[3]流れ出した風 〈P〉
意気ある彼の言葉の数々は、停滞しそうな空気をかき混ぜてくれる、まさしく一陣の風のようだった。
だがレインはアンの質問には答えず、すぐに続きを話し出した。
「君たちがこの国に閉じ込められてしまったのは、きっと僕の所為なんだ。今回の結婚を破談にして、ナフィルを属国に降格させるため、政府はアンを人質に獲るつもりだった」
「人……質」
レインの前に立ち上がったアンは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。
「王宮でナフィルの傭兵が謀反を起こしたとなれば、国民想いの君のことだからね、国王代理として直ちに登城すると、政府は単純に見込んでいた。だけど君はむしろ民のため、安直に出ていくことを避けて忍んだ。自分は何と聡明な王女を娶るのかと、我ながら誇りに思ったよ、アン」
元気良くウィンクを投げるレインに、少々驚いた様子で視線を落とすアン。隣に戻った彼女の肩を引き寄せて、レインは愛おしそうにその額へ口づけた。
けれどアンはその感嘆に、笑顔で応えることは出来なかった。自分は本当に国民のことを第一に考えられたのだろうか? 単に臆病だっただけではないのか? レインという味方がリムナトに居ないという心細さゆえに。
「だから僕も城へは戻らなかった。実際フランベルジェから帰国したことも未だ内密にしてあるんだ。僕が国内に居ると分かれば、おそらく政府は君の確保に乗り出してしまう。その前に……どうにか君たちを国外へ逃がしたかった」
そこまでを話して今度はレインが立ち上がった。「少しの間待っていて」と言い残すと、不思議そうに見守る全員に背を向け、颯爽と出口を目指してしまった。
先程のフォルテとは違い、音もなく階段を下ってゆく。やがて戻ってきたレインの後ろには、同じ外套を羽織った細身の影が立っていた。
「あの……そちらの方は?」
全員が立ち上がり、レインとその影を部屋の中央へ迎え入れた。上着のフードに隠されてハッキリとはしないが、微かに見える口元は随分と若そうな雰囲気だ。
「僕が昨日一日を掛けて、ようやく見つけた「風」だよ。名前はパニ、十三歳。この子にアンの身代わりを務めてもらう。フォルテ、アンの旅支度をこの子に着せてみてくれ」
「はっ! ──え? いえっ、はいぃ~!?」
いきなり告げられたお願いに、フォルテは驚きで混乱した。
「レイン、身代わりって……それにこんなに幼い少女を巻き込むだなんて」
アンの気遣いが嬉しかったのか、パニの唇がほんのり上向きの弧を描いた。が、レインもパニもアンの反論など意に介するつもりはなさそうだ。
「心配は無用だよ、アン。パニはまだ若いけれど、リムナトの兵士とも互角に渡り合えるくらいの心得がある。君と背格好も近いから、探索の目をごまかすことくらい出来る筈だ」
「まだ十代半ばなのに……それに女の子が、それほどの強さを?」
一見したらか弱い少女にしか見えないパニに、アンは思わず目をパチクリさせた。それでもこの緊急時、レインが時間を惜しんでも探し出したかった少女だ。彼に何か妙案があるのか、それとも見た目以上の特異な能力がパニにはあるのか、ここはともかく従うべきだとこれ以上の追究は避けた。
当のパニはそれからようやくフードを降ろしたが、敬意を表するように俯き、未だその表情は見えなかった。アンの長く真っ直ぐな黒髪とは違い、緩くカールした茶色い髪は襟足ほどである。
やがてアンの面前に赴き、パニは跪いて彼女の手を取った。その白くしなやかな甲を自分の額に触れさせて小さく囁いた。
「お初にお目に掛かります、アンシェルヌ王女さま。わたくしなどにお役目を賜り恐悦至極に存じます」
「アンでいいのよ、パニ。このようなことに協力してくれて、心から感謝します。でもどうかその身に危険を感じたら、何物も気にせず自衛の道を選んでくださいね」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
ゆっくりと体勢を戻して、ようやくパニとアンは瞳を合わせた。確かに身の丈はちょうど同じらしく、真正面で視線がかち合う。まだあどけない子供の面をしたパニだが、その眼差しには力強さがあった。深い海のようなブルー・グリーンの色。瞬間アンは何かに貫かれたような、懐かしい衝撃を胸に感じた。
「あ、の……パニ、何処かでお会いしたことがあるかしら?」
アンの声は何に揺さぶられたのか、幽かに震えていた。
「いいえ、アンさま。わたくしはナフィルを訪れたことはなく、リムナトにもこの度初めて参りました」
「そ、そう……では、貴女は……?」
何処の国の民だというのだろう? フランベルジェで見つけたというが、彼の国の殆どの民が持つという赤毛ではない。アンは無言で考えを巡らしたが、すぐにその答えは導き出された。サッと変えられた顔色を察して、レインが皆にも説明してくれた。
