287.完全なる食事
聖教国を揺るがした聖女解放運動の動乱から月日が流れ、ロートシュタイン領は、一見の平和を取り戻していた。
しかし、領主ラルフ・ドーソンが営む居酒屋領主館は、かつてない活気と喧騒に包まれていた。それは、ただの賑わいというよりも、異国の文化と人々が交錯し、アップグレードされたカオス、と呼ぶにふさわしい状況だった。
ラルフはカウンターに立ち、目の前に置かれた巨大なジョッキに両手を翳し、その中に魔力を集中させる。
「では、本日もいってみましょう! 氷占い!」
掛け声と共に、魔力によって空中から無数のロックアイスが生み出された。
しかし、その大半は制御を失い、ジョッキの枠を飛び越えてカウンターに無慈悲に散乱する。ジョッキに辛うじて収まったのは、わずか二つの小さな氷片のみ。
「え、……えっと、なん、なん?」
エルフのミュリエルは、その哀れなジョッキを持ち上げ、困惑の極みにいた。
この領主がまたもや何をやっているのか、わけがわからない。
「ということで、ミュリエルは"小吉"です!!」
「急にそんげなこと言われてもぉぉぉぉ?!」
領主の匙加減一つで不吉な運命を宣告されてはたまったものではない。
ミュリエルは散らばった氷をかき集め、やけくそ気味にジョッキに放り込む。
「はいよ。女神のハイボール、"濃いめ"な」
ラルフは、聖教国の大教会謹製の蒸留酒と、炭酸水のボトルを両手に持ち、ドボドボとミュリエルの大ジョッキに注ぎ込む。
琥珀色の液体はグラスの縁まで並々と満たされ、勢いよく弾ける炭酸の音が喧騒に拍車をかける。
注文の品が提供されたのなら、それでいい。ミュリエルは深く考えることを放棄し、濃いめに作られたハイボールを「んぐんぐ!」と勢いよく喉に流し込み始めた。
その時、ドアベルが鳴り響き、店の喧騒が一瞬高まった。いつもの騒がしくも、汗と土の匂いを纏った一団、王国騎士団のメンバー達だ。
「マスター! とりあえず、ビールを大量に! あとは、締めはいつものラーメンで!」
腹ペコ女騎士、ミラ・カーライルが、訓練後の高揚感に満ちた満面の笑みで手を振る。続く騎士団員たちも、来店したばかりだというのに、妙な熱意をもって、"締めのオーダー"を通す。
「俺はイエケーラーメン大盛り!」
「俺は、チャーシューメン!!」
「私は、ニンニクラーメン、チャーシュー抜きで……」
彼らなりに、ラーメンが手間のかかる料理だと認識しており、こうして早めに注文しておくのがこの店における彼らの流儀、一種の配慮なのだろう。
しかし、ラルフは、ある注文に耳を疑い、顔を上げた。
「おい……。最後のヤツ、誰だ? あざといにも、ほどがあるぞ……」
そこに立っていたのは、日本刀を持ったダンジョン・マスターのスズだった。どうやら今日は、騎士団の剣戟訓練に、何故か知らんが参加していたらしい。
さらに、最近ロートシュタインに居を移した、元聖教国騎士、クランク・ハーディーも暖簾をくぐった。
「俺も、シメはイエケーの、味濃いめ、麺硬め、ノリ増しを頼む!」
クランクは、この店に通ううちに、既に自分のお気に入りカスタマイズを見つけ出していた。
かくして、いつもの騒がしい夜が始まる。
聖教国との交易が盛んになるにつれ、この店に通う常連客は激増し、ロートシュタイン領は、オーバーツーリズムという悩ましい問題が再燃していた。
ラルフは特大の寸胴鍋に火をかけながら、騎士団のテーブルの喧騒に耳を澄ませる。
「ふんっ、毎日あんなモノ(ラーメン)を食べてたら、そりゃあ強くなれるわけだ!」
クランクが、彼にしては珍しく感情的な言葉を吐き出す。
「そうだっ! その通り! クランク殿もイエケーを食べるようになって、更に斬撃が重くなったな!」
クランクをスカウトし、聖剣騎士団から引き抜いた張本人であるミラは、彼に一際目をかけている。
「ああ。確かに、実感してるぜ。アレ(家系ラーメン)を食うと、翌日に疲れを残さない……。それに、言われてみれば、確かに筋力も増した気がするな……」
クランクは自らの手を握りしめ、その変化を噛み締める。
「聖教国では、どんな食事が一般的だったのだ?」
ミラが尋ねる。
「硬いパンと、干し肉。それと、豆のスープだな」
「他には?」
「……は? 他とは?」
「いや、毎日、硬いパンと干し肉と豆しか食っていなかったわけでは、なかろう?」
「……いや。毎日、それだが?」
