裏があるらしい3
部屋を出たセドリックは、待っていたジーナを呼んだ。
「レティは眠っているよ。部屋の出入りは自由にしてもいいけど、レティを連れ出すことだけは控えてね。君も含めて、命の保証ができない」
「はい。仰せの通りに。お嬢様の安全のためですから」
ジーナの表情は暗い。レティシアを侵食しようとしていた、黒い蝶の残骸を見せておいたことが効果的に働いている。あれを見た後のジーナは、レティシアの隔離に賛成していた。
レティシアの両親を説得する時も、ジーナの態度が役に立った。彼らが信頼して娘につけているメイドが、本気で怯えて隔離の必要性を訴えているのだ。今までセドリックがレティシアを守ってきた実績もあり、彼らが愛娘を預けようと決めるまで、時間はかからなかった。
レティシアを守るための檻は完成した。この部屋に出入りできるのは、セドリックとジーナだけ。色々と試した結果、レティシアの世話はジーナにしか頼めなかった。
――ようやく、ここまで来た。
悲願の達成まで、後少し。最大の障害はグリムだが、レティシアを隠してしまえば戦力を大幅に削れる。とにかくレティシアをグリムに渡さないのが肝要だ。
「もし君に危害を加えようとする者がいたら、この部屋へ逃げるといいよ。俺が許可をした者以外は、国王だって入れない。でも万全じゃないから、異変があればすぐに知らせて」
「かしこまりました」
ジーナは早速、大きなトランクを二つ、部屋へ運び入れた。レティシアとジーナの私物が入っている。中身を点検したのはフルールだ。セドリックも外側から、グリムの鱗が付着していないことを確認している。
屋敷を出て王城を訪れたセドリックは、外で待っていたフルールと合流した。すぐ近くにはロザリーもいる。
「待たせたね。行こうか」
「あ、あの。セドリック様」
ロザリーが頬を紅潮させて話しかけてきた。
「これから行くのは、封印を修復するためって聞いたんですが。私、もしかして」
「君の仕事は、聖女の補佐だよ。訓練初日に説明しただろう? グリム対策のために集められただけで、聖女候補者の訓練ではないって」
静かになったロザリーをフルールに任せ、先を急いだ。
封印へ通じる部屋には、もうすでにレナルドと聖女が待っていた。二人はレティシアではなくロザリーが来たことに、戸惑っているように見える。
――この場面を乗り越えたら、レティシアがいないことが当たり前になる。
セドリックが思い描く未来のために、間違いは許されない。
「あの子は、来ないのですね」
聖女はレティシアの名前を出さなかった。封印から離れた部屋とはいえ、どこでグリムが聞いているか分からない。長い間、秘密と封印を守ってきた聖女が、ここで個人情報を出すような過ちは犯さなかった。
「襲撃されたので隔離しました。この後のことは、計画通りに」
「セドリック。どういうことだ?」
「理由は後で話すよ。彼女から魔力をもらってきた。今日は、それで代用できる」
「後で、って……」
「レナルド殿下。時間がありません。ひとまず封印のところまで行きましょう」
聖女がレナルドを説得し、グリムの封印前へ移動した。
セドリックはオレンジ色の結晶を出し、聖女とロザリーに近づいた。
「彼女の魔力はこちらに」
「ええ、確かに」
聖女は結晶を受け取り、杖をロザリーの前に立てた。
「杖を握って、今から教える呪文を繰り返し唱えなさい。封印の修復に使う言葉ですが、集中すればグリムへの恐怖が薄れていくはずよ」
初めてグリムの封印を目の当たりにしたロザリーは、青ざめた顔で頷いた。手が白くなるほど強く杖を握り、聖女に教えられた言葉を繰り返している。
レナルドも聖剣を抜いて修復を始めていた。ただし聖女達とは違い、グリムの様子を警戒しつつ進めている。もしグリムが外へ出てきたらセドリックと共に迎え討つ手筈だ。
セドリックは数歩離れたところから、三人の様子を見ていた。