「パニは「風の民」なんだ。彼らがフランベルジェの南に逗留していることは、商談先で偶然聞いていてね。リムナトの国境で今回の事件を聞かされた際、家臣だけを秘密裏に帰して、僕はフランベルジェに再入国したというわけさ。風の民は基本少人数でしか各国内に入ってこないから、なかなか探すのに苦労したけれど……どうにか見つけることが出来た」
「風の……」
「風の民」は国を持たない。風のように自由気ままに旅を続ける流浪の民だ。大方はルーポワ~フランベルジェ~ナフィル三国の外周をグルリと巡っているが、時にはかなりの遠方まで出向くこともあるという。反面、物資の補給や資金調達のため、三国を越境することもあった。風の民は誰もが一芸に秀で、その技を披露することで毎日の糧を稼いでいる。しかしアンは噂には聞いていても、実際その目で見たことはなかった。風の民がナフィル国内を通り過ぎたのはもう随分昔のことだ。それに──
「アン、君は心配しなくていい。パニは首長の子供だから。風の中で生まれ、風の子として育った」
「あっ……あの、ごめんなさい……」
レインに見抜かれてしまった不安げな表情を、アンは咄嗟に俯かせてしまった。風の民の大半は諸国からの寄せ集めと言われている。その多くが幼少期に家族から虐待を受けてきた者、貧しさゆえに身を売られ、奴隷のように重労働を強いられていた者、娼婦として従事させられていた者など、世間から虐げられてきた弱者だという噂であった。自分の眼差しはそうした身の上に、同情や憐みの色を見せてしまっただろうか? アンは自問自答したが分からなかった。そんな自分に酷く動揺した。
「アンさま、どうかお気になさらないでください。貴女さまはお優しいのです。「もし辛い経験をした結果、この子が風の民になったのなら」と、わたくしの悲しみに寄り添おうとしてくださった」
「い、いえ……」
ニッコリと微笑んだパニの笑顔に、アンはまた傷みを覚えた。例え彼女が純粋に風の民として生まれ育ったのだとしても、そのような過酷な過去を持つ仲間たちと、常に生活を共にしているのだ。まるで対岸の火事のように状況を知るだけの自分とは、遥かにかけ離れた強さを持っている気がした。アンはパニの瞳から、彼女が放つ心の輝きを感じた。
「さて、そろそろ本題に入ろう。フォルテ、下の階でパニに衣装合わせをしてくれ。君たちは此処で僕の計画を聞いてくれるかい? もちろんアンもね」
レインはその場の空気を入れ替えるように、やや落ち着いた声で告げた。そう、先決は無事に此処からナフィルへ戻ることだ。そのためにレインもパニも尽力してくれている。その想いを無にしている場合ではない。
フォルテはパニを連れ立って、静かに扉の向こうへ消えていった。侍従二人は元の席に戻り、アンもレインの隣に腰を落ち着かせた。
「いいね? 決行は今夜夜半だ。二手に分かれて国境を目指してもらう。第一班はアンに扮したパニとフォルテ、それから君たち二人。昨夜潜伏中の近衛兵たちに会えたと言ったのを覚えているかい? 彼らにも既に事の詳細は伝えてある。大勢で此処に戻ると目立ち過ぎるから、僕が一夜を明かした空き家で待機してくれと、其処までの地図を渡しておいた。危険を伴う可能性は否めないが、此処を出たらまず空き家まで移動して、何とか自力で彼らと合流してほしい。これが彼らにも渡した地図だよ」
レインの説明は一旦途切れ、胸元からひとひらの便箋が差し出された。それを受け取った侍従は目通しをし、「そう遠くはないですね」と頷いてみせた。
「第一班には兵士三名を合わせて計七人、第二班はアンと、残りの兵士を二人。それとこれから風の民の副首長が合流してくれるので、こちらはその四名で動いてもらおうと思う。アンの存在を知られないためにも、人数は最低限にしておきたいのでね。少ない方が何かと身軽でもあるだろうし? 一班にはルーポワ側の北検問所から抜けて尾根伝いで、二班はフランベルジェの南検問所に近い抜け道から、裾野伝いでナフィルに戻ってもらう。……此処までは大丈夫かな?」
話が進むにつれ、場の空気がピンと張り詰めていった。が、ひとまず概要が話されて、アンと侍従二人にはすぐに疑問が浮かび上がった。潜伏中の近衛兵は全員で六名だ。なのにパニ側に三名・アン側に二名、レインの計画には一人だけが欠けていた。
「レインさまが会われた近衛兵は五名だったのでしょうか……?」
恐る恐る切り出した侍従の一人に、レインはゆっくりと視線を向けた。
「いや、六名だよ。近衛隊長のイシュケルのみ、僕のところに残す算段だ。叔父たち革新派との話し合いに、見届け人として立ち会ってもらう手筈でね。最も分別のある名士が同行出来ないとなれば、君たちには心細いと思うけれど……彼が適任であると判断した」
