適性があるらしい
私はずっと寂しかった。
大好きだった母親とメイドが亡くなり、婚約者まで離れてしまった。
あの女が誑かしたのだろう。聖女と同じ力を持っている女が。
あれは特別扱いされるだけでは飽き足らず、優秀な男性を何人も侍らせていた。相手の人間関係が崩れることなんて、お構いなしに。思わせぶりな態度で彼らを弄んで、心まで縛り付けてしまう。
憎かった。
私が落ち込んでいるときに、私からあの人を奪った。
私たちが時間をかけて育んできたものを、彼女は一瞬で消してしまった。それほど彼女の存在は強烈だった。
彼女が謙虚であったなら、私は嫉妬しなかった。婚約者がいる男性と二人きりで出かけるような、無神経さが羨ましい。私が抗議しても、聖女の役目を盾に無視されてしまう。
あの人が中途半端に優しさを私へ届けていなければ、期待なんてしなかった。いつか私のところへ戻ってきてくれる、そんな愚かな考えなんて捨ててしまえばよかった。いくら私が側にいてとお願いしても、聖女が呼べば行ってしまうのだから。
ときどき届く手紙は、きっと気まぐれに書いたものだったのでしょう。私が返事を書かなくなっても、思い出したような間隔で届いていたから。
ほんの少しの時間でもいいから、会いたかったのよ。どんな気持ちで書いたのか分からない手紙なんかよりも。聖女よりも私を優先してくれることがあるのだと知りたかっただけなの。
いくら私が「会いたい」と書いて送っても、セドリックは私に会いに来てくれなかった。だから私は手紙を書かなくなったの。書いても読んでくれなかったみたいだから。
聖女の役目が大切なのは理解している。私たちの平穏な暮らしは聖女に支えられているから。そんな聖女を守る、あの人の仕事も大切。私の優先順位が低くなるのは仕方のないことだ。頭ではそう理解している。私は自分の心を説得できるだけの言葉を知らないだけ。
私は弱かった。
だからこんな結末になったのよ。
腹に刺さった剣が痛い。傷は熱を帯びているのに、体は冷えていく感覚がする。
「レティシア」
あの人が私を見る目が嫌いだ。恋も愛情もない。ただの義務で婚約した事実を思い知ってしまう。
「ごめん」
謝らないで。どうせその言葉も嘘なんでしょう?
私へ向けられる感情は、全て演技だったのよね?
私が邪魔だったのは知っているのよ。私さえいなければ、新しい聖女に本当の愛を伝えられるんだから。
あなたの親切に喜んでいた私が馬鹿だったのよ。幸せな未来を思い描いていたのは私だけ。そんなことに気がつかずに、あなたを追いかけていた。
絶対に振り向いてもらえない。そんな事実から目を背けていたの。とっくに気がついていたのに、奇跡を待っていた。
私はただの道具でしかない。家を存続させるための駒。婚約者という記号。私に求められていたのは、あの人の付属品になること。婚約者、いずれは妻という役割を全うできないと判断されたら、捨てられるのは当然だ。
全てが嫌になって壊してしまいたかったのに、自分の意思で行動することすらできなくなっていた。
少しずつ私の中へ入ってきたものが、知りたくなかったことを私に教えてくる。私の手足を動かして、見たくなかったものを見せつけて。私の口から理性で抑えていたものを喋らせては、私から信用を奪っていく。一枚一枚、花びらをちぎっていくように。
私は孤独に落とされる。
私には似合いの結末だと笑われながら。
でもそんな惨めな思いは、ようやく終わる。
せめて私を殺しにきたのが、あなたじゃなければよかったのに。
***
嫌な夢を見た。心臓が痛いほど鳴っている。汗で服が張り付いて気持ち悪い。
私はベッドに横たわったまま、自分の腹部を触って何もないことを確認した。
剣が刺さっていた感触が、まだ残っている。夢のくせにやけに現実的だった。頬を撫でる生ぬるい風も、冷たい床も。私へ向けられた殺意もまた、恐怖心を煽ってきた。
現実的なのは無理もない。私が見た夢は、一周目で経験したことだから。
夢の中で私はグリムに操られていた。地下にあるグリムの封印前に新聖女と王太子たちが集まって、私を追い詰めていた。グリムはセドリックの攻撃を避けようと、私を盾にしてきたわ。
夢とはいえ、追体験した痛みは凄まじかった。まだセドリックに殺された恐怖が残っている。それとも悲しみだろうか。
どちらにせよ、しばらく彼に会えなくてよかったわ。いま顔を見たら、最期の瞬間を思い出してしまう。
あんな夢を見てしまったのは、セドリックからたびたび不穏な気配を感じているせいじゃない?
