第23話 君はまた笑える
“いまは辛くても、大丈夫。悲しみは一生続くことはない。いつか癒える。すぐには無理でも、君はまた笑えるようになる。
絶望に囚われないで。
僕はもう一緒にいることはできないけど、君の幸せを永遠に願っている。
笑って、ヒースクリフ。
君の笑い声が、僕は好きだよ”
* * *
「私が無事か、だって? 心配してくれてありがとう。満身創痍なのは君だと思うけど。まずは自分の怪我を治そうね」
大騒ぎの一日から、一夜明けて。
傷だらけのヴィクトリアの元へ、見舞いと称してエドガーが訪ねてきた際に前日の件が話題にのぼり、エドガーには一笑に付されて終わった。
なにしろ、元気ハツラツとしたエドガーはさておき、ヴィクトリアは満足に歩くこともできず、ヒースクリフに抱きかかえられてドローイングルームに姿を見せていたのである。心配なのは君でしょう、と言われても仕方ない。
ブレナン伯爵邸にヴィクトリアを送り届けたヒースクリフが、そのそばを離れるわけもなく、当然のように滞在して世話を焼いているのであった。
怪我を気遣いながらソファに降ろされて、ヴィクトリアはヒースクリフの手前、ラルフの記憶にふれることもできずに話を逸らす。
「殿下がご無事ならよろしいのですけれど……。昨日は、ヒースクリフ様を、殿下の元へお返しすることもできませんでして」
爽やかすぎる笑顔を前に、ヴィクトリアはひとまず従者を借り受けてしまった件を謝罪した。
エドガーは「構わないよ」と鷹揚に答える。
「この分だと、ヒースクリフはもうオールドカースルにも戻らないだろうから、別にいいんだ。ただ、ブレナン伯爵邸はまだ、ヒースクリフの家ではないからね。落ち着いたら侯爵邸に戻るんだよ。隣国から戻ったと思ったら、今度は恋人の家に入り浸りというのは、侯爵家でもさすがに持て余すドラ息子ぶりだ」
ヒースクリフはしれっとした顔で聞き流していたが、ヴィクトリアは両手で顔を覆ってしまった。
世間に顔向けができないとは、このことである。
「昨日は緊急時ということもありましたが、たしかに褒められた所業ではありませんね……。ヒースクリフ様はおうちへ帰りましょう」
「あなたも一緒に」
「さらっと条件を追加しないでください」
「では、怪我が治るまではひとまずこのままで」
幸いにも、ナタリアに突き飛ばされたアマリエも軽傷ですんでいたが、物騒な事態に見舞われた伯爵邸にはまだ騒然とした空気が漂っている。落ち着くまでヒースクリフが用心棒をしたいというのも、無下に断れるものではなく、むしろありがたいのはありがたいのである。
三人が談笑しているのを見て、付き添いのメイドが部屋を出た。
そのタイミングで、エドガーが「そういえば、馬車にペンを忘れてきたようだ。ヒースクリフ、持ってきてくれ」と声をかけた。
ヒースクリフは一瞬ためらったものの、殿下の命であれば、と部屋を出ていく。
二人きりになったところで、エドガーとヴィクトリアは無言で見つめ合った。
口火を切ったのは、ヴィクトリアである。
「ラルフがいなくなってしまいまして……。ここ数日のことが、まるで夢のようです。エドガー殿下には、まだ記憶が残っていますか」
ふ、とエドガーは笑った。
「なんのこと? ってとぼけるのはさすがに意地悪かな。あるよ。ラルフのことは、覚えている。聞きたいのは、前回の晩餐会かな」
さすがに、勘が良い。ヴィクトリアは安心しつつも、ひとの生死に関わることだけに、慎重を期して訪ねた。
「はい。私は今回、昨日の立ち回りや殿下の機転のおかげでナタリア様が退場なさったことにより、死を回避できたと思うのです。まだ晩餐会を超えてはおりませんが、ラルフが消えたことにより、そのように感じます。ですが、エドガー殿下の場合は、どうなのでしょう」