イシュケルとは、父王の即位と同時に召し抱えられた古参の兵士だ。昔から生真面目で口数は少ないが、王家に対する忠実な姿勢から人望は非常に厚い。隊長に任命されたのはアンが生まれた時分であったというから、異例のスピード出世であろう。それから二十年、その信念は変わることなくナフィルに人生を捧げてきた。
「確かにイシュケルでしたら……でも見届け人とは?」
これまでの彼の功績を振り返りながら、アンは二つ目の疑問を口にした。
「僕を含めた保守派のメンバーは、これから叔父たちリベラル派と対峙しなくちゃいけない。だけど事はリムナトに留まらず、国境を重ねる三国にも関わることだからね。もちろんルーポワとフランベルジェからも見届け人を募る予定だよ。君なら「自分が」って申し出るところだろうけど、残念ながら君は、その……僕にとっては「アキレス腱」でもある訳だから。悔しいとは思うけれど、今は自国へ戻って辛抱してほしい」
「は、はい……」
アキレス腱という譬えに彼の抱く決意の強さを、言い淀んだ一瞬に贖罪の深さを感じた。と同時に気付いてしまう。今の自分はどれほど無力であるのかを。伴侶となったあかつきには、四国の法に則って婿であるレインが次期ナフィル王に、王女のアンは次期王妃として、共にリムナトとナフィルの発展に努めようと志を新たにしていた。そんな自分がレインの障害となり、且つ自国の未来を未来の夫に背負わせている……反面彼も苦悩しているのだろう、自国が未来の妻とその祖国を脅かしているという現実に。
「……リムナトのことが終息次第、イシュケルには今回の報告書とこれまでの関係を継続する旨の宣言状を持たせて、早急にナフィルへ帰すつもりだ。もちろん護衛もたっぷり付けてね。だからイシュケルのこともこちらのことも、どうか心配しないでいて」
「……はい」
それでも懸念は数多存在した。自分がどんなにか威厳のある国王代理であったらと、アンは幾度願ったことだろう。けれど今はまだ二十を数年過ぎたばかりの若輩者で、ついでに言えば迫力という言葉には程遠いタダのか弱い女だった。
父が倒れてからこの方ずっと気掛かりだったのだ。自分がナフィルの民を進むべき方角へ牽引していけるのかと。そんな矢先のこのザマだ……不甲斐ない自分に出来ることは、レインに任せて待つことだけなのか? ただ立ち尽くして唇を噛むしかないのか?
「アン……それからもう一つ、必ず届けるから待っていて」
「はい……?」
思い詰める度に落ちてゆく目線が、レインの続けられた言葉に持ち上げられる。視界を埋め尽くしたのは常に変わらない朗らかな微笑み。そう、この笑顔が隣にあったからこそ、自分はどんな悲しみも苦しみも乗り越えてこられた。
今はこの輝きに身を委ねろと、天から言われているのだと思いたかった。いや、この光明がある限り、きっと道は開ける筈だ。そう思わせてくれる何かが、レインの唇から流れる言葉にはあった。
その唇がアンの耳元に近付いてくる。内緒話をするように掌を添えて、吐息の掛かる至近で明かされた。
「忘れたのかい? ──正式な……婚姻契約書……だよ!」
付け加えられた「お届け物」と眩しいくらいのウィンクは、アンの胸に渦巻く不安を一掃した。もちろん……侍従二人を蚊帳の外に置き去りにして。
◆ ◆ ◆
「王女さまのお衣装ですから、旅支度としてももっと装飾で覆い尽くされているのかと思っていました。こちらでしたら身軽に歩けますね。万が一リムナト兵に追いつかれても余裕で闘えます」
その頃。真下の二階、店主の寝室ではパニの支度が整いつつあった。一国の長代理でありながら、色合いも形状も決して王族らしいとは言えない質素な装いだ。店主に用意してもらった姿見に身を映して、パニは快適そうに腕や肩を回してみせた。
「姫さまは余り華美を好まないの。もう少し豪奢なお召し物でも良いと思うのだけど」
フォルテは微かにボヤきながら大袈裟に溜息をついた。その吐き出された空気の源は、お洒落を楽しまない主人に対する諦めなのか? 万が一にも敵兵に追いつかれては困るという先への不安なのか? ──どちらなのかは分からぬところだが。
「パニったら、本当に背丈はピッタリね! でもやっぱりまだまだ子供だわ~胸元がブカブカ、その内その辺りも成長するかしら?」
フォルテはダラリと下がってしまった前身頃を持ち上げて、それらしい膨らみを作って笑う。
「いえ、それは困ります」
「え?」
不思議な返事が気になって、フォルテはパニの顔を見上げた。まるで先程のレインのような朗らかな笑顔に、彼女はゆっくり小首を傾げてみせる。
「だって……「ボク」、男の子ですから」
「──ボ……クっ!?」
◆衣装はパニ自身のイラストですが・・・
◆次回の更新は二月二十六日の予定です。




