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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ。   作者: 織田雪村
第三章

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大学生活⑨ RPGソフトへの挑戦 後編

1984年(昭和59年)7月。


季節はいつの間にか夏真っ盛りを迎え、アスファルトからは逃げ場のない陽炎が立ち上っていた。


予定通り発売された「ファイティング カラテ」は、私たちの予想を上回る勢いで市場に浸透していた。当初の2万本という数字は、発売後またたく間に「在庫切れ」という嬉しい悲鳴に変わり、追加発注の電話が事務所のベルを鳴らし続けた。


そうなると、もはや私たちだけで捌き切れる規模ではない。

製造は任天堂から紹介された専門業者に委託し、私たちはようやく、次なる大きな一歩に集中する余裕を手に入れた。


夏休み。

世間がバカンスに浮かれている時でも、私たちは事務所にこもり、新作RPGの骨格を組み上げていた。プログラムの深淵は竹中に任せ、私と寧音は世界観を練り上げる。


そんな中、寧音がまだ「名無し」だったそのゲームに名前を授けた。

二人であれこれと悩んでいたのだが、彼女は会心の笑みを浮かべて言ったのだ。


「……『バイナリー・エボリューション』

副題として『覚醒のシグモイド』。これが私のイチ押しよ」


彼女が示してくれたタイトル案は、どれもSF的な香りが漂うものだったが、その意図は明確だった。


「0と1のデジタル世界で、冷徹な数式に基づきながらも、劇的な進化を遂げる物語。ハードウェアの限界ゆえの一人旅を、『単独での極限進化』という概念に昇華させたの」


悪くない。むしろ、私たちの挑戦を象徴するような知的な響きだ。だが、その肝心の「挑戦者」である竹中の様子が、ここ数日どうにもおかしかった。


「……俺はもうダメだ。木下よ、俺の人生は終わったんだ……」


かつての「竹中ゾンビ」とはまた違う、魂が抜け落ちたような虚脱感。

話しかけても視線は泳ぎ、好物の差し入れにも手を付けない。数式すら思い出せないほどの深刻なスランプ。その原因は、意外にも身近なところにあった。


竹中の恋人、阿戸徳美。


思い返せば、ここ数日……いや、もっと長い間、彼女が事務所に顔を出すことはなかった。私たちが開発の熱に浮かされている間に、竹中は阿戸さんを「景色の一部」のように扱い、放置し続けていたのだ。二人の間に吹いた隙間風は、いつの間にか凍てつくような冷気へと変わっていたらしい。


「一応確認するが……お前、阿戸さんのことをどう思っているんだ?」


私が正面から問うと、竹中はオタク特有の不器用な表情を紅潮させて叫んだ。


「俺は……徳美を愛している!それだけは断言できる!」


「なら、なぜここまで彼女を追い詰めた。いや、放置した?

人間は失って初めて、その重さに気づくものだが、お前は今、まさにその崖っぷちに立っているんだぞ」


「ど、どうすればいい!?徳美に俺の気持ちを……俺がどれだけ後悔しているか、伝える方法を教えてくれ!頼む、一生のお願いだ!」


土下座せんばかりの勢いで縋り付いてくる竹中を前に、私は困惑した。恋愛相談など、これまでの人生で受けたことも、したこともない。

ビジネスの戦略は立てられるが、女心という非論理的なプログラムだけは、バグだらけで手が出せないのだ。


「……花とか、買ってみたらどうだ?」


我ながら陳腐な提案だと思ったが、他に何も思い浮かばなかった。


「花……?そ、そうか!バラの花束を100本!」


だがここで寧音は疑問を口にした。


「ちょっと待って。それは逆効果よ。竹中君って、普段そんなことする人じゃないのに、不自然すぎるわ」


竹中はその場で崩れ落ち、床に額を打ち付けた。


「じゃあ何をすればいいんだ……!俺には、俺には何もできない……!」


その日は、結局何の解決策も見つからなかった。


翌日も、竹中の様子は変わらなかった。

プログラムのコードを眺めているものの、一行も書けていない。

そのまま夕方になり、彼はぼそりと言った。


「木下……俺、彼女に手紙を書いてみようと思うんだ」と。


「それはいいかもしれないな」


「でも、何を書けば……。『ごめんなさい』だけじゃダメだよな。『愛してる』も、今さらすぎるし……」


竹中はノートに何度も文字を書いては消し、書いては消しを繰り返していた。


それから2日間、この状態が続いた。

寧音も心配そうに竹中を見つめていたが、彼女も具体的なアドバイスは思いつかないと悩んでいた。


「……竹中君、徳美さんって読書とか好きだったんじゃない?」


「徳美は……読書が好きで、あと映画も……。俺と一緒にゲームセンターにも付き合ってくれて……」


「じゃあ、その思い出を手紙に……」


「でも!でも、それを書いたところで、俺が彼女を放置した事実は消えない!