聖女が右手で杖を、左手で結晶を握り、封印を修復するための呪文を唱える。徐々に結晶の表面がゆらめき、オレンジ色の光が杖の先端へ引き寄せられていく。光は帯状になって杖の周囲を巡った後、封印の亀裂に張り付いた。
封印の修復は、結晶が消えるまで続いた。新たに追加された光の帯だけ、オレンジ色をしている。まるで白い毛糸玉の上から、別の色の毛糸を巻いたように不恰好だった。
――水晶に仕込んだ魔術は正常に発動した。でもまだ足りないな。
亀裂はだいぶ見えなくなった。だがセドリックにとっては、亀裂が埋まるだけでは不十分だった。
あの亀裂からグリムへ魔術が届いているはずだ。絶え間なく届くように広範囲を覆わないと、本当のグリム対策にならない。
「上へ、戻りましょうか」
聖女の呼びかけで、セドリック達は封印の前から離れた。初めて封印の修復を手伝ったロザリーは、フルールの手を借りて立っているのがやっとだ。レナルドと聖女は自力で動けるが、疲労までは誤魔化せない。
最後に封印の間を出たセドリックは、閉まる扉の向こうにいるグリムを振り返った。
白い封印の隙間から、大きな目玉が覗いている。こちらを睨みつけているようだが、セドリックには効果がない。ただただ鬱陶しい。グリムが存在している限り、平穏など来ないと理解しているだけに恨みが増していく。
レナルド達と合流した地上の部屋まで戻ってくると、珍しく休憩しないかと誘われた。セドリックだけでなく、聖女やフルール達も一緒だ。
ロザリーはまだ回復していない様子だったので、どこかで休ませる必要がある。部屋を借りて休むかとレナルドが尋ねたが、ロザリーは拒否をした。一人だけ置いていかれるのが嫌だったようだ。
レナルドに連れてこられたのは庭の一角だった。白い花が咲く木の下に、細かい装飾があるテーブルとイスが置いてある。
花は清らかな香りを放っていた。グリムのような悪魔が嫌う効果があるため、城内だけでなく国の至る所に植えられている。グリムに聞かれたくない話をするには、この木の下が最も適していた。
「セドリック。せめて俺には、前もって知らせてくれないか」
席につくなり、レナルドが呆れたように言ってきた。
「情報の流出を防ぐには、秘密を共有している人数を極限まで少なくするのが一番いいんだよ」
「そんなに俺は信用できないか?」
「いいや。信じているよ。秘密の共有に人数制限を設けているだけさ」
遅れてやってきたメイド達が、人数分の紅茶と焼き菓子を置いて去っていった。
セドリックはカップを持ち上げて、毒味の魔術で安全を確認してから口をつけた。香りはいいが、味は好みではない。
「さて、セドリック。少しばかり不穏なことを言っていたようだが。彼女が襲われた? 何に?」
「グリムの鱗だよ。受け答えができるまで成長した集合体でね。彼女が聖女になる前に、心を侵食して体を乗っ取る計画だったらしいよ」
静かに紅茶を飲んでいたロザリーが顔を上げた。
「それで隔離を?」
「過保護って言いたいのかな? 彼女まで侵食されたら、封印の崩壊を遅らせる手段がなくなるよ」
「私じゃ駄目ですか?」
口を挟んできたのはロザリーだ。両手でカップを持ち、真剣な表情でこちらを見ている。
「ロ、ロザリーさん」
慌ててフルールが止めようとしたが、悲しいことに彼女の小さな声では効果はなかった。
「聖女様と同じように、グリムの鱗を見つけられます。自分を守る結界だって使えるし、さっきの修復だって役に立ったはずです」
「君は聖女になりたかったのか?」
そうレナルドが聞くと、ロザリーはもちろんだと答えた。
「訓練だって頑張ってるのに、どうして私じゃ駄目なんですか? 私に足りないところは、これから頑張ります」
「聖女は努力をしてなるものではありません」
現役の聖女からの言葉は、ロザリーを傷つけたようだ。悔しさを声と顔に滲ませて発言を続けた。
