絶えず水滴が落ちている。光苔の数も減り、視界は悪い。
「装備の手入れが大変そうだな……。油断するとすぐ錆びそうだ」
殿のガルドが、新調したばかりの黒鉄の盾を愛おしそうに撫でながらぼやく。
そんな二人を見て、最後尾を歩く白いローブの少女――セラフィーナが、呆れたように声を上げた。
「アンタたち、遠足に来たんじゃないのよ。口開けてぼーっとしてないで」
彼女はローブの裾をキュッと結び上げ、足元が汚れないように対策しながら、鋭く指示を飛ばした。
「湿気が多いってことは、『音』が響きにくいし、視界も悪いってこと。それに、こういう場所は毒性の胞子が舞いやすいの。口で呼吸してると肺をやられるわよ。鼻呼吸を意識しなさい」
「は、はいっ!」
「へいへい……」
フィリアが背筋を伸ばし、ガルドが苦笑する。
俺はすかさず、その様子を魔晶球に収めた。
「今の注意、いただきました。……聞こえましたか、視聴者の皆さん。これが『プロの警戒』です」
『配信開始』
『視聴者数:124』
『セラ姉さん頼もしすぎ』
『一層とは空気が違うのが伝わってくる』
『ガチ勢の解説助かる』
『フィリアちゃんが完全に後輩キャラで草』
開始直後から、視聴者数は120人を超えて安定している。
新メンバー・セラフィーナの加入と、昨日の「お披露目配信」の熱気がそのまま続いている証拠だ。
「よし。じゃあ、行きますか。未知の領域、二層攻略開始です」
◇
二層の通路は、足元がぬかるんでいて非常に歩きにくい。
フィリアの新しい靴が泥に沈み、彼女の得意な「軽快なステップ」を阻害しているのが見て取れた。
そんな時だった。
「……何か、います」
フィリアが足を止め、暗がりを睨む。
羽音。
天井の闇から、巨大な蛾の群れが降ってきた。毒々しい鱗粉を撒き散らす「ポイズンモス」だ。
さらに前方からは、金属製の鎧を着込んだ「アーマーゴブリン」が二体。
「挟まれた!」
ガルドが盾を構えて前に出るが、足場の悪さに一瞬反応が遅れる。
フィリアも、頭上からの鱗粉を避けようとして、泥に足を取られ体勢を崩した。
「あっ……!」
絶体絶命の隙。
だが、その隙を埋めたのは、剣でも盾でもなく――歌だった。
「――《聖歌【疾風のワルツ】》!」
セラフィーナの声が、湿った空気を切り裂いて響き渡る。
軽快で、攻撃的なリズム。
彼女の杖から放たれた青白い光の波紋が、フィリアとガルドの体を包み込んだ。
瞬間。
「えっ……!?」
フィリアが目を見開く。
体が、軽い。
泥に沈んでいたはずの足が、まるで舗装された道の上にいるかのように軽く上がる。
背中に見えない翼が生えたような感覚。
「いける……!」
フィリアは地面を蹴った。
泥を跳ね上げる音すら置き去りにして、白い残像が走る。
毒蛾の群れが反応するよりも早く、彼女の剣閃が空中で煌めいた。
一閃。
三匹の毒蛾が、同時に両断されて地面に落ちる。
「ガルドさん!」
「おうよ!」
ガルドもまた、信じられない速度で動いていた。
総重量数十キロはあるはずのフルプレートと大盾を装備していながら、まるで羽根のように軽々と踏み込む。
ドォン!!
黒い盾によるシールドバッシュが、アーマーゴブリンを鎧ごと粉砕して吹き飛ばした。
重厚な見た目と、不釣り合いなほどの高速機動。
そのギャップが、凄まじいインパクトを画面に残す。
残った一体をフィリアが風魔法で仕留め、戦闘は数秒で終了した。
『は??』
『今の動き何? 早送り?』
『バフえぐすぎだろ』
『これが聖歌術士の本気か……』
コメント欄が驚愕で埋め尽くされる。
俺も、カメラを回しながら鳥肌が立っていた。
Fランクの二人が、Cランク級の動きをしている。これが「一流のバフ」の力か。
「す、すごいですセラフィーナさん!」
フィリアが目を輝かせて振り返る。
「私、風になったみたいでした! 足元の悪さなんて全然気にならなくて……!」
「盾が発泡スチロールみてぇに軽かったぞ。こりゃあ癖になりそうだ」
ガルドも興奮気味に盾を握りしめる。
二人の称賛を受け、セラフィーナはふん、と鼻を鳴らして髪を払った。
「当たり前でしょ。私の歌があれば、泥沼だろうが舞踏会になるのよ。……ま、アンタたちが私のリズムに遅れなかったことは褒めてあげるわ」
ツンとした態度だが、その口元はわずかに緩んでいる。
俺はすかさず、その「ドヤ顔」をアップで抜いた。
「ありがとうございます。おかげで最高の画が撮れました」
「なっ、寄るな! 毛穴まで映ったらどうすんのよ!」
◇
順調に進んでいた俺たちだったが、二層の奥へ進むにつれて、環境はさらに過酷になっていった。
「……うわぁ」
目の前に広がっていたのは、通路全体が水没したエリアだった。
濁った水が膝下あたりまで満ちており、先が見通せない。
「ここが噂の……水没エリアですね」
俺は慎重に足を水に入れた。冷たい。そして、足元の感覚がないのが怖い。
水中に何が潜んでいるか分からない恐怖。
「気をつけて。水音を立てると敵が集まってくるわよ」
セラフィーナが小声で注意する。
俺たちは慎重に、水の中を進んでいった。
だが、迷宮はそう甘くはない。
バシャッ、と水面が波立った。
「ッ! ガルド、足元!」
セラフィーナの警告と同時に、ガルドが呻き声を上げた。
「ぐっ……!?」
水中に潜んでいた何かが、ガルドの足鎧の隙間に食らいついていた。
吸血ヒルだ。大人の腕ほどもある太さのヒルが、数匹絡みついている。
さらに、水しぶきを上げて半魚人の群れが襲いかかってきた。
「くそっ、足が取られる……!」
ガルドが盾を構えるが、水圧と泥のせいで踏ん張りが効かない。
重装備が、ここでは仇になっている。
フィリアも剣を抜くが、水しぶきで視界を奪われ、思うように動けない。
「きゃっ!?」
サハギンの槍が、フィリアの頬をかすめる。
まずい。完全に地形的不利だ。
『うわ気持ち悪!』
『ヒルだらけじゃん』
『水の中じゃ風魔法も威力落ちるぞ』
『これはキツイ』
視聴者数が増えているが、空気は最悪だ。放送事故寸前のピンチ。
俺もカメラを守るのに必死で、指示が出せない。
さらに、追い打ちをかけるように――。
ボコォッ!!
