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君が好きだと言ってしまった  作者: 森崎緩
君がいる夏
30/35

何度でも恋をする

『彰吾くん? 私です、理緒です』

 インターフォン越しの声を聞き、俺は逸る気持ちで玄関へと向かう。

 約束通り、カレーを届けに来てくれたらしい。そのことはもちろんうれしかったけど、それ以上に、理緒と会えることがうれしかった。


 一緒にスーパーへ行って、その後一旦別れて、家まで帰ってきた後で――俺は相変わらずの物寂しさに囚われていた。

 たった一人きりでいるこの家は静かだ。雨が降っていたせいで、余計にしんとしているようだった。玄関へ向かう足音も響いた。

 理緒が来てくれるのを待っていた。何も手につかないままで、ずっと。彼女のことばかりを考えていて、他のことなんてどうでもよくなっていた。喉が渇いていたけどそれすら放ったらかしで、俺はひたすら玄関のチャイムが鳴るのを待っていた。彼女が来てくれるのを、何度でも繰り返し願った。待っていた。

 鍵を外す音もやけに響いた。ドアノブを回す時、渇き切った喉が音を立てた。細く開いた隙間に、彼女のキャミソールを着た肩が覗いて、素肌の色にまた喉が引き攣るようだった。着替えてきたのか、彼女。きっと特別な意味のないことなんだろうけど、まだ覗いただけでこんなにも意識してしまう。


 意を決して、ドアを開いた。途端に雨の匂いと、むっとするような夕刻の空気が忍び込んでくる。それから。

「あ、こんばんは」

 礼儀正しい挨拶をする理緒。両手に小さな鍋を持っている。傘は片腕に引っ掛けて、目が合うとはにかむように笑った。

 会いたかった、と実感した。

 俺はすごく、理緒に会いたかった。

 実感した瞬間、身体はひとりでに動いていた。

「約束してたカレー、持ってきたの。よかったらどうぞ――」

 言葉の終わりまでなんて到底待っていられなかった。ドアから手を離し、肩と肘で代わりに支えた。自由になった手で、彼女の、剥き出しの肩を掴まえた。触れるとしっとりしている肌だった。狭い玄関の中では軽く引き寄せるだけで十分で、腹の辺りに鍋がぶつかってきたけどちっとも気にならなかった。そのまま身を屈めて、顔を近づけた。

 直前まで、彼女は目を閉じなかった。

 柔らかい唇から離れても、まだ目を開けていた。むしろ見開いていた。

「彰吾くん……」

 ぼんやりと声を立てた理緒を、掴まえた肩ごと、更に引き寄せる。彼女を抱き締めるようにしながら後ずされば、彼女の背後でドアが閉まった。

 玄関に、腕の中に彼女を閉じ込めた。雨の匂いもむっとする空気も遠ざかり、辺りはしんと静まり返る。俺と彼女の呼吸を除いては。

「ごめん」

 悪気があった訳じゃないけど、つい、そう口走っていた。

 彼女の耳元に続けた。

「会いたかったんだ」

「え……?」

 少し、不思議そうにする理緒。顔を見なくても声のトーンだけでそれが分かる。

 彼女の髪を撫でてみる。柔らかかった。肩と同じようにしっとりしていた。

「今日、会ったけど。一緒にスーパーにも行ったけど、それでも会いたかった」

 髪を撫でながら正直に告げた。

 本当は、黙っていようかとも思った。俺一人がこんなに寂しがって、始終会いたい会いたいと言っているのも滑稽だ。それでいて壊れ物みたいにきれいな理緒を、いつ壊してしまうかわかったものじゃない。一緒にいれば触れたくなる。武骨さしかない手で、今みたいに。

 だけど抑え切れるものでもなかった。――抑えるべきじゃないものだと思いたかった。こうして伝えることで、理緒にも、俺の気持ちをわかってもらえたらと願った。滑稽なくらい、無様なくらいに君のことを好きでいる奴がいるんだって。君のことが好きで好きで堪らなくて、ろくに大人にもなっていないのに、君を幸せにしたいだなんて思っている奴がいるんだって。こうして想いを伝えることで、君も幸せになるはずだって考えてる、至極単純でどうしようもない寂しがりやがいるんだって、知って欲しかった。何度も何度も何度も繰り返し想った。理緒のことが好きだった。

「また会えてうれしい」

 俺は言葉でも繰り返す。何度も何度でも。

「理緒に会えてうれしいんだ、ずっと、会いたかった」

 それから、鍋を手にしたままの彼女にキスをした。唇に二回、額に一回。そこでようやく目を閉じてくれたから、瞼にもした。彼女の肩がびくりと緊張して、そういうところも可愛くて堪らなかった。だから肩にもした。素肌の肩に、軽く一度だけ。

「ひゃっ」

 震えるように身を竦めた理緒が、おずおずと目を開ける。そして声をも震わせながら、ぽつり、呟いた。

「駄目だよ、彰吾くん……」

「嫌だった?」

 顔を覗き込んで尋ねた俺を、彼女は上目遣いで見る。赤らんだ頬が玄関の照明のせいで、より柔らかく映っていた。

「い、嫌じゃない、けど」

 どこかびくつく声で答えた後、理緒がちょっとだけ、ぎこちなく笑んだ。

「お鍋を落としちゃったら困るもん」

「……そっか。それもそうだ」

 俺もつられて笑う。確かにその通りだ。

 彼女の手から鍋を受け取り、靴箱の上に一旦、置いておいた。もう一度理緒を抱き締める。燃えるような頬にまたキスをする。彼女は幸せそうな顔で目を閉じる。

「私も、うれしいな」

 その理緒が瞼を伏せたまま、俺の腕の中で言った。

「私も会いたかったんだ、彰吾くんと。毎日でも、一日に何度でも会いたいの」

「本当に?」

 尋ね返したら、今度は本気で笑われた。

「そうじゃなかったら、カレーを届けに来るなんて言わないよ」

「確かに、そうだよな」

 俺も心から笑った。おかしかった訳じゃなくて、理緒が同じように思ってくれているとわかって、ほっとしたからだ。

「会いたいんだ、俺も、いつだって。今日も理緒が来てくれると思ったら、他のことなんて何も手につかなかった」

 そう告げた時、ふと、理緒は笑みを消した。何か思い当たったことでもあったようだ。

 すぐ、心配そうに尋ねてきた。

「じゃあ、彰吾くん……あの、失礼だけど、ご飯炊いてた?」

「――忘れてた」

 理緒のことばかり考えていた。考え過ぎた。

 彼女が何を届けてくれる約束だったのかさえ、うっかり忘れてしまうほどだった。


 結局、ご飯が炊き上がって、俺がカレーを食べ終えるまで、理緒は一緒にいてくれた。

「お母さんには言ってあるの」

 照れながら彼女が答えたのには驚いた。

「だから門限のことは大丈夫。あんまり遅くもなれないけど、彰吾くんが食べ終えるまではいるから」

 お蔭でその日の夕食は、実に幸せで楽しくて温かだった。そして当然、美味しかった。俺に合わせて辛めにしてくれたらしく、美味しいと告げたら彼女はうれしそうにしてくれた。うれしそうな顔で、俺の食べるのを見守っていてくれた。

 そんな彼女に、俺は何度も恋をしている。

 繰り返し繰り返し、彼女のことが好きだと思う。そしてだんだんと、その想いを伝えるのも上手になってきた気がする。まだまだだけど、彼女を壊してしまわないか不安もあるけど、何度も何度も伝えて、繰り返して、もっとお互いに幸せになれたらいい。

 とりあえずは、彼女を幸せにする方法、わかったみたいだ。

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