293.ローリング・デス・マッチ!!!
「さ、さ、寒っ!」
「ちょっと、お姉ちゃん! 私を風除けに使わないでよっ!! あ、わ、あ! お、おち、落ちるぅっ!!」
地上千メートルの、澄み切った大気の中。凍てつく風が、聖女マルシャ・バールの悲鳴をかき消す。
彼女たちが今乗っているのは、深紅の鱗を優雅になびかせ、悠然と滑空するワイバーン、レッドフォードの背中だ。
強烈な冷気が涙腺を刺激し、晴れ渡る青空の下であっても、深まりゆく秋の空は、まるで極寒の真冬の様相を呈していた。
トーヴァとマルシャの二人は、ダンジョン・マスターのスズから借り受けた、青と赤の色違いのエスキモー服に身を包んでいる。
しかし、その厚手の防寒着をもってしても、皮膚の奥まで沁み込んでくるような、堪え難い寒さだった。
(あの時、素直にラルフ様の忠告を聞いていれば……!)
出発時、「そんなんじゃダメだと思うよ。もっと内側に着込んで、上着は風を通さない革製にしないと」とラルフから受けた親切な忠告を、「大袈裟だ」と笑って断ってしまったことを、二人は今、心の底から後悔していた。
彼女たちは、現在の立場は、――不明。
暫定的に、"聖女"と呼称され。そして、何故か知らんが、王国、ロートシュタイン領での長期滞在を続けている。という、極めて謎な身分だ。
しかし今は、領主ラルフの命を受け、故郷である聖教国へフライトし、まさに慌ただしいとんぼ返りの最中だった。
その使命は、ある「モノ」の買い付けること。
それは、聖教国で生まれ育った彼女たちにはピンと来なかったが、――新たな聖教国の名物となるやも、と聞かされた。凄まじいポテンシャルを秘めた保存食、――チーズだった。
農園や教会から買い集めたそれらは、マルシャがたすき掛けにしたマジック・バッグの中に、大量に収められている。
「は、はやぐ〜! ロートシュタインはまだ?! わ、私、凍っちゃう!!」
「私が先に凍りそうなんだけど?! 先頭交代してよ!!」
背中で繰り広げられる、聖女姉妹の甲高い騒ぎ声に、レッドフォードは心の底からウンザリ顔だ。一刻も早く、愛するご主人様の待つ居酒屋領主館に帰りたい。しかし、背中の二人が凍え死んでは、ご主人様が悲しむかもしれない。そう判断し、彼はわずかに高度を落とすことを決意した。
が、その急激な動作が、さらなる悲劇を生む。
「ひぇぇぇぇぇぇ!!!」
「なっ! なっ! 落ちる! 落ちるー!!」
聖女二人の、文字通りの断末魔の悲鳴が、青空に響き渡った。
数刻後。居酒屋領主館、賑わう客席にて。
「よっ! どうだった? お前ら、空の旅は?」
カウンターの中から、領主ラルフ・ドーソンが、達成感に満ちた笑顔で問いかけてきた。
すると、トーヴァは、かじかむ手でお椀を持ち上げ、勢いよくすすりながら答えた。
「ズズズズズズー……。ぷはぁ~。いや〜、あったまるな〜。ナニコレ? 美味っ!!」
その隣でマルシャも、
「うんまぁ! ナニコレ?! うんまー!」
と、震える身体の芯から温めてくれる汁物の美味に、奇声に近い歓声を上げた。
「それは、鶏団子とネギの味噌汁だ。鶏団子は、生姜たっぷり! 風邪予防にも効果があるぞー! 多分な……」
ラルフは、自慢げに創作メニューを説明する。二人は、冷え切った身体に、その温かい恵みが染み渡るのを感じていた。
「ありがたや、ありがたやっ」
「あとは、お酒飲めば、完璧に温まるわ!」
帰還した時は青白かった唇にも血色が戻り、聖女姉妹には復活の兆しが見えた。凍てついた大地を融かすように、未知の美味と店内の喧騒が、彼女たちに人心地つかせてくれたのだ。
一仕事をこなした二人に、ラルフは気前よく告げた。
「今日は好きに飲み食いしていいぞ! それが報酬ってことで!」
二人は早速、メニューを手に取り、「あれがいい」「これがいい」と、キャッキャと騒がしく相談を始めた。
「で、聖女様方に、何を依頼したんだ?」
カウンター席で焼鳥のつくね(タレ)を持ち上げていたファウスティン公爵が、尋ねてきた。
「ふっふっふー。これですよ、ファウストさん!」
ラルフが得意げに見せてきたのは、硬質な塊。
「ん? チーズか? なら、ウチの領でも作ってるし、お前のロートシュタインでも……」
言い淀んだ公爵は、それがこの王国で作られるものとは似て非なることを察した。そして、彼の前世の記憶が、その正体を呼び起こす。
「もしかして、……そりゃあ、ブルーチーズか?」
「そう! その通り! 聖教国では、農民と教会が協力して、これを作っていたみたいなんだよねー!」