「皆さんが知っている次の聖女は、どうして魔力の結晶だけを寄越して、ここへ来なかったんです? グリムに狙われているのは、私も一緒なのに。グリムから自衛する力がないんですか?」
セドリックは答えようとした聖女を止めた。
「未熟な聖女候補者はね、グリムにはご馳走に見えるらしいよ」
「……え?」
「魂も魔力も、全てが美味しい。グリムの力を増強させる源になる。そんな人物が無防備にうろついていたら、迷わず襲うよね。グリムにとって人間は家畜と同じだから」
ロザリーの目が泳いだ。セドリックが話していることが本当かどうか疑っている。
「聖女は自分で自分の身を守るために、不味い餌だと思われないといけない。未熟なうちは、偽装手段を知っている護衛を常につけているんだよ。ここにいる殿下と俺、フルールが該当する。封印している部屋全体にも、餌を認識できないような仕掛けがあるよ」
「餌、って……」
「餌だよ。グリムにとってはね。君だって魔力を回復させるために、食事をしたことがあるよね?」
「じゃあ、私もグリムの餌にされるってことですか……?」
「君のような、聖女の補佐として集まってもらった者は違う。そちらはグリムから目的を妨害する敵と思われている。俺たちと同じ分類だね」
「……聖女になれないことは分かりました」
ロザリーはグリムの餌にならないと知って、幾分か安心したらしい。素直に引き下がった。
「これからもずっと、あの結晶を使って封印の修復をするんですよね?」
誰も肯定しなかった。
「セドリック様」
ずっと静かだったフルールが口を開いた。
「先ほど、セドリック様は封印の崩壊を遅らせると仰ったのです。修復ではなくて。封印が壊れてしまうのは確定なのですか?」
「そうだね。次の世代まで保たないね」
カップと受け皿がぶつかる、耳障りな音がした。ロザリーだ。カップを戻そうとした時に、セドリックの答えに驚いたらしい。
「じゃあ、もしグリムの封印が解けたら、私たちが封印し直さなきゃいけないってこと……ですよね?」
「そう簡単にできるならいいが」
レナルドはイスの背もたれに背中を預けて言った。
「昔の聖女様は、それをやってグリムを封印したんですよね? 難しい方法なんですか?」
「ええ、とても難しいことよ」
聖女がロザリーとフルールへ向けて続けた。
「グリムを封印するには、まず自らを餌にしなければいけません」
「……え?」
「グリムが己の心を侵食してきても、自我を保つのです。協力者に己の体を拘束してもらい、グリムの魂が完全に入ってくるまで待ちます。グリムを現世に縛り付けるのよ。この時点で聖女ごとグリムを倒せば、消滅させることができるでしょう」
「そんな……自殺と同じじゃない! グリムと一緒になって殺してもらうってことでしょう?」
「そうね。グリムに立ち向かった者達は、聖女と同化したグリムを倒すことができなかった。グリムが強かったのもあるでしょうが、仲間を殺せなかったのです。聖女もそうなると分かっていたのでしょう。彼女は残っていた力で、己の体ごとグリムを封印しました」
レナルドが後に続いた。
「聖女の体は、すでにグリムが吸収しただろう。グリムを封印し続けているのは、グリムを消滅させる方法を模索するためでもある。いつまでも、あんなものの上に住みたくないからな」
ロザリーは気味が悪そうに自分の足元を見下ろした。
「……聖女がグリムを封じた数十年後、グリムを討伐しようとした王族がいる。当時の聖女と共に封印された場所へ入ったようだが、残念ながら失敗に終わった。それからだよ。王家は聖剣を作り、神殿はグリムを封印ごと閉じ込める仕掛けを作ったのは。だが聖剣をグリムに試したことはない。鱗を消滅させられるのは確認しているが、大元のグリムに効果がなければ……」
「レティを犠牲にすることは反対だよ」