きっと一周目の記憶が呼び起こされて、あんな悪夢になったのよ。やっぱりセドリックとは距離を置くべきだわ。
私はベッドから出て深呼吸した。ジーナが私を起こしに来るまで、まだ時間がある。
浴室へ入って服を脱ぎ、頭からシャワーを浴びた。最初は冷たかった水がすぐに温かくなってくる。細かい仕組みは忘れたけれど、地下にあるボイラー室で魔術結晶を使って沸かしているお湯らしい。
軽く汗を洗い流した私は、髪にタオルを巻いてバスローブを羽織った。
いつもの時間に寝室へ入ってきたジーナは、浴室から出てきた私を見て驚いていた。
「まあ。どうなさったんです?」
「嫌な夢を見たのよ。汗で気持ち悪かったから、シャワーで流してきたわ」
ジーナは私を座らせ、着替えを持ってきた。
「温かい飲み物をお持ちしましょうか?」
「ええ、お願い」
「お任せください」
ジーナは私を着替えさせてから寝室を出ていった。
寝起きは散々だったけれど、ジーナの顔を見たら安心した。私は一周目の「可哀想なレティシア」じゃないと実感できた。一周目の私と違うところを増やしていけば、きっと未来は変わるはず。
飲み物を持って戻ってきたジーナの後から、花束を抱えたメイドも入ってきた。
「セドリック様からの贈り物が届きました」
赤いバラの蕾だ。花瓶に生けていれば、数日中に咲くでしょうね。
満開じゃない花をもらうのは初めてだった。どんなバラが咲くのか心待ちにできるから、これはこれで嬉しい。
「さっそく飾っておきましょう。後でお礼を伝えておかないとね」
私はセドリックへの恐怖を悟られないように、明るく言った。
瑞々しいバラの蕾を見ていると、心に巣食っていたものが薄れていく。きっと私好みの明るい赤色だったからよ。
「レティシア様。セドリック様のお知り合いという方がお見えになっています」
朝食を終えて何をしようかと呑気なことを考えていた私のところに、ジーナが来客を告げに来た。今日は誰かと会う予定はない。セドリックの紹介状を持っていたので帰すわけにもいかず、応接室に通して話を聞くことにした。
紹介状には、私の力になってくれる人物だから会ってほしいと書かれている。性格が合わないと思ったら断ってもいいと配慮しているくせに、肝心な紹介した理由はどこにも書いていなかった。
訪問してきた本人に聞くしかないわね。応接室に入ると、引きずりそうなほど長いローブを着た小柄な少女がいた。ローブについている銀色の飾りは、魔術塔で働く魔術師がつけているものだわ。飾りの中央にある宝石の色で、魔術師のおおよその身分が分かる。
真っ白な真珠ということは、見かけによらず彼女は高位の魔術師なのね。
「は、初めまして……フルール・ノエと申します……」
ものすごく小さな声だった。俯きがちな顔をよく見れば、私と同い年か年下に見える。ローブのフードを被り、鮮やかな赤い髪を三つ編みにして前に垂らしている。猫のような緑色の瞳が自信なさげに私を見上げていた。
「ノエ? もしかして、あなたの家族も魔術師?」
「……はい。クロード・ノエという兄が。ご存知でしたか」
グリムを封印しにきたうちの一人よ。それに地方住みだった私でも知っているほどの有名人だから。
クロードは十歳の時、魔術の才能を見出されて魔術塔に招かれた天才よ。過去にも未成年者が魔術塔へ入ることはあったけど、クロードが最年少記録を塗り替えた。未だ記録は破られていないわ。国内で名前を知らない人は少数派でしょうね。古代魔術の研究を専門にしていて、一周目では新聖女の教育にも携わっていた。
妹がいるって話は知らなかった。年齢があまり離れていないようだから、年子か双子かもしれない。
「兄妹で魔術師なんて凄いのね」
「優秀なのは兄だけなのです。私なんて……」
そう言ってフルールは両手でフードの端を掴んだ。顔を隠そうとしているのか、下へ引っ張る。自分に自信がないらしい。
飾りについている真珠は、特別枠で採用された魔術師を示す。彼女自身も何かしらの実力を認められて、魔術塔へ迎え入れられたはずなのに。
「ええと、それでご用件は?」
「あ……そうでした。サン・ベルレアン公爵家セドリック様のご依頼で、レティシア様に魔術の手解きをしに来ました」
「私に?」
自分の身は自分で守れということかしら。魔獣に襲われて何もできなかったし、セドリックの気遣いはありがたいけれど。
でも魔術塔にいる魔術師を引っ張り出すほどのことじゃない気がする。彼らが得意なのは魔術の研究であって、教育じゃない。私に護身術を教えるためなら、家庭教師をしたことがある魔術師を選ぶのが普通よ。失礼だけど、恥ずかしそうにうつむいているフルールに、教師役が務まるとは思えないわ。
