283.女神の宴
超特急で運び込まれた質素な木製の椅子とテーブル。神官たちは、慣れない重労働に、まるでヒーコラヒーコラバヒンバヒンと音を立てるかのように、息を切らし、額に脂汗を滲ませていた。
仮設のテーブルを挟んで向かい合うのは、公爵ラルフと、女神リュシアーナ。
場所は、荘厳な大教会と聖都を渡す石橋の上だ。
そして、テーブルの上には――。
「うっわぁぁぁぁぁっ、たまんないわねぇ! ここは天国かしら?」
女神は、その俗世の光景に目を輝かせた。
すると、ラルフは、その熱狂を鎮めるかのように、静かに答えた。
「いいえ、ここは地上です。女神様」
テーブルには、ロートシュタイン名物である屋台の美食が、所狭しと並べられていた。
フランクフルトの香ばしさ、ヤキソバの濃密なソース、だし染みるおでん、キュウリの一本漬けの清涼感。そして、ニンニクとホルモンの味噌炒めの誘惑、キノコたっぷりのピッツァの豊かな香り、塩茹でトウモロコシのほのかな甘み。どれもこれもが、極上の一杯を誘う、至高の肴であった。
これらの品々を買い集め、汗だくで準備を整えた神官たちへ、リュシアーナは優雅に手をひらひらと振った。
「皆の者達、よくやったわね。ご利益があるわよ〜!」
本物の神からの言葉は、彼らにとっては耐えがたいほどの祝福だったのだろう。数名の神官は、喜びと畏怖で膝を震わせた。
「まあまあ、まずは腹ごしらえを。僕も、もうお腹空いちゃって……」
ラルフが促す。
「そうね! では、あのいつものヤツね?」
女神は、何処で覚えたか知らないが、両手を合わせた仕草をする。それを見て、ラルフは深く頷き、声を上げた。
「あー。じゃあ、いきますよ? せーのっ!」
「いただきます!」
二人の声が、神聖な橋の上に俗っぽい谺を返した。
そして、猛然と、女神リュシアーナの美食の時間が始まった。
「ムシャムシャっ……これ、美味しい! なにこれ、茹でただけなの? こんなにトウモコロシって美味しいんだぁ! 甘~い!!」
無垢な喜びを露わにしながら、彼女は氷のたっぷり入ったハイボールをゴクゴクと飲み干す。
「今、マヨコーンピザも作らせていますから」
ラルフはそう言いながら、一本漬けのキュウリを豪快に齧った。その食感は、緊張した空気をいくらか和らげる。
「なにそれ?! モグモグ……絶対に美味しいに決まってるでしょ。ラルフく〜ん、女神を堕落させてどうする気ぃ〜? もう、罪深い子なんだからぁ~」
リュシアーナは、キャッキャと子供のように笑う。どうにも、彼女の神格は、冗談を愛する、人間味のある俗っぽい性格のようだ。
「おでんもどうぞ。熱いうちが華ですよ」
「あっふ、あっふっ! うま〜!!」
熱を逃がしながら、ちくわを咀嚼する女神。そして、その手が空になったグラスを差し出した。
「ハイボールおかわり〜!」
その声に、一人の神官が緊張で顔を青ざめさせながら、ウイスキーと炭酸水を混ぜ合わせる。極度のプレッシャーから、マドラーがグラスの縁でカチカチと不規則なリズムを刻んだ。震える手で、どうにかそれを女神の御前に置く。
「お、お、お待たせいたしました。リュシアーナ様……」
「苦しゅうない、苦しゅうない! 貴方にも、私のご加護を……」
女神は軽く告げる。すると、神官の男は、そのままバタリ、と意識を失った。本物の神の祝福とは、彼にとって、まさに天に昇るほどの感動だったのだろう。
「おーい! 救護班ー!」
ラルフが岸辺に向かって声をかけると、冒険者が担架を持って駆け寄ってきた。
「貴方達も、食べたらいいのにぃ?」
女神は神官たちに、無邪気に提案するが、彼らは困惑し、ただ汗を流すばかりだ。
「皆も、食ったら?」
ラルフも周囲のロートシュタインの人々に勧めるが、彼らもまた、冷や汗を流し、遠巻きに二人を見ているだけだった。
当然のことだ。
神様と会食など、不敬という言葉では済まされない。それは、畏れ多いどころか、自らの存在の境界線を越えて、神話の世界に片足を突っ込むに等しい行為だった。
女神もラルフも、不思議そうに見渡すが、誰も動かないことを悟ると、結局、二人だけのささやかな宴に興じた。
やがて、その語らいは、自然とこの聖教国の在り方、そして永年教皇の座に、サキュバスという魔の者が就いていたという、重大な核心へと移り変わっていった。
「しかし、守護聖女という制度。あれは、ひどすぎやしませんか? 幼い少女の命を削りながら、守護結界を維持するなど」
ラルフは、正面から切り込んだ。
「私も、そう思っていたわよ〜」
「じゃあ、なんで止めなかったんですか?」
女神は、咀嚼していたフランクフルトをハイボールで喉元へと流し込んだ。そして、グラスを置くと、その瞳に真剣な光を宿した。
「ラルフ君なら、わかるでしょう? 私たち神が、下界の物事に直接的に手を出すのは、極力避けるべきことなの。それはね、『ヒトの自由意志』を何よりも尊重しなきゃならないからよ。ヒトは、自分自身で考え、悩み、その上で自分の生きる道を選ぶべき存在。たとえ、その選択が『間違い』に見えたとしてもね」
ラルフは、静かに反論した。
「しかし、多くの不幸が起きてしまったのですよ……。あまりに、多くの犠牲が……」
