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もう一人の私 昭和に転生した元財務官僚、失われた30年を防ぐ。   作者: 織田雪村
第三章

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大学生活② 東大入学式

1983年(昭和58年)4月12日


今日は東京大学の入学式だ。

入学式の会場は日本武道館。安田講堂では入りきらないからだろうが、ここで執り行うことが近年の伝統となっている。


北の丸公園の桜は、散り始めの薄桃色を風に揺らしていた。前日の雨が石畳にまだわずかに湿り気を残しており、朝の光を反射して、どこか晴れがましい白さを帯びている。

今日の都心の最高気温予報は12℃。春とはいえまだまだ寒い日が続きそうだ。


九段下の駅から続々と歩いてくる新入生の列は、まるでこれから別の時代に踏み込んでいく巡礼者のようにも見えた。


私はその群れの中に紛れ込みながら、巨大な武道館を見上げていた。

二度目の入学式とはいえ、いや、二度目だからこそだろうか。胸の奥の緊張は不思議と薄く、代わりに静かな確信だけがあった。


『ここから先の未来は、自分で選び、作る』そういう決意だけが、朝の空気のように澄み切っていた。


武道館の正面には、黒いスーツ姿の父兄、真新しいスーツやワンピースに身を包んだ新入生たちがひしめき合い、入口の上に掲げられた白地の横断幕、「東京大学入学式」の文字を写真に収めようと、あちこちでシャッター音が響いていた。


会場へと続く階段は、既に人の流れが途切れることなく続いている。私は緩やかな上りを歩きながら、ふと周囲の顔ぶれを眺めた。

眼鏡の奥で目を輝かせている者、緊張で口を結んだ者、友人と談笑している者。

青春という曖昧で掴みどころのないものが、色とりどりの形を持ってそこに存在しているように感じられたが、私もまた同じように見られているのだろうと思うと、なぜか可笑しさが込み上げてきた。


「それにしても、なんとかここまで来たな」


口に出さずとも、その思いは何度も胸の中で反芻された。


場内に入ると、空気が一変した。

外では春風とざわめきが支配していたが、ここでは静寂と張り詰めた緊張がすべてを包んでいる。


武道館の天井は高く、まるで巨大な逆さのすり鉢の底に立っているみたいだった。

中央には紅白の幕が張られ、その奥に壇上が設けられている。ずらりと並んだ椅子席、整然と並ぶ新入生たちの列、その間を係員が静かに動き回っている。


アリーナ席は新入生で埋め尽くされ、2階・3階席には父兄の姿が見える。

ざわざわと小さな音が立つたびに、広大な空間がわずかに震えた。


やがて、場内が静まり返った。

照明がわずかに落とされ、壇上へと視線が集中する。


「ただいまより入学式を執り行います」


アナウンスの声が響くと、暖かい拍手が場内を満たした。続いて、来賓が着席し式が始まる。


演奏が始まった。

武道館の空気が、オーケストラの澄んだ音色で満ちる。

天井まで響き渡るその音を聞きながら、私はふと、肩にのしかかっていた重荷の一部が解けていくのを感じた。


式辞が始まる。


総長の言葉は、厳粛で、それでいてどこか温かかった。大きな変革期を迎えようとしている1980年代初頭の空気を反映しつつ、未来を担う者への期待と警告を織り交ぜた内容だった。


その言葉一つひとつが、巨大な空間を通り抜けて、私の胸に届く。


「自らの手で未来を切り開く強さを持ちなさい」

「知識は力であり、同時に責任である」

「ここに集いし者たちよ、己の道を恐れず進みなさい」


言葉はまるで、自分だけに向けられているかのように響いた。


これまでは前世と似たような歩みだった。だが、大学生活は全く違う様相になるのではないか。いや、この4年間は私にとって極めて重要な期間となるだろう。

日本社会を取り巻く環境が否応なく変化するからだ。


2年後、プラザ合意が全てを変える。240円が120円に。その瞬間、日本の技術が海外へ流出し始めるのを、私は止められない。いや、止める術を、まだ持っていない

さらには以前も触れたが、その翌年の日米半導体協議が日本の凋落を加速させた。

未来を知ってはいても、自分の力ではどうにもならないもどかしさが重くのしかかるが、まずは自分自身の人生設計が重要だ。

とにかく、まずはここから先の人生、すべて自分の手で築く。


式が終わると、場内の緊張がふっと解けた。 ここからは各学部に分かれてのオリエンテーションだ。私は重い腰を上げ、人の波に流されるようにして出口へと向かった。


「……まずは足場を固めないとな」


そう独りごちた時、ふと、前を歩く一人の学生の背中に目が止まった。 これといった特徴のない、どこにでもいる平凡な学生だ。だが、その歩き方、少し猫背気味の肩のラインに、何とも言えない既視感を覚えた。


どこかで会っている。直感的にそう思った。

ただし、この世界の時間軸で言えば過去ではない。遠い未来のどこかだったはずだ。


彼が向かっている方向は、工学部のガイダンス会場だ。私は少し歩を早め、彼が掲示板の前で足を止めたタイミングで思い切って声をかけた。


「工学部の電子工学科、こっちで合ってるかな?」


ごく自然な、道を確認するふりだった。彼はびくりと肩を揺らして振り返り、眼鏡を指先で押し上げながら、控えめに答えた。


「あ、はい。僕もそこに行くところです。ええと……確か、外の中道場だったはずですよ」


「助かるよ。人が多すぎて迷子になりそうだった。俺は木下藤一郎。よろしく」


「あ、石田です。石田三典。……こちらこそ、よろしくお願いします」


その名前を聞いた時、私の記憶が古いアルバムをめくるように鮮明に呼び起こされた。


石田 三典(みつのり)


