284.聖杯
女神リュシアーナは、存分に食らい、飲み尽くした。
「はぁ~。満足、満足……。いやはや、良き供物だったわぁ」
彼女は、椅子にもたれ掛かり、完全に気が緩んだ様子で、だらしなく爪楊枝を使い「しーしー」と歯の隙間を削いでいる。その姿は、遥かな神格を忘れさせるほどに、俗っぽい。
「また、いつでもご所望とあらば、このような席をご用意いたしますよ」
ラルフは、皮肉めいた提案を口にした。
「そ〜お? 悪いわねぇ。今度は、ラルフ君の『居酒屋領主館』に遊びに行かせて貰おうかしら?」
女神の口から飛び出した、とんでもない発言。
「もちろんです。ただ、なるべく目立たない恰好で、お忍びでなら、いつでも歓迎いたしますよ」
ラルフの脳裏には、女神までが常連客になったら、一般的な感覚を持つ客たちの心臓が、恐怖と畏敬で停止してしまう光景が浮かんでいた。
「さ……。名残惜しいけれど、そろそろ戻らなきゃね。ごちそうさまでした!」
リュシアーナは両手を合わせると、心底残念そうに立ち上がった。ラルフもそれに倣って立ち上がる。名残惜しいが、見送りの時だ。
「わざわざ、ご足労おかけしまして、ありがとうございました」
ラルフが深々と頭を下げる。
「いいのいいのっ! 久々に楽しかったし。こういうのなら、いつでも呼んでちょうだい!!」
女神は、満面の笑みを浮かべ、俗世の少女のように手を振った。
「では、またお会いしましょう」
「またねー、ラルフ君〜!」
その瞬間、彼女の身体がふわりと浮かび上がり、眩いばかりの聖光を放ち始めた。目が眩むような、すべてを洗い流す白一色が、見守る全ての人々の視界を染め上げた。そして、その光は、音もなく、あっという間に消えていった。細く立ち昇る残光も、やがて空の青に吸い込まれていく。
「さてっ! 後の面倒くせー始末は、"偉い人達"に任せて。僕らは帰ろうか!!」
ラルフは、さっぱりとした顔で振り返った。
しかし、聖教国の神官たちは、なぜかまだその場に膝を突き、頭を垂れたまま動かない。女神様はすでに天へと帰られたはずなのに。
ラルフは、怪訝に思い、周囲を見渡す。そこにあるのは、荘厳な大教会と、晴れ渡る空、そして清かな風が一陣吹き抜ける音だけだ。
もう一度、神官たちを見たとき、ラルフは、最悪の可能性に気づいた。
「あ、あの? 皆さん……その、何してるん、ですか?」
彼の心臓に、嫌な予感が冷たい水のように流れ込む。
すると、一人の神官が、震える声で告げた。
「せ、聖人様。……どうか、我らが聖教国を、正しくお導き下さい……」
聖人――誰の、ことだ?
一瞬、ラルフは現実から意識を遠ざけそうになった。しかし、わずか数秒で論理は彼を捉えた。
(あっ、僕のこと……か)
ラルフは天を仰いだ。絶望的なまでに、青く、高い空だった。
当然だろう。女神とまるで旧知の飲み友達のように気さくに接し、俗っぽい話題で笑い合うことのできる人物。それが、聖人、いや、使徒と呼ばれずして、何と呼ばれよう。
「ちょっと! ヤメてよ!! 起きて、頭を上げて!! おいおい!! 皆の者! 面を上げよ!!!」
ラルフは、慌てて一人の神官の腕を掴み、無理矢理立たせようとする。
しかし、その試みは無駄だった。
「聖人様……」
「使徒様……」
「そうか。彼は侵略者などではなかったのだ……」
「そうだっ! かのラルフ・ドーソン魔導士は、この聖教国を正しく導く為に、女神様が遣わされた使徒様だったのだ!!」
聖教国の人々に、なんだかとんでもない"真実"が、感動と狂熱を伴って駆け抜けていく。
「ちょっと待てぇぇぇぇぇっ! 祈るな! 僕に祈るな!! 僕はただの人間だからっ!!!」
ラルフは、混乱と焦燥で顔を真っ赤にして慌てふためく。
その様子を冷めた目で見ていた、ロートシュタインの人々は、(まったく、しょーがねーなー……)と、彼の型破りさをよく知っているがゆえに、呆れ笑いを浮かべるしかなかった。
「聖人様になったら、また金稼ぎのネタになるんじゃない?」
エリカは、にやりと悪辣に微笑んで提案する。
「バカヤロっ! 信仰心を利用して営利目的に走るなんざぁ、ただの詐欺師だろ?! だいいち、僕は敬虔な信徒ですらないんだぞ……」
とラルフは憤慨するが、
「女神様を気軽に呼び出して、居酒屋メニューを献上できる奴が、普通の人のわけねーだろ」
と、ファウスティンはどこか面白そうに笑った。退魔師として、教会や神に仕える彼の身からすれば、ラルフの存在は、常軌を逸した異常性を持つと理解していた。
その言葉を聞いた瞬間、ラルフの顔は青ざめた。そして、
「うがぁぁぁぁ! どうしてこうなった?!!」
と、彼は頭を掻きむしり、魂の底からの絶叫を上げた。
その叫びを聞いたロートシュタインの人々は、一様に、同じ言葉を脳裏に浮かべた。
(どうしてって、自分のせいだろ……)
と。
毎度毎度、この愛すべき領主は、何かちょっとした思い付きや善意で行動を起こす度に、誰も予想できない"大騒動"へと発展させてしまうのだ。
まあ、それを肴に飲む酒が美味いので、ロートシュタインの人々は、何も言わないでおくことにしている。
「ま、とにかく! もう片付けようぜ。皆も手伝ってくれ……」
ラルフは、女神との会食で使ったテーブルの上を片付け始めた。新米聖女のヘストナも、率先して皿を運び始める。
その最中、ラルフはふと、女神様が使っていたぐい呑みを手に取った。それは、彼が自作した、土の塊ともいえる不格好な陶芸作品だ。
それをマジック・バッグに仕舞おうとした、まさにその時だった。
「あっ!!! あの、あ、あの、そ、それを……」
一人の神官が、慌ててラルフに対して何かを言い募ろうとする。
「ん? 何? どうしたの?」
「そ、その杯を、そのぅ……。大教会に、献納して頂くことは……できませんでしょうか?」
ラルフは、目を見開いた。
これを? この、不格好な、素人作のぐい呑みを?
すると、何人かの神官がラルフに駆け寄り、地面に額を擦り付ける。
「どうか! どうか! その"聖杯"を、我ら大教会に!!!」
彼らは、心からの懇願を始めた。
「はっ? これが……?」
聖杯。
確かに、これに女神様は口を付けて酒を飲んでいた。
ならば、これは、もはや立派な聖杯と言えるのかもしれない。
かつてオークションに出したが、値がつかなかった、こんなモノが。
ラルフは、その時の悔しさと、こんなモノが「聖杯」という最上級の価値を付与されてしまった面白さという、複雑な感情が胸に去来するのを感じていた。
「どうかっ! どうかっ!!」
尚も懇願する神官たち。
その瞬間、ラルフは、極めて悪辣で邪な思い付きが脳裏に閃いてしまった。
彼は、口元を三日月のようにニタリと歪め、極めて最低な一言を口にした。
「ふ〜ん? ……で、いくら払うの?」
凶悪な笑みを浮かべ、神官たちを見下ろす。
「バカヤロ……」
呆れと同時に、ラルフの頭頂部に、トンっ! と、ファウスティンは鋭いチョップを落とした。