エドガーは、大変良い笑顔できっぱりと言う。
「人間の生き死にだから、はっきりとはわからないけど、たぶん大丈夫。『晩餐会に関しては』君が死ななければ、私も死ぬ必要がないから」
どっと、肩の力が抜けた。
(ラルフ……! やはりあなたが、なんらかの形で殿下を巻き込んでいたんですね)
エドガーに対する申し訳無さもあり、ヴィクトリアは消えてしまった前世の自分へ呼びかける。消えている場合ではないです、ひとこと謝ってからにしてくださいと。
せめてもの思いから、ヴィクトリアは丁重に頭を下げた。
「ラルフが……ご迷惑をおかけしまして……」
「そういうわけでもないんだけどね。むしろ私が迷惑をかけた」
「え?」
きょとんとしたヴィクトリアに対して、エドガーは安らかな笑みを浮かべて話し始めた。
「ラルフが死んだとき、ラルフはヒースクリフの鍵を外さなかった。死ぬのであれば、死を受け入れるつもりで、死んでいったんだ。私は、その決断を捻じ曲げたんだよ、自分の死を使って」
「……どういうことですか」
「ラルフを失ったヒースクリフが、その後正気を保てるとは思えなかった。反射的に、ナタリア嬢を殺そうとした。殺そうとしただけで、実際に殺したかはわからない。思いとどまったかもしれない。だけど私は、わざとその刃をこの身で受けて、ヒースクリフに激しく後悔をさせて、鍵を外したんだ。もっとも、私が関与できるのは、生まれ直しなんてだいそれた逆行ではなく、本当に短い時間だけ。かろうじて、ラルフが息絶える寸前まで逆行させた。そこでラルフは……、そこからは君の方が詳しいのかな。何か願ったんだろうね。君に生まれ変わるような願いを」
そこは、ラルフから聞いた。「華奢な女の子だったら良かったな」などと、呑気なことを考えたと。
だが、気になるのはそれだけではない。鍵を外したと。
ラルフの死により荒れ狂う、ヒースクリフを救うために?
「エドガー殿下には、シルトン王家の血が……? 護衛騎士との絆があるのですか」
エドガーは、胸に手をあてて答えた。
「ほんの少しだけ。私にはほんの少しの残滓のようなものが宿っていて、一か八かだったけど、たまたま成功してしまった。ごめんね、本当は死ぬ気だったラルフを引っ張り回して」
「いえ……少し混乱していますが、感謝しています」
ほんの少しの「残滓」の記憶を、エドガーはどこから持ってきたのだろう。この世界では見えなくなってしまった絆なのか、それとももっと以前からの……。
二人で言葉もなく見つめ合っていたとき、ドアの開く音がして、ヒースクリフが戻ってきた。
わずかな緊張の漂う場の空気に頓着することなく、エドガーにペンを差し出す。
それを受け取ったエドガーは「書類も」と軽い口ぶりで言った。
「君たちの結婚に関する書類だよ。私がサインするところがあるのなら、しておこう。ベンジャミン公爵家は、今回の失態で晩餐会への出席は見合わせるみたいだけど、会そのものは開かれる。華を添える話題のひとつとして、君たちの婚約はうってつけだ」
エドガーは、片目を瞑ってそう言い終えると、ヴィクトリアに向かって「それまでに怪我を治しなさい。特に顔」と笑いつつ、気遣うような優しさで続けた。
* * *
数日後の晩餐会に、ブルーイット侯爵家のヒースクリフは、婚約者のブレナン伯爵家のヴィクトリアとともに、参加した。
絵に描いたような美しい二人の甘い空気は評判を呼び、エドガーの言う通りの華を添えることとなる。
二人は祝福の中で結婚し、それからの長い時間を、ともに歩むこととなった。
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