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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ。   作者: 織田雪村
第三章

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大学生活⑭ プラザ合意 後編

1985年(昭和60年)9月末


あまり語りたくはないが、プラザ合意から始まった「狂乱」と、その後に支払わされることになった「代償」の物語には、まだ続きがある。

それは、バブルという夢から覚めた日本が選んだ30年にわたる思考停止と、令和の時代に至って突き付けられた「円安」という、あまりにも皮肉な結末だ。


バブル崩壊後、日本が取るべきだった対応は明白だった。

痛みを伴う外科手術によって産業構造を刷新し、次の成長へ舵を切ること。


しかし、日本という国家組織が選んだのは、再びの「延命措置という名の時間稼ぎ」だった。


不良債権は隠され、処理は先送りされ、プラザ合意後に一度は解体されるはずだった護送船団方式は、より悪質な形で完成した。銀行は潰れるべき企業を支え続け、市場による淘汰を拒んだ。

結果として、本来なら消えるはずだった非効率な企業が生き残り続ける。いわゆる「ゾンビ企業」の誕生である。そして、この延命政策がもたらした最大の副作用の一つが「デフレ」だった。


デフレとは、需要が弱まり、物価が持続的に下落する現象だ。


物価が上がらない社会は、一見すると平穏に見える。給料が低くても生活は回り、100円ショップが繁盛し、安さは美徳とされた。


だが実態は、技術革新への投資を諦め、コストカットと賃金抑制だけで帳尻を合わせる、国家レベルのデフレ・スパイラルに他ならなかった。

日本は成長しないことで安定するという、極めて危険な均衡状態へと沈んでいった。


停滞をさらに深刻にしたのは、過去の成功体験だ。

「かつての高品質なモノづくりさえ守っていれば、いずれ円安に戻り、再び黄金期が来る」

日本社会は、そう信じ込み続けた。


その間に世界は、インターネットとソフトウェアを中核とする新しい時代へ移行していた。GAFAに象徴されるように、価値の源泉は「物理的な製品」から「無形のプラットフォーム」へと移った。

日本は過去の栄光にしがみついたまま、IT革命という決定的な波に乗り遅れた。


プラザ合意後に身についた「金融緩和でごまかす」という悪癖は、バブル崩壊後も形を変えて続く。

ゼロ金利、量的緩和という、より強力な麻薬へと進化したのだ。


問題の先送り。構造改革の回避。

それが30年以上にわたって繰り返された。


そして最終的に辿り着いたのが、プラザ合意の完全な裏返しとも言える現実だった。

令和の日本が直面していたのは、1985年とは正反対の構造的な円安だ。


1985年は円高(240円→120円)。

強すぎる貿易黒字を背景に、「強者」として譲歩を迫られた日本。


2020年代は円安(100円→150円超)。

弱体化した産業競争力の末に、「弱者」として市場に売られる日本。

方向は真逆だが、漂う絶望感はむしろ令和のほうが深かった。


では、なぜ令和の円安は「苦しい」のか。理由は明確だ。


1980年代の日本は、内需75%・外需25%。内需が走り、外需がそれを押した。

一方2020年代はどうなのか。

内需は統計上は8割を占める。だが実態は、成長していない内需を、海外子会社の利益という「外貨の点滴」で支えている状態だった。


プラザ合意当時は「円高で輸出が死ぬ」と騒いだ。

だが令和の円安は、日本の国力の減退を鏡のように映し出す。

輸出拠点の大半を海外に移転した結果、円安になっても輸出数量は伸びない。跳ね上がるのは、電気代、ガソリン代、食料価格といった生活コストだけだ。


これは昭和と比べればという意味で、明らかに「悪い円安」だった。

さらに日本には、金利を上げられないという制約がある。バブル後始末のために積み上げた莫大な国債残高が足枷となり、日銀は米欧のように利上げへ踏み切れない。

金利を上げれば、国債利払いの急増や住宅ローン破綻が現実味を帯びるからだ。


こうして振り返ると、一つの残酷な真実が浮かび上がる。

1985年の日本は、円高という外圧を、内需主導の成熟社会へ転換する好機として利用できたはずだった。西ドイツがそうしたように、非効率な産業を切り捨て、高付加価値分野へ舵を切ることもできた。


しかし日本は、金融緩和という最も楽な逃げ道を選び続けた。

その結果、令和において日本は、自らの意思では制御できない円安という形で、35年分のツケを支払わされていた。


目先の雇用維持と組織防衛のために構造改革を拒み続けた結果、日本という国家そのものが選択肢を失った。もしプラザ合意の会議室に座っていた竹下登や澄田智が、令和の現実を見たとしたら何と言うだろうか。


