282.降臨
聖教国の人々にとって、それは紛れもなく奇祭の域を出ない、珍妙な儀式であった。聖女三人と、屈強なドワーフ達が繰り広げた「蒸留盆踊り」は、今、終幕を迎えようとしていた。
ドツツクタタタン♪
エリカが叩くパンデイロが、クライマックスを示す一際大きなフィルインを奏でる。その音に合わせて、円陣の舞は、見事に息の合った、間抜けな締めのポーズでピタリと止まった。片脚を軽やかに上げ、両手を斜めに開く――優雅さとは程遠い、滑稽な、しかし完遂された形。
新米聖女のヘストナ・ヴァールは、その羞恥に頬を真っ赤に染めながらも、生来の真面目さで、この謎めいた舞を完璧にやり遂げた。
傍らで弦楽器を抱えていたラルフ・ドーソンは、この一連の流れを見て、どうでもいいことに気が付いてしまった。
(なんか、振付け、変えた……?)
何の意味があるのか、そして誰の差し金なのか、まるで理解できない。しかし、その僅かな変化を捉える観察眼だけは、相変わらず無駄に冴えていた。
「よっしゃぁ! 結構上手くいったんじゃないですか?!」
興奮気味のトーヴァ・レイヨンが、円陣の中心に鎮座していた樽に駆け寄る。聖なる光に包まれ、蒸留魔法の熱を受け続けた酒は、嵩は減ったものの、そこには強烈な酒精と、豊潤で力強い穀物の香気が凝縮されていた。鼻腔をくすぐるその香りに、ドワーフの一人が感嘆の声を漏らす。
「こりゃぁ、ロートシュタインで造ったモノとも違う、面白い香りだなぁ」
この新しい酒の持つ、独特の個性。それこそが、ラルフが求めたものだ。
「そりゃあそうさ。この酒には、トウモロコシも使われているからな!」
ラルフは不敵な笑みを浮かべた。
この蒸留前の酒は、聖教国のある農奴が密かに造っていた、密造酒。原材料は、数種類の麦と、トウモロコシ。
それは、ラルフの前世の記憶が呼び起こす、"バーボン"という名を持つ酒が、この異世界に誕生した瞬間を意味していた。
しかし、彼の目指すモノには、まだ一つ、決定的な要素が欠けていた。
「よ~し! パトリツィア! よろしくー!」
「任せなさい!」
炎の精霊使いであるパトリツィア・スーノは、得意の火魔法を披露した。
もう一つ用意されていた空のオーク樽の内部へ、熱した炎の舌を慎重に滑らせ、内側を丹念に焼き焦がしていく。
「おし! 移し替えるぞぉ!」
「おおっ!!」
屈強なドワーフ達が、先ほど蒸留されたばかりの無色透明な酒を、その"焼かれた樽"へと、慎重にかつ迅速に移し替える。
「ラルフさまぁ! お願ぇしやすぜ〜」
ドワーフの祈るような眼差しを受け、ラルフは腕まくりをしながら樽に近づく。
ここからが、大魔導士ラルフ・ドーソンの、真骨頂であった。
両手を樽にかざし、体内から湧き上がる魔力を練り上げる。淡い光と、魔法によって生じた微かな風が、周囲の空気を震わせ始めた。
「《時間経過》」
彼がそう静かに唱えた瞬間、樽全体が眩い光に包まれた。
時間を操るという、この世界で彼以外に運用できる者がいるか怪しい、最高位の魔法。その光景に、誰もが固唾を飲んで見守る中、ラルフから意外な弱音が漏れた。
「……んんん~。ちょっと、誰か手伝えない? 魔力が足らないかも……」
さすがの大魔導士をもってしても、数年分の熟成を短時間で再現するこの魔法は、彼一人の魔力容量では厳しいようだった。
その時、透き通る、まるで天使の歌声のような、幼い旋律が響き渡った。
「雨上がりの大地に〜♪ 祈るように〜♪」
新米聖女、ヘストナ・ヴァールだった。
彼女は両手を組み、祈りを捧げるように、その清らかな歌声を響かせる。
その旋律は、彼の魔法を後押しするかのように、静かに、しかし力強く空間に満ちていった。
「凍てつく風の中ぁ〜♪ 願うように〜♪」
次に、マルシャ・ヴァールがその歌声に加わった。二人の声は完璧な調和を生み出す。
そして、トーヴァ・レイヨンもまた、二人にならい手を合わせ、ハーモニーに加わる。
「また巡り巡る季節に、待ち侘びているから〜♪」
「花咲く丘の上で、また会いましょう♪」
三人の聖女が歌い上げるのは、聖教国の雄大で荒涼とした大地の中で、慎ましくも逞しく生きてきた人々の営みを想起させる、どこか物悲しくも晴れやかな聖歌だった。
「おおおぉ!!! こりゃぁ、スゲェ!」
三人が織りなす聖歌は、強力な"バフ効果"として、ラルフの魔法を後押しした。彼の両手に降り注ぐ魔力光は、先ほどまでの弱々しいものではなく、まるで小さな太陽が爆発したかのような、白く、圧倒的な輝きを放ち始めた。
そして、
眩い光が収束した後、周囲は一瞬の静寂に包まれた。時を操る大魔法の余韻が、空気の粒子一つ一つにまで染み込んでいるかのようだった。
「……完成したのね……」
トーヴァが、恐る恐る、焼き樽の中を覗き込む。そこに揺蕩っていたのは、もはや無色透明な蒸留酒ではなかった。