言葉だけじゃ、何も伝わらないんだ……!」


3日目の夜。

竹中は相変わらず虚ろな目でモニターを見つめていた。

画面には、まだ名無しのRPGの仮タイトル画面が表示されている。

ふと、私は竹中の手元に散らばった、何十枚もの破り捨てられた手紙の下書きに気づいた。

どれも途中で止まっている。言葉が、足りない。

その時だった。


「……木下、高台寺さん。聞いてくれ」


竹中が、初めて明確な声で話し始めた。


「俺は、言葉が下手だ。手紙も書けない。でも……コードなら書ける。プログラムなら、俺の全てを込められる」


彼は震える手でキーボードに触れた。


「徳美を、このゲームの中に……いや、違う。徳美『に』このゲームを作るんだ。俺が唯一、まともに作れるもので」


私と寧音は顔を見合わせた。


「……それは、どういう意味だ?」


「主人公に、徳美を救わせるんだ。いや……」


竹中は言葉を探すように天井を見上げた。


「……徳美自身が、ゲームをプレイして。彼女が操作する主人公が、彼女自身を救う。

そういう物語を作りたい」


その発想には、確かに何か光るものがあった。

だが、具体的にどうすればいいのか。


「お姫様の名前を『徳美』にするのか?」と私は尋ねた。


「それじゃダメだ……押し付けになる。もっと、自然に……」


寧音が口を開いた。


「……名前を、プレイヤーが決められるようにしたら?」


竹中の動きが止まった。


「勇者の名前も、お姫様の名前も、空白にしておくの。プレイヤーが自由に入力できるようにして」


「そして……テストプレイの時、お前が彼女に渡す。何も言わずに」


私がその先を継いだ。


「彼女が自分で、二人の名前を入力する。その時初めて、お前の想いが伝わるんじゃないか」


竹中の瞳に、ようやく光が戻った。


「……『押し付ける』んじゃない。彼女に『選んでもらう』……」


それから2日間。

竹中は不眠不休で、名前入力システムの実装に取り組んだ。通常なら半日で終わる作業だったが、彼は何度も何度も書き直していた。

文字フォント、入力画面の背景、カーソルの動き。全てに、彼なりの「想い」を込めようとしていた。


しかも竹中は謝罪にこだわった。

「名前だけでは謝罪として弱い」。そう判断した竹中は、さらにプログラムを変更したのだ。結局のところ、二人の名前を入力した時にだけ、竹中の謝罪文が画面に表示される仕様にした。


そして、5日目の夕方。


潮時を見計らったかのように、事務所のドアに控えめなノックの音が響いた。

私がドアを開けると、そこに立っていたのは、水色のワンピースを身にまとった阿戸徳美だった。少し痩せ、どこか吹っ切れたような、それでいて寂しげな瞳。


「……お話があるって、高台寺さんに呼ばれたから」


竹中は完全に硬直していた。プログラムの海では無敵の男も、現実の恋愛イベントの前では「レベル1の村人」同然だ。


「と、徳美……っ」


寧音が一歩前に出て、凍りついた空気を和らげるように微笑んだ。


「来てくれてありがとう。ちょうど良かったわ、今ね、新作のテストプレイを始めるところだったの。徳美さんも、手伝ってくれない?」


阿戸さんは、相変わらずの「ゴミ屋敷」と化した事務所を一瞥し、そして膝をついて震えている竹中を見つめた。


「……まだ、こんな生活してたんだね」


責めるわけでもなく、ただ静かに、その事実を受け入れるような声。


「ごめん……徳美、本当に、ごめん……」


竹中の絞り出すような謝罪の中、私はパソコンの電源を入れ、プログラムを立ち上げた。

画面に映し出されたのは、仮のタイトル画面と、新たに追加された入力項目。


《NAME INPUT》


さあ、どうなるのだろう。

こっちまで不安になってきたが、私は彼女にテストプレイを依頼した。


「このゲーム、最初に勇者とお姫様の名前を、プレイヤーが自由に決められるようにしたんだ。誰かにとって大切な名前を、物語の中心に置けるようにね。阿戸さん、ここに俺が今から指定する名前を入れてみてくれないか。この物語には、君たちの協力が必要なんだ」


彼女は戸惑いながらも、震える指で私が指定した名前を入力した。

勇者名は『SHIGE』、姫の名前は『TOMI』。彼女が見て、明らかに自分たちのことだとわかる名前。


彼女は入力後にエンターキーを押した、その瞬間だった。


画面上の勇者が、王様の前ではなく、突然現れた阿戸さんに似たお姫様に向かって膝をついた。

テキストボックスに流れたのは、ゲームの台詞ではない。


「トクミ、ボクを、もうイチドだけ、シンじてくれないか」


竹中が不眠不休で書き換えた、彼にしか書けない「愛のコード」だった。


阿戸さんは、その画面を見つめたまま動かなくなった。

十秒、二十秒。

やがて、彼女は小さく、震えるような息を吐き出した。


「……ずるいよ、こんなの」


ぽつりと、掠れた声が漏れる。


「こんなの……あなたがどれだけ頑張ってたか、分かっちゃうじゃない」


彼女の瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。


「ちゃんと、私のこと……物語の中に、入れてくれてたんだね」


その瞬間、事務所を満たしていた淀んだ空気は、温かな光に溶けて消えていった。

このゲームは、単なる数式の集合体ではない。

欠けてしまった信頼を、プログラムという言葉を尽くして補完しようとした、一人の男の切実な祈りだ。


後に世界を席巻するこのRPGの『名前入力システム』は、実は一人の女性への謝罪から生まれたことを、ユーザーは知る由もないだろう。


また、スタート画面で勇者を「SHIGE」、姫を「TOMI」と入力した場合のみ、あの画面と文字が現れるという設定のまま発売したが、これは英語版でも変えなかった。


数十年先の未来において、偶然これを発見したユーザーが拡散させたため、謎の隠しコマンドとして世界的に有名にもなった。

それを伝え聞いた私は、まるで「ゆうべはお楽しみでしたね」という感じみたいなのかな、と思った。


ともかく竹中重治はこの日、ようやく、現実という名の最も過酷なRPGにおいて、大切な「レベルアップ」を果たしたのだ。


翌日から竹中のタイピング速度が「ゾンビ」の時を上回る、異次元の速さになったのは言うまでもない。



本文中に登場する「ゆうべはお楽しみでしたね」という表現は、特定の作品・団体・個人を直接的に引用、再現、または指示するものではなく、創作上の演出として用いた架空の表現です。

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