セドリックは先手を打っておいた。
「もしレティが自分の意思でグリムを封印しようとしたら、俺は反対するし妨害もする。聖女という肩書きの人間に、過去を精算させるやり方は嫌いなんだ」
「そう怒るな。俺も令嬢を生贄にするやり方には反対だ。先祖には大きな課題を押し付けられてしまったが、過ぎてしまった過去を恨んでも時間が巻き戻るわけじゃない。聖剣の他にも、便利な道具を残したことで許してやろうじゃないか」
「私達でグリムは倒せますか……?」
今度は遠慮がちにロザリーが聞いてきた。
「……さあ、どうだろうね。やってみないと分からないよ。負けるつもりはないけれど、楽観はできない」
あと一押し。
セドリックは曖昧に答えて、再び紅茶を飲んだ。
***
――私が次の聖女だと思ってたのに。
魔術塔の門をくぐったロザリーは、敷地の奥にある別棟へ向かっていた。一緒に帰ってきたフルールは、魔術塔の上司へ報告することがあると言って、一番大きな建物へ歩いていった。
太陽はほとんど沈み、辺りは薄暗い。ロザリーにとって魔術塔は、薄気味悪い陰気さがある場所だ。能力を見込まれて魔術塔で暮らすことになって半月経つが、今だに世間から隔絶された魔術師が近くにいる生活には慣れない。
個性的な魔術師は夜な夜な、ロザリーには理解できない実験を繰り返している。たまに笑い声が聞こえてきたり、昼の太陽よりも明るい閃光が見えることもあった。別棟にいれば安全だと彼らは言うが、その言葉が不安を煽っていると気がついていない。
もう少しで柔らかい光が溢れる別棟に到着する。ロザリーの足は自然と速くなった。
扉まであと数歩のところまできたとき、ロザリーに囁きかける声があった。
――あなたは満足しているの?
とても可愛らしい、鈴を転がすような声だった。
――聖女候補なんて、本当にいるのかしら? 大切な仕事をしに来ないで、魔力だけ寄越すのはおかしいわ。
それはロザリーが感じていたことと同じだ。
――騙されているんじゃない? 本当はあなたが聖女なのに、偽物が皆を騙しているのよ。
自分が次の聖女だと思っていた。どんなに頑張っても脇役にしかなれないと言われた気がする。歴史に名前が残るのは、大切に守られている聖女だけ。自分と同世代であろう、顔も名前も隠されている女性だ。
けれど意図的に隠されていた歴史を知って、聖女でなくて良かったと思ってしまった。グリムが封印を解いてしまったら、自分を犠牲にして封じるか、グリムごと殺される。レナルド達はグリムを倒す気でいるようだが、人間が悪魔に勝てるなんて思えない。だから重大な役目が回ってこなかったことに安心した。
冷静になってみれば、自分は随分と卑怯なことを考えていると気がついた。グリムが復活しても犠牲になるのは自分ではないと安心した自分が、聖女になりたいだなんて何の冗談だろう。初代の聖女のように命すら捨てて奉仕するなど、ロザリーには到底できそうになかった。
ロザリーに囁きかけてきた声は、心の敏感な部分に触れてきた。それどころか土足で踏み入り、良くない想像を掻き立ててくる。
自分は決して清らかな心の持ち主ではないと思い知らされた。
――あなたは。
「うるさいわね!」
ロザリーは声がする方向へ、浄化の力を振りまいた。暗がりの中で小さな光が弾け、蝶に似たものが下へ落ちる。色鮮やかな羽とは対照的に、胴体部分は枯れ枝のように細く萎びていた。
「やだ、何これ……」
胴体は人の形だと理解した途端、吐き気がした。輪郭だけは妖精のようだ。見開いた目が空を見上げ、口は叫びの形で固定されている。赤子のように縮こまった手足が悍ましさに拍車をかけていた。
ロザリーは周囲を見回した。こんなものは身近にいていい生き物ではない。幸いにも、フルールが隣接する建物から出てくるところが見えた。
「お願い、来て! こんな……変なものが侵入しているわ!」