「わかってる……。だけど、その道の果てで、彼らが本気で悔い改め、再び立ち上がろうと祈るなら話は別。その切実な祈りだけは、無視できない。だからこそ、私たちは『奇蹟』という形で、ほんの小さなきっかけを、そっと手渡すことしかできないのよ」
女神は、その神としての限界を、切実に告白した。
ラルフは、グラスに張り付く水滴を親指で拭った。
「なるほど……。神様も、あまり自由はないみたいですね~」
彼は、嘆息にも似た息をついた。
「そっ! 公爵であるラルフ君の方が、よっぽど自由よ!」
「そうなんですかねぇ〜」
ラルフは、椅子をギシリときしませ、ロートシュタインの人々を振り返った。騒がしくて、どこか間抜けで、しかし愛すべき領民たち。あまりに大きなしがらみの中に身を置いている気はするが、それでも、この日々を楽しく思っているのも事実だった。
「だけど! 歴代のかわいそうな聖女達の魂は、ちゃんと私が転生先を見繕ってあげたわよ〜! それぞれ、転生先で楽しく新しい人生を歩んでいるわ!!」
女神様は、胸を張って言った。
ラルフはキョトンとした顔になり、思わずまた振り返った。
すると、彼の近くに立っていたファウスティンとスズも、同じように一瞬キョトンとした顔をした後、フッと、薄い笑みを浮かべた。輪廻転生を経験した者同士の間に流れる、無言の共感が湧き上がっていた。
「それにしても、永きに亘り、魔の者であるサキュバスが教皇の座に就いていたのは、どういうことなんですか? 守護結界とやら、本当に機能しているんですか?」
ラルフは、事の根本的な疑問を口にした。
「んんん~? あの結界って、迷宮封鎖に使われてるみたいよ〜」
「はっ? 迷宮?」
「うん。貴方達の言葉では、"ダンジョン"ね。この国に七つ存在する、穢れた迷宮を封じる為の術式結界よ〜」
女神のとんでもない発言に、ラルフは目を見開いた。すぐ近くにいた冒険者ギルドマスターのヒューズは、目元を押さえ、呆れたように盛大なため息をついた。その事実に気が付いたのだろう。
ダンジョンとは、魔獣が跳梁跋扈する穢れた領域であると同時に、数々の資源をもたらす宝庫だ。魔獣由来の素材、貴重な鉱物、そして食糧。
ラルフの治めるロートシュタイン領は、三つのダンジョンを有し、それを基盤に発展してきた、まさしく冒険者の聖地だ。
――魔力暴走、すなわちスタンピードという人類の脅威と隣り合わせながらも、その恩恵は人々の営みに欠かせないはず。
それを、この国は、七つも有していながら、封印してきた。
「……なるほど。やけに、さびれた国だとは思ってたけど、そういうことか」
ラルフは納得した。経済活動を封鎖し、農業を基幹産業とし、教会や荘園主を支配階級とするこの聖教国の在り方は、歪すぎる不自然さを感じていたが、その原因はここにあった。ダンジョンという穢れと脅威を排した結果、経済的な発展までも手放すことになったのだ。
「まあ、そういうのも、今日で終わりでしょう? ラルフ君、貴方のおかげでね!」
女神リュシアーナは、にこやかにウインクをした。
「……あ~あぁ。なんか、やっぱり大事になったなぁ。こんなつもりじゃなかったんだけど……」
ラルフは椅子にもたれ掛かり、どこまでも広がる青空に向かって、諦念の嘆息をついた。
「君、いつもそんな感じよね〜? まっ! 退屈しなそうな人生ね!」
女神は笑う。ラルフの、生来の面倒事に無自覚に首を突っ込んでいくその性格を、すべて見通しているかのように。
「で……。アイツ、どうします?」
ラルフは、ファウスティンが抱えている、生きた生首、偽りの教皇だったサキュバスをちらりと見た。その淫魔は、もはやすべてを諦めたような表情を浮かべている。
「その子も、ちょっとかわいそうな子ねぇ~。……こっちにいらっしゃい」
女神は言うが、首だけなので歩くことはできない。ファウスティンが恭しくその首を抱えたまま歩み寄った。
「僭越ながら、女神リュシアーナ様」
ファウスティンは、まるで供物を捧げるかのようにその首を差し出す。
「小さき魔の者に、祝福を……」
女神が手をかざすと、清浄な聖なる光がその首を満たし、そして、
ポンッ!
と、一瞬にして姿を変えた。おぞましい生首の姿から一転、二頭身の姿。ラルフの前世でいうところの、ゆるいマスコットキャラクターのぬいぐるみのような造形だ。
サキュバスは、思わず自分の身体を眺め回す。黒い角、小悪魔を象徴する尻尾、紫色の肌はそのままに、随分と愛らしい姿になってしまった。
「なんか、新生物が爆誕してしまいましたねぇ。さすが、女神様……」
ラルフは頬杖をつく。
小さくなったサキュバスは、首根っこをファウスティンに掴まれ持ち上げられ、冷汗をかいている。一応は赦された形だが、本能的な退魔師への恐怖は拭えないらしい。
「まあ……。幸せになる権利は、誰にも平等にあるのよ。その為に、私がいるんだもん……」
女神はそう言って、ハイボールのグラスを掲げた。
これにて、一件落着。――だと思いたいラルフであった。
こんな面倒事は、もうしばらくはごめんだ。早く、故郷のロートシュタインに帰りたい。
そう思うが、
まあ、帰ったところで、居酒屋領主館に集う者たちが織りなす騒がしさは、変わらないだろう。
ラルフは、諦念の笑みを浮かべた。
すると、女神様は、
「ねぇ? マヨコーンピザ、まだかしら?」
と、本日何杯目かわからないハイボールを飲み干し、まだ見ぬ美食にソワソワと身を揺らした。