数年分の時を圧縮し、樽の焦げた内壁から香りと色を奪い取った液体は、琥珀のように、あるいは溶かした蜂蜜のように、深く美しい黄金色に変色していた。
それは、ラルフの魔法と聖女三人の聖歌という、力業としか言いようのない奇蹟によって生み出された、この世界に類を見ない"新しいウイスキー"であった。
トーヴァ、マルシャ、そして酒を愛するドワーフ達は、目の前の琥珀に釘付けとなり、辛抱たまらず涎を垂らす。その衝動を、ラルフは穏やかな手つきで制した。
「まあまあ、待て待て。最初の一杯は、女神様に献上する分だから……」
その言葉に、彼らは一斉に諦念の息を吐いた。女神への献上。その大義名分を聞かされては、酒への欲求も引っ込めるしかない。なぜなら、これから行われるのは、この酒を"餌"にして、文字通り女神を降臨させるという、ラルフ・ドーソンらしい、傍若無人にして前代未聞の企みだったからだ。
そして、ラルフは澄み渡る青空に向かって、全身の魔力を込めて叫んだ。
「女神様ぁぁぁぁぁぁ! 美味しいお酒、できましたよぉぉぉぉぉ! どうっすかぁ〜! 一杯ぃ?!!!」
その声は、広大な青天井へと吸い込まれていく。
人々は、その光景を呆然と見上げていた。
(……また、なんか、思ってたのと違う……)
厳かで荘厳な儀式を想像していた聖教国の面々にとって、まるで飲み友達を誘うかのような、フランクでカジュアルな誘い文句は、あまりに不謹慎で、彼らの信仰心と常識の境界を激しく揺さぶった。これで本当に高位の存在が応えるのか? という不安が、冷たい汗となって背中を伝う。
しかし、その不安は一瞬で驚愕に変わる。
大教会の尖塔の遥か上空に、白く、目が眩むほどの光の塊が現れた。
誰もが息を呑み、驚愕に眼を見開く。
その光はゆっくりと、ゆっくりと、ラルフ達のいる石橋の上へと降下し始めた。
正真正銘、――女神の降臨であった。
女神リュシアーナは、肉体を持たない最高位の精神体であり、受肉しない限り、人の肉眼に物質的な像を結ぶことはない。しかし、その存在は、人々の脳裏に、精神に、確かに「そこにいる」ものとして知覚された。そして、それは見る者それぞれの信仰心と魂の形を映し出すかのように、異なる姿となって認識された。
敬虔な信徒達には、至高の美と神々しさを湛えた、慈愛深い母なる存在として。
若い男達には、全知全能の光を纏った、究極の美貌の持ち主として。
そして、罪深い邪な者にとっては、強大で恐ろしい裁定者として――。
「は、はっ……。はぁ……。め、女神、リュシアーナ様……」
神官達は、恐怖と畏敬の念に震え、過呼吸に陥る者まで現れた。彼らは最高の敬意を表すため、一斉に石畳に額を擦り付ける。
「あ……、あぁ、ああ〜」
首だけの姿でファウスティンに抱えられていたサキュバスは、その神聖な光を浴びながら、自らの運命を悟り、絶望に打ちひしがれた。この小悪魔など、女神の御前では塵芥に等しい。
しかし、この場に、一人だけ、女神の姿をちょっと違う風貌として認識している人物がいた。
大魔導士ラルフ・ドーソンである。
彼にとって、酒好きな「駄女神」といえば、前世で愛したアニメに登場する、どこか愛らしく、時に残念な、青髪の美少女キャラデザに酷似した姿として、リュシアーナは知覚されていたのだ。
そして、女神は地上に降り立つ。
「いや〜、いつも悪いわねぇ。ラルフく〜ん! 新しいお酒造ったんだってぇ! いゃ〜、楽しみだな〜」
その声は、天上の存在に相応しい威厳ではなく、ただの"酒飲み友達"のそれだった。青い髪を揺らし、両手で頬を押さえ、クネクネと身悶えする女神。
「いえいえ! いつもお酒を献上しているのは、聖女たち、トーヴァとマルシャですから……」
ラルフが二人の聖女を指差すと、畏れ多い状況に耐えかねた聖女三人は、一斉に膝から崩れ落ちて額づいた。
「でも〜。ラルフ君がいなきゃこの世界に美味しいお酒がなかったわけだしぃ……。本当に感謝してるのよん!」
女神はウインクをしながら感謝を伝える。その仕草は、完全に年頃の可愛らしい少女のそれだった。
「楽しんで頂けてるなら何よりですよ! まあ、でも。もっと色々、もっと美味しい酒を造ってみたいんですけどねぇ」
ラルフの言葉には、謙遜ではなく、飽くなき探求心が見え隠れする。
「まあ、しょうがないよねぇ〜。なんたって、ラルフ君の、……前は、かなり豊かな世界だったわけだしぃ〜」
大勢の人間がいる中で、女神は言葉を選び、ラルフの「前世」についてはぼかして発言する。その配慮が、彼にとっては"気遣いのできる駄女神"として認識された。
「まあ、それより。どうぞ! 味見してみて下さい。多分、美味くできたと思いますよ!」
「いゃ〜ん! 楽しみぃ〜」
再びクネクネと身悶えする女神。
周囲の信徒達は、畏れ多さのあまり額づいたまま、冷や汗を流しながら、二人のやり取りをチラチラと窺い見る。
(いや! 本当にそれでいいのかよっ!!!)