水面が爆発した。
泥の中から現れたのは、巨大なガマガエルのような魔物。
このエリアの主、「沼地の主」だ。
牛ほどの巨体が跳ね上がり、俺たちの頭上から落下してくる。
「嘘でしょ……!」
フィリアが悲鳴を上げる。
誰もが「終わった」と思った、その時だった。
「――うろたえるんじゃないわよッ!!」
セラフィーナの怒声が、水音を切り裂いて響いた。
彼女はパニックになりかけた俺たちの真ん中に立ち、杖を水面に突き立てた。
その瞳には、恐怖ではなく、燃えるような闘志が宿っていた。
「水がなんだって言うの! ガルド! アンタは壁よ! 動けなくても止めることはできるでしょ!」
「っ……おう!」
ガルドが表情を引き締め、その場で盾を構えてうずくまる。
スワンプ・ロードの落下プレスを、真正面から受け止める構えだ。
「フィリア! 水面を走るイメージを持ちなさい! 私が道を作る!」
「道……?」
セラフィーナが、大きく息を吸い込む。
それは、今までのどの歌よりも高く、澄んだ旋律だった。
「聖歌【聖域の・水上歩行】!」
歌声が波紋となって広がる。
その波紋が触れた場所から、濁った水面が青白く発光し――硬質化した。
いや、凍ったのではない。水の上に、魔力の床が生成されたのだ。
「えっ……立てる!?」
フィリアが水の上に足を乗せる。沈まない。
まるで鏡の上を歩いているようだ。
「今よ! 行きなさい!」
セラフィーナの叫びに、フィリアが弾かれたように駆け出した。
水しぶきは上がらない。泥にも足を取られない。
完全な足場を得た「風の剣士」の速度は、サハギンたちの反応速度を遥かに超えていた。
ズババババッ!
すれ違いざまに三体のサハギンを斬り伏せ、フィリアはそのまま中ボスへと向かう。
スワンプ・ロードが、鬱陶しそうに長い舌を伸ばした。
鞭のようにしなる舌が、フィリアを襲う。
だが、その射線上に黒い影が割って入った。
「させるかよ!」
ガルドだ。
彼は足元の魔力の床を思い切り踏み締め、盾で舌を受け止めるのではなく――盾と盾の隙間で「挟み込んだ」。
「捕まえたぞ!」
舌を固定され、身動きが取れなくなる巨大ガエル。
「行きます……《風裂》・水面斬り(ミナモギリ)!」
フィリアが跳んだ。
ガルドが抑え込んだ舌を駆け上がり、敵の懐へと飛び込む。
新しい白い装備が、水面の光を反射して輝いた。
一閃。
風の刃が、スワンプ・ロードの眉間を深々と貫いた。
◇
ズズズン……と、巨体が水しぶきを上げて沈んでいく。
サハギンやヒルの群れも、主の敗北を悟って散り散りに逃げていった。
静寂が戻った水没回廊。
俺は震える手でカメラを支え、今の光景を余さず記録していた。
『うおおおおおおおお!』
『神回確定』
『水上歩行とか初めて見たぞ』
『セラ姉さんの対応力エグい』
『初めての二層でこれかよ、レベル高すぎだろ』
視聴者数は『160』を突破。
コメントの滝が止まらない。
「はぁ……はぁ……」
戦闘終了と共に、セラフィーナが膝をついた。
魔力を使いすぎたのだろう。顔色が悪い。
しかも、戦闘の余波で跳ねた泥水で、自慢の白いローブがびしょ濡れになっていた。
「最悪……。泥の臭いが落ちないじゃない……」
彼女は不機嫌そうにローブを絞る。
だが、その視線の先で、無傷のガルドとフィリアがハイタッチしているのを見て、小さく息を吐いた。
「……ま、アンタたちが無事なら、クリーニング代くらい安いもんね」
ボソリと呟かれたその言葉を、フィリアの耳は逃さなかった。
「セラフィーナさぁぁぁん!!」
感極まったフィリアが、泥だらけのまま抱きつこうと突進する。
「ひゃっ!? 寄るな! 泥がつくでしょ泥が!」
「もうついてますよぉ!」
「離れろ犬っころ!」
ギャーギャーと騒ぐ二人を、ガルドが「やれやれ」といった顔で見守っている。
俺はその騒がしくも温かい光景を、少し引いた画角で映し出した。
「これが、俺たちの二層攻略です」
カメラに向かって告げる。
装備も身体も泥だらけだ。スマートさの欠片もない。
でも、その瞳は、迷宮の闇の中でも確かに輝いていた。
凸凹な4人の冒険は、まだ始まったばかりだ。