しかし、ファウスティンは顔をしかめた。
「あー。俺、ちょっと苦手なんだよなぁ……」
「あー、まあ……。確かに、好き嫌いは分かれるかもですねぇ」
ラルフは嘆息した。彼らの前世に於いても、特に日本人には、その独特の風味が賛否両論なのは確かだった。
少し残念そうな顔をしたラルフを見て、公爵は口を開く。
「なに? お前は、好きなのか? そんな、"犬の小便をひっかけられたオヤジの履き古した革靴"みてぇな、臭いのが?」
「表現がひど過ぎるっ!! 腐っても、ここは飲食店ですからねっ?! ……あ、いや、確かに、コレも"腐ってる"と言えるんでしょうけど……」
と、彼らしい鋭い着眼点を利用したツッコミを披露する。
ブルーチーズの生成に必要な発酵は、化学的な分解プロセスとしては腐敗と本質的に同じであり、腐敗臭の原因となる成分も含まれている。言わば「腐っている」と言っても過言ではないのだ。
「ふんっ、まあ、俺はいらねーなぁ……」
ファウスティン公爵は興味なさそうに、再びつくねを咀嚼しだす。するとラルフは、すかさず別の手を打った。
「カマンベールっぽいのも、ありますよ?」
ファウスティンはピクリ、と首をもたげた。
「むっ? カマンベール、あるのか?」
「はい。かなり近い、それっぽいモノは……」
彼の目つきが変わる。
「なら、カマンベールの串揚げ。できるか?」
「もちろんです!」
ラルフは自信満々に頷いた。
そのやり取りをカウンター席で見ていたヴラドおじさん(国王)が、手を挙げた。
「ちょっと、儂は、そっちのヤツを、試してみてもいいか?」
彼が指差したのは、ファウスティンが「臭い」と評した方のチーズ。
国王が愛する米酒には、何故か臭いものや、ゲテモノと評されるメニューが驚くほど合うのを知っていた。イカの塩辛に、魚の肝、ウニや白子……。この居酒屋領主館に通うようになって、彼の"美味いツマミ"を嗅ぎつけるスキルは圧倒的に磨かれていた。そして、その研ぎ澄まされた嗅覚が、この臭いチーズを新たな標的と定めたのだ。
「私は、ハチミツと合わせて食べたいなぁ」
聖女マルシャが、幼い頃から食してきた食べ合わせを所望した。
「えっ?! 甘いモノに合うの?! それ!!」
ロートシュタイン出版の甘味担当、ヘンリエッタが、凄く遠くのテーブルから立ち上がった。スイーツのことになると、彼女のとんでもない地獄耳が発揮される。
少しずつではあるが、王国とは違うこのチーズに、客たちは興味を示し、注文が入り始めた。
(やはり、独特のクセを持つこの食材が、聖教国の経済的自走力を生み出すほどの輸出品になるのは、難しいのだろうか……)
ラルフは一瞬悩んだ。
しかし、その魅力が、狭いながらも深く、浸透し始めた実感はあった。客たちの声が、それを証明する。
「むう……。やはり、儂の見立てどおり、米酒に合うではないか」
「いや、葡萄酒の方が相性よくないですか?」
「ナニコレ?! このチーズの塩味と独特のクセ、そこにハチミツの甘さ。……まるで王子様が二人で仲良く喧嘩しながら帰って来たみたい!」
「いや、臭っ! 確かに臭ぇけど、……ウ~ン。俺は、割と好きかもしれん……不思議だなぁ」
どうやら、刺さる人には、深く"ぶっ刺さる"味覚のようだ。
しかし、これはまだ王国では聖教国からの並行輸入品であり、少々高価だ。
これからブランディングし、価値を高め、聖教国の農園に投資ができるほどの事業に成長させ、生産量を増やしていければ、もしかすると……。
ラルフの脳内には、急速にビジネス的観点と戦略が渦巻き始めた。
そして、ハッ! と、まるで神の啓示のような天才的なアイデアを閃く。
翌年、ロートシュタインで開催されたのは、「チーズローリング」なる奇祭だった。
急勾配の斜面を転がり落ちる円形のハードチーズを追いかけ、人々も駆け下り、転げ落ちる。
怪我人や骨折者が多く出るという、悲惨極まりない状況でありながらも、優勝者に与えられるのは、転がしたチーズのみ。という、全く割に合わない報酬ながら、何故かこの祭りは好評を博し、ごく普通に定着してしまった。
その季節になると、王国だけでなく、共和国に、帝国、そして聖教国の治癒魔法に秀でた魔導士たちが、
「そろそろ、"あの祭り"の時期か、さーて、稼ぎに行くか!!」
と、ロートシュタインに赴く。
という、謎の恒例行事としての経済的循環まで生み出してしまったのだ。
ちなみに、記念すべき第一回優勝者は、居酒屋領主館の看板娘の一人、ハルだった。
意外にも、獣人族なだけあって、彼女の運動神経は群を抜いていた。