白色LEDの最大手・極亜電子工業の研究者として活躍していた優秀な男で、議員時代に深く交流したのだった。当時は私より年上のベテランという印象だったが、そうか、彼とは同学年になるのか。


彼は少し照れくさそうに、しかし丁寧に会釈を返してくれた。まだ未成年の彼は、のちの熟練研究者の面影を残しつつも、どこか頼りなげな「学生」そのものだった。


私たちは並んで歩き始めた。周囲の喧騒の中、私はさりげなく話題を振った。


「石田くんは、どうして電子工学科に? やっぱり、マイコンとか?」


「いえ、もちろんコンピューターも興味ありますけど、僕はどちらかというと……『光』というか、デバイスそのものに興味があって。でも、性能を限界まで突き詰めるよりは、それがどう社会の役に立つか、みたいな『使われ方』の研究がしたいな、なんて」


その答えを聞いた瞬間、私は心の中で小さく膝を打った。 やはり、私の知っている石田だ。彼はのちに、青色LEDそのものの開発ではなく、それを「いかに安価に、効率よく白色光に変えるか」というパッケージングと応用の技術で世界を支えることになる。

いや、最初は青色LED開発に取り組んでいたが、他の日本企業に先を越されたから方向転換したと言っていたか。


「応用か。面白いな」


私は前を見据えたまま、少しだけ自分の本心を混ぜて言った。


「俺は逆に、まだ誰も成し遂げていない『基礎』に触れてみたいと思ってる。たとえば、今はまだ夢物語と言われてるけど……いつか、本物の『青色LED』が作れるようになったら、世界は一変すると思わないか?」


石田は驚いたように目を見開いた。


「青色……。確かに、それができればフルカラーのディスプレイも、照明も、全部変わりますね。でも、あれは『今世紀中は無理だ』なんて言われてますよ?」


「だからこそ、挑戦しがいがあるだろ」


私が笑ってそう言うと、石田も少しだけ表情を和らげ、「木下くんは、熱い人だね」と小さく笑った。


「じゃあ、僕がその青色を『使いこなす技術』を完成させるまで、木下くんが光を作ってくれるのを待ってるよ」


冗談めかした彼の言葉だったが、それは未来で私たちが実際に交わした約束のようにも聞こえた。 運命の糸を、今、確実に手繰り寄せた手応えがあった。

それ以上は言わなかった。言えなかった、というほうが正しいか。


青色LED。この時代においては、まだ“夢物語”の延長線上にあるテーマだ。

窒化ガリウム、結晶欠陥、P型化。

どれを取っても、成功例より失敗例のほうが圧倒的に多い。


だが私は知っている。この先、ある日本人がそこを突破することを。

そして同時に、その成功によって多くの敗者を生むことになるという、残酷で冷徹な事実も。


「じゃあ、お互い別々の場所から同じ山を登る、って感じだね」


石田はそう言って、悪くない、といった表情で頷いた。もしかしたら彼を協力者に仕立てられないか。


応用ではなく、青色LEDそのものへの挑戦。

どうすれば良いのか正解を私は知っている。

もっとも…理論よりも実験・実証のほうが遥かに難易度が高いが。


そういえば、今から数十年先の過去で石田は笑いながら私に言ったのだった。


「生まれてくるのが遅すぎて、ノーベル賞を取り損ねたよ」と。

この男が敗れたのは、時間だけの問題だったのだから。



その日の夕刻。

私は寧音さんと竹中といつもの喫茶店で会った。

2人ともそれぞれの大学の入学式を終えていて、本格的な授業も始まっているらしい。


集まった理由は、任天堂の上杉部長から約束通り連絡が来たのだ。

ぜひ会いたいという話だったので、東京支社に3人揃って訪問する予定で、事前の打ち合わせをするのだ。

私は二人に言った。


「その前にふたりに報告がある。

『有限会社ピクセルジョイトロン』の登記が完了した」


ふたりはそれを聞いて表情を引き締めた。

ここから始まるという実感が持てたのだろう。

私は続けて言った。


「今回は寧音さんも同行してほしい。デザイン担当をしてもらったからね。先方にも紹介しておきたいんだ」


彼女のデザインした『パニック・ラビリンス』のロボットは、とてもかわいらしかった。

単なるゲームではなく、そこに親しみやすさやキャッチーなアイテムを付加して人気を上げる。

セオリー通りと言えるのではないか。

不気味なデザインのゲームなど、一部のマニアを除いて敬遠するだろう。

寧音さんが言った。


「任天堂さんとの話は、どんな内容になると思う?」


「去年上杉部長が言っていた、新しい規格のゲームの概要が決定しただろうから、それに向けた新たなゲームの提案要望があるかもしれない」


想像だけど、ファミコンの発売時期を考えると間違ってはいないだろう。

全員が志望大学に入学したことも併せて報告しておいたから、本格的な依頼が来ることを期待したい。

竹中が期待を込めて言った。


「もし、ビジネスに繋がる話になったら嬉しいな?」


「ああ。相手次第だが、何とか食い込みたいものだ」


「実は新しいシューティングゲームと対戦ゲームの構想が固まったから、できればそれを紹介したいんだ」


それはすごい。さすが竹中重治だ。動きに無駄がない。


私たちは大きく頷きあった。



次回から、いよいよファミコンソフトの制作地獄に入ります。

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