281.聖女たちの帰還
ラルフ一行は、荘厳なる大教会の石段を降りた。
彼らの頭上には、歴史の重みをまといながらも、今や革命の熱気に包まれた聖都の空が広がっている。
大きな石造りの橋の中央に立つと、湖の岸辺は、もはや一つの巨大な市場と化していた。集まった人々は、ただの群衆ではない。それは、聖女解放という歴史的な革命の瞬間に立ち会うために集結した、熱狂と期待の波そのものだった。
ロートシュタインから持ち込まれた異国の屋台群は、甘い花蜜に誘われる蜂のように人々を引き寄せ、未知の酒と料理の香りが、聖教国の厳格な空気を打ち破ってゆく。それは、祭りの喧騒であり、同時に、一つの時代の終焉を告げる祝砲でもあった。
ラルフは、その橋の上で、深く、大きく息を吸い込んだ。胸いっぱいに吸い込んだのは、酒と肉の匂い、そして、民衆の高揚した熱気。そして、その喧騒を打ち破るかのように、彼の声が空気を裂いた。
「お~い! 聖女さま方ぁ、出番だぜ~!!」
その瞬間、喧騒が一瞬だけ、不自然に途切れた。
「えっ。聖女さま?」
「マルシャ様が急逝されて、次代の聖女さまの認定の儀は、まだではなかったのか?」
聖教国の人々は、顔を見合わせ、戸惑いのままに首を傾げる。彼らの世界の理では、今、聖女の座は空席のはず。しかし、その声は、現実に響いたのだ。
戸惑いの波紋が広がる中、三つの異なる場所から、静かな、しかし確かな動きが起こった。
まず、ある屋台の片隅。野菜の皮剥きを手伝っていた人物が、ゆっくりと立ち上がる。その者は、目深に被ったフードの陰に顔を隠し、表情を窺い知ることはできない。しかし、その立ち姿には、ただならぬ気配が宿っていた。
次に、反乱拠点の天幕裏。皿洗い作業に精を出していた小柄な人物が、ラルフの呼び声を聞き、急いで濡れた手を粗布で拭う。彼女もまた、フードで顔を覆い、素性を隠している。
そして、最も喧騒の中心に近い場所。そこでは、号泣する荘園主の頭をパシパシと乱暴に叩きながら、豪快に笑う人物がいた。荘園主と彼女は、テーブルを囲み、火酒をあおって、すでに千鳥足になるほど泥酔していた。その赤い顔は、革命の熱狂と酒の酔いで、爛々と輝いている。
大笑いする彼女の背後に、一つの影が差した。
「お姉ちゃん。私達の出番ですってよ!」
フードの人物が、冷静な声で告げる。
「んん~? あっれー? マルシャに、ヘストナちゃんもー。えぇ? もう出番なのー? 仕方ない。じゃあ、お父さん。この続きは、また後でね!!」
彼女は、泣きじゃくる荘園主――ロジオン・ヴァールに向けて、朗らかにそう声をかけた。
ロジオンは、顔を上げず、ただ手を振る。自分を気にするな、早く行け、とでも言うように。
そして、「じゃあ、行きますか!」と、彼女、トーヴァ・レイヨンは立ち上がった。
トーヴァは、ふらつきながらも大教会へと続く石畳を踏みしめる。
マルシャとヘストナも、フードを払いのけ、その素顔を晒して姉に続いた。
その光景を目の当たりにした聖教国の人々の間に、驚愕の渦が巻いた。
「えっ、う、ウソっ?! トーヴァ・レイヨン様っ!!」
「はっ? そんなはずは、いや! 嘘だろ?! 確かに、髪は短くなってるが、トーヴァ様だ!」
「えっ? だって、亡くなられたって。そう聞いたけど……」
「ちょっと待て! マルシャ様もいるぞ!」
「えっ! あっ!! ホントだ!!! だって二人とも、死んだんじゃ……」
驚きと混乱が最高潮に達し、人々の理性は麻痺した。その極限状態の中、一人の男が、非現実的な、信仰心に満ちた言葉を吐き出した。
「生き返ったんだ……」
それは、静かに、そして恐ろしい速さで、群衆に伝播していった。
「聖女さまは、黄泉の国より帰られた!」
「死を克服したのか……」
「復活だ……。古き伝承の通りだ……!!!」
彼女らの死が、単なる王国の特権階級による巧妙な偽装であることは、冷静に考えればすぐに分かりそうなものだ。
にもかかわらず、聖教国で生きてきた人々の心には、あまりにも純真無垢で、ロマンチックな信仰心が根付いていた。彼らは、目の前の現実を、神話的な奇蹟として受け入れてしまったのだ。
その熱狂を橋の上から眺めていたラルフは、細められた目で、深く、深く、呆れ果てていた。
(なんか……。ある種の箔が付いたというか、神格化してしまったっぽいな……)
彼の脳裏に、この「神格化」が新たな面倒事の種にならなければいいが? という強い不安が過ぎる。
その時、酒樽を二つ重ねた上に立ち上がったロジオン・ヴァールが、喧騒を突き抜くがなり声を上げた。
「聞けぇ! 聖教国の民よ! 今、この聖教国には、三人の聖女が存在する! このような事は、永き聖教国の歴史上初の事だ!!!」
「うぉー! そ、そうか?! そういえば……」
「ちょ、ちょっと待て! これは、どういう事だ? いったい、何がはじまるんだ?!」
人々は、酔いと謎の熱狂に包まれたまま、次の言葉を待つ。
ロジオンは、樽の上で、自らの信念を吐き出した。
「我が娘たち! トーヴァ、マルシャ、ヘストナは、悪しき慣習に囚われたこの国に、夜明けの光を灯す! そして……。この聖教国に、新たな栄光を!!」
荘園主ロジオン・ヴァールは、酔いで真っ赤になった顔を、涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしたまま、高々と盃を掲げた。
「栄光を!!!!!!」
人々は、本能的にそれに応える。
「もっと自由を!!」
ロジオンが再び吠える。
「もっと自由を!!!!!!」
もはや、それは制御不能な狂乱。歴史の歯車が、一気に回転を始めた瞬間だった。
「もっと酒をぉぉぉぉぉぉ!!! この革命に、乾杯!!!!!!!!!」
「酒をぉぉぉぉぉぉ!!!!! 乾杯!!!!!!!!!」
大地を揺るがすかのような祝杯の声が響き渡り、革命前夜は明けた。人々はグラスを一気に傾け、新たな聖教国の歴史の転換を、身体の芯から実感した。
橋の中央にまでやってきた、聖女三人衆。ラルフは、その中で最も赤ら顔のトーヴァを見て、嘆息を隠せない。
「おい……。トーヴァさんやぁ、その様子じゃあ、随分飲んだようだなぁ」
「ヒック……。だってぇ、お父さんったら面白いのよぉ。『私が悪かった赦してくれ〜』って……別に恨んでないしさぁ。……あっ! でも、欲しいものなんでも買ってくれるって言ってたから、最新の魔導車をお強請りしちゃった!!」
トーヴァは、酔いの勢いも手伝い、あっけらかんと爆弾発言を放つ。
それに対して、マルシャが猛然と抗議を始めた。
「ちょっ、ちょっとお姉ちゃん! 私も欲しいんだけどっ!! リネアさんの、"カブリオレ"、あれ良いなぁ〜、って私がずっと言ってたの知