フルールは私の言葉にうなずいた。
「それと、レティシア様をお守りするようにと」
きっとこちらが本題ね。セドリックは魔術の心得がある護衛がいいと言っていた。適任を見つけたから、さっそく送りこんできたに違いない。
手を回すのが早すぎるわ。だってデートしたの、昨日よ。あの話題になるだいぶ前から計画していたんでしょうね。ちょっと怖い。
「私……研究はあまり得意じゃないのです。魔術を使うほうが得意で……」
フルールに詳しい経緯を尋ねると、ポツリと話し始めてくれた。
魔術塔では兄であるクロードの研究を手伝っていた。クロードを通じてセドリックと知り合いになり、レティシアの護衛を依頼されたらしい。
「だから、あの、私のことは普通の護衛として扱ってください。敬語も必要ないのです」
「じゃあ、あなたも敬語は無しね。魔術の先生なんだから」
「でも……」
「嫌ならずっと敬語で話しかけるし、特別待遇するわよ」
「そんな……セドリック様に礼を失することがないようにと厳命されていて……」
フルールの顔色が蒼白になった。
「セドリックに何かされたの?」
「魔術の勝負で負けたのです。セドリック様が勝ったらレティシア様の護衛を引き受ける、私たち魔術師が勝ったら魔術塔に多額の寄付をするという約束で……うぅっ……」
辛い記憶を呼び覚まされたのか、フルールは頭を両手で抱えた。
「あっという間の惨劇でした。セドリック様一人に対し、こちらは複数人で挑んだのに、全く歯が立たなかったのです。セドリック様は初手で私達の多重結界を砕いて、攻撃用の魔術を準備していた魔術師に、次々と襲いかかりました。まるでこちらの手の内が見えているかのように……強化した剣で魔術を斬った人なんて、初めて見ました」
セドリックは剣の腕だけじゃなく、魔術のほうもおかしなことになっているのね。剣で魔法を斬るなんて、どこの神話の主人公よ。
「魔術を無効化したセドリック様は、魔術師達を素手で気絶させて戦意を喪失させていきました。あんな人を敵に回したくありません! お、お願いです。護衛にしてください。私がちゃんと仕事をしてないって発覚したら、特別訓練が待ってるのです!」
何してるのよセドリック。すっかり怯えているじゃない。
「特別訓練を受けて帰ってきた先輩の魔術師は全員、生気が抜けた顔で帰って来ました……嫌味な性格だった先輩は、人が変わったように私たちに優しくなって……セドリック様に反抗的だった人は、まだ戻ってきていません」
「分かったわ。意地悪なことを言ってごめんね」
私が折れると、泣きそうだったフルールは安堵のため息をついた。
人の性格を変えるほどの訓練って何よ。気になるけど知るのが怖いわ。
「でも護衛って本当に必要? 一人で出かけると言っても、治安が悪そうなところには近寄らないわよ」
「……治安の問題ではないと言うか、セドリック様はもっと別のものを警戒しておられます」
「別のもの?」
「はい。ええと、私たち魔術師は『グリムの鱗』と呼んでいる、目に見えないものです」
それは一周目の私を操って破滅させた大元だ。いつの間にか心の内側に入りこみ、蝕んでくるのよ。私だけじゃないわ。グリムの鱗がついた人や魔獣は、全て心を狂わされてしまう。
今も聖女様が頑張ってグリムの鱗を浄化してくれているはずだけど、間に合っていないみたいね。早く新しい聖女が仕事を引き継いでほしいわ。
「日常のあらゆるところに鱗は潜んでいるとお考えください。一つ一つに大した力はありませんが、たくさん集まれば人を意のままに操れるほどの強さになるのです」
「どうすれば操られずに済むの?」
「見つけ次第、消滅させるのです」
「鱗を消滅させるなんて、聖女様しかできないことよね?」
「いいえ。聖女が持つ能力は、唯一のものではありません。表に現れにくいだけで、素質がある人はいます」
聖女の力は複数ある。グリムの鱗などの邪なものを見つける瞳。それらを浄化、消滅させる神聖魔術。そしてグリムのような悪魔を封印したり、寄せ付けない結界。
「聖女はそれらの能力全てを有した方が任命されます。一つの能力しか持っていない人は、聖女にはなれません」
フルールは目を閉じた。次に目を開いたとき、瞳は緑色ではなく金色に変わっていた。
「私は鱗を見つける瞳と、消滅させる力を持っています。結界は使えますが、グリムを封印しているものとは性質が違いますので」
今日も知らないことが次々と明らかになる日だわ。彼女が言っていることが本当なら、グリムに怯えず済むかもしれない。