「一時的な調整で済む」そんなふうに高を括った当時の慢心こそが、令和、そして未来の日本を縛り続けている。金融政策は限界に達し、為替ももはや制御できない。

法人税引き下げによってゾンビ企業は延命し、賃金は横ばいのままという結果となった。少なくとも、私の目にはそう映っていた。


構造改革を先送りしてきた日本に残された政策手段は、税制しかなかった。


だからこそ片市政権において、私が推し進めたのは消費税廃止と法人税増税という選択だ。

「消費を解放し、怠惰な組織を罰する」その目的のために。


さて、話は少し戻る。


プラザ合意に先駆ける9月中旬、令和から見れば一つの大事件が起きていた。

あのAppleの創業者、スティーブ・ジョブズが、自分の会社から追い出されたのだ。


新聞の見出しは控えめだったが、シリコンバレーには衝撃が走ったはずだ。Appleを創業し、マッキントッシュを世に送り出した本人が、取締役会の決定によって事実上の退場を命じられたのだから。


私は朝礼を兼ねた会議の席で、三人の社員を前に告げた。


「ニュースの通り、アップルの創業者が会社を追われた。たぶん、自分のやり方を強引に押し通した結果だろう」


竹中が補足する。


「マッキントッシュ部門の不振も大きい。革新的だが高価で、対応ソフトも少ない。法人市場で伸びてないから売上は計画未達らしい」


寧音が首をかしげた。


「マッキントッシュ?

マッキントッシュといえば『ゴールデントフィー』よね?」


阿戸さんが即座にツッコミを入れた。


「それはお菓子の名前だから全然違うわよ」


「そうなの?テレビCMじゃ『マッキントッシュのキットカット』って宣伝もしてるけど?」


ああ、そういえば、あの受験生の味方は、まだその社名で売っていたな。阿戸さんが冷めた目を寧音に向けるが、竹中は構わず続ける。


「業績不振の責任を負わされたんだろう。自己主張の強さもあって、組織で浮いた可能性は高い」


そうだろう。後世から見ても、そう評価される。

彼は若すぎた。


私は、後世の知識を自分の想像だと断った上で口にした。


「これは『追放』というより、『未完成の王が玉座を降ろされた』と表現できる。ジョブズを排除した中心人物は、彼自身が引き抜いた元ペプシの経営者、ジョン・スカリーだろう。

ビジョン最優先・短期損失容認のジョブズと、収益・安定・株主重視のスカリー。その対立が決定打になったんじゃないかな」


「じゃあ、今後のアップルは?」と問われる。


「短期的には合理的な判断だろう。ただし、スカリーに長期ビジョンがあるかどうかが分岐点だ。経営のプロに、それが備わっているかは疑わしいがね」


多くのプロ経営者は、まず目先の数字を整えにいく。それが彼らの誇りであり、存在意義だからだ。


だが。


今のAppleは安定を求める一方で、長期的には傾き、1990年代には凋落し、身売り話が現実味を帯びる。史実では1997年、ジョブズが救世主として復帰し、世界的企業へと変貌するのだが。


要するに、ジョブズは「天才すぎて、この時点のAppleには早すぎた」。そして「経営者として成熟する前に頂点に立ってしまった」。


この挫折が、後の完成形ジョブズを生んだとも解釈できる。

だが、私には明確な狙いがあった。


Appleを、いずれ私が買収するという目標だ。


もちろん今は現実的ではない。資金もまったく足りず、買収のタイミングでもない。

だから私はこう言った。


「スティーブ・ジョブズという人物に興味がある。早めに直接会って話してみたい。来年早々にでも、アメリカへ行くつもりだ」


将来、Apple買収に成功すれば、それは我が社が世界へ雄飛する大きな起点になる。


同時に、マイクロソフトのビル・ゲイツにも会っておきたい。

Windows 1.0の発売は今年11月のはずだ。発表から二年、開発は難航し、制約も多く、商業的成功とは言い難い。それでも後のWindows帝国の原点であることに疑いはない。


つまり、まだ誰も本気にしていないが、確実に時代は動き始めている。


令和から振り返れば、その地殻変動が始まった年。

それが1985年だった。


日本が金融で時間を稼いでいる間に、アメリカは未来を作ろうとしている。

ならば、その未来の中心人物に、今のうちに賭けるしかない。


1985年。

私は静かに、世界の軸が動く音を聞いていた。


何とか早めにアメリカへ渡り、二人に会ってみたい。


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