脳内では警鐘が鳴り響く。最高位の存在である女神に対し、ラルフの態度があまりに軽すぎる。
だが、当のラルフと女神は、まるで旧知の友のように和気藹々としており、誰もツッコミを入れることすらできない。
「あっ! ヤベっ、グラスないや……」
ラルフはマジック・バッグを漁り始めた。
「なんでもイイわよぉ〜。なんなら、樽ごと飲もうかぁ?! キャッハッハッハ!!」
女神は冗談を飛ばすが、周囲の反応はいまいち。なので、新米聖女ヘストナの顔を覗き込むと、彼女はビクリと身体を震わせ、滝のような汗を流しながら目を逸らした。
「すみません。コレしかないんですが、良いですか?」
ラルフが取り出したのは、彼が自ら手捻りで作った、無骨な陶器のぐい呑みだった。小振りの湯呑みほどの、決して洗練されたとは言えない作品。
「イイわよぉ〜。んん? コレ、ラルフ君が作ったのぅ? なかなか味があるじゃな〜い!」
女神は、それを手に取り、クルクルと品定めするように眺めた。
「ありがとうございます……。オークションに出したんですが、買い手がつかなかったヤツなんで、僕の普段使いにしてるんですよ〜。トホホ……」
ラルフは肩を落とすが、
(そんなモノを女神様に使わせるな!!!!)
敬虔な信徒達の脳裏には、悲鳴と怒りの声がこだまする。しかし、当人たちは気にしない。
ラルフは樽を覗き込み、琥珀色の液体をそれぞれぐい呑みに掬い上げた。
「よっしぁ! じゃあ、そろそろ、僕も飲んでいい頃合いかなぁ……」
一悶着二悶着に備えて我慢を続けてきたラルフが、ついにこの日の一杯目を口にすることを決める。
「イェーイ! イイじゃない! 私、あれやってみたかったんだぁ! カンパーイ! ってやつ!」
ぐい呑みを手にした女神様は、年頃の娘のようにはしゃいだ。もしかしたら、普段、天上におわす彼女は、案外孤独なのかもしれない。ラルフはそう思った。
「では! 新しい酒の誕生を祝って。カンパーイ!!」
「カンパーイ!!!!」
橋の上、青空の下。こんなにもざっくばらんに、神と人類が祝杯を交わす――周囲の人々は、何かとんでもない歴史的一幕に立ち会っている気がしてならなかった。
そして、当の二人は。
「あああぁ! 凄い、これは、間違いなく、バーボンだわ……」
ラルフは天を仰ぐ。
「うはぁぁぁぁあ! 強い! けど、ちょっと甘い!! これ、絶対にハイボールも合うでしょ!!」
だらしなく顔を赤らめる女神様。その判断は、ラルフの前世の知見と完全に一致していた。
「炭酸なら、すぐに用意できますよ」
ラルフが応じると、女神はさらに身を乗り出した。
「わーい! ねー。なんか、オツマミないのぉ? ラルフ君の料理、いつも食べてみたかったんだぁ!」
真っ昼間から晩酌モードに突入した女神様。そのリクエストに、大教会の神官達はついに狂乱した。
「りょ、料理をお持ちしろっ! 屋台から、ありったけ買ってこい!!」
「な、な、何がいいんだっ?!」
「あっちの、フランクフルトってやつが、死ぬほど美味かったぞ!」
「いやいや、あっちのヤキソバが!」
「なんでも良い! 美味いモノをお持ちしろ!!」
「椅子とテーブルも持ってこい! 女神様を立ち呑みさせておくわけにはいかんだろっ?!!」
神官達は、格式も威厳もかなぐり捨て、ドタバタと宴の用意に奔走する。
ロートシュタインから未知の美味を伴ってやってきた多くの屋台には、女神様をもてなすに相応しい料理があるはずだと、金貨を握りしめた人々が走り出した。