その言葉に、騎士団のメンバーたちはもちろん、カウンターのラルフも思わず目を見開いた。
清貧を美徳とするという教義は聞いていたが、まさかそれほど徹底されていたとは……。
「あ……、ああ……。うん! 色々食ってくれ! 今日も、私の奢りだから!!」
ミラはクランクの境遇があまりにも不憫に思え、メニュー表を押し付けるように渡した。
そのテーブルに、トンッと、香ばしい一皿が置かれた。
「餃子、サービスです。食べて下さい。試作品の、青紫蘇餃子です……」
ラルフが盗み聞きしていたことを露呈しつつも、クランクに餃子を勧めた。
あのような清貧な環境で、よくぞあれほどの剣士になったものだ。そして、それは彼の弛まぬ努力の証だと感じたのだ。
「あ……、どうも。ありがとうございます……」
戸惑うクランク。
実のところ、メニューの多さに何を注文すれば良いか悩む彼にとって、こうして勧められるのはありがたいことだった。
しかし、ミラがとんでもないことを言い放つ。
「私は、毎日ラーメンでもいいがなっ! ハッハッハ!」
ラルフは、彼女の健康面が猛烈に心配になった。しかし、他の騎士たちも同調する。
「そうだよなぁ! ラーメンってさぁ、麦、肉、野菜、スープって、その一杯が完璧な食事だよなぁ?」
「その通りだな。これさえあれば、生きていける!」
騎士たちの無邪気な"完全食論"に、ラルフは心の中で盛大なツッコミを入れる。
(ラーメンって、僕の前世では、不摂生の代表だぞ!)
しかし、よくよく考えてみると、あながち間違ってはいない気もした。
炭水化物、たんぱく質、食物繊維。確かに人間のエネルギー源としては充実している。ラルフの前世にも、"完全食"という概念は存在したが、このラーメンという料理は、それに近いポテンシャルを秘めているかもしれない。
だが、懸念材料がある。それは——
「あのなぁ、ラーメンは塩分も多いし、脂質も多い。それに、ビタミンやミネラルが不足しがちになるから……」
ラルフが説明すると、ミラは首を傾げた。
「むっ? マスター、そのビタミン? ミネ……、なんなのだ、それは?」
やはり、この世界の住人にとって、ラルフの前世の一般的な栄養学は常識ではないらしい。
ラルフは、意を決して、とある一杯の飲料をミラの前に置いた。
「ヒトは、ラーメンのみに生きるに非ず。"青汁"でも飲まないと、栄養が偏ってしゃーない……って話だ」
真緑色の液体が満たされたグラス。
それは、ラルフと錬金薬学のエキスパート、アルフレッドが共同開発した、大麦若葉や薬草、果汁などをブレンドしたもの。ラルフの前世の、機能性表示食品の代表格、"青汁"だった。
ミラは、恐れおののき、その草の煮汁のようなドリンクを凝視する。しかし、彼女は震える手でグラスを掴み、くんくんと匂いを嗅いだ。それほど嫌な匂いはしなかったらしく、彼女は意を決して、それを飲み干す。
しかめっ面をしながら、最後の一滴まで飲み干したミラは、次の瞬間、まさかの言葉を発した。
「うぅぅぅぅぅ〜。マズイぃぃぃ! ……もう一杯!!」
何故か、"おかわり"を所望する。
どうやら「良薬は口に苦し」という概念はこの世界でも共通なようで、彼女なりに不摂生を気にしていたのかもしれない。
青臭さと、爽やかなフルーツの後味は、妙な習慣性を秘めていた。
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そんなこんなで、時が経ち。
いつしか、強くなりたい騎士や冒険者の間で、「ラーメンは、完全食であって、強くなる為には必須の食事である!」という噂が、まことしやかに囁かれ始めた。
そして、ある夜。居酒屋領主館のテーブルで、ミラ・カーライルは、
「やはり、一周回って、あっさり醤油ラーメンと、餃子と、チャーハンが至高だな!」
と、急に原点回帰したことを宣言した。
一方、クランクはと言えば、
「鶏の水炊き鍋に、シメでチャンポン麺、トッピングに肉野菜炒めを合わせて、ラー油を少々……。これよ!」
と、仲良くなった冒険者ギルマスのヒューズのオススメがよほど気に入ったらしい。
どいつもこいつも、自らの"完全食の定義"を好き勝手に主義主張する。
そんな、この店に通う連中の言い分をラルフは無表情で聞いていた。
彼は口には出さないが、心の中で、盛大に呆れと諦めを含んだ、ツッコミを投げかけるしかなかった。
(うん。みんな、……好きに、生きろ……)
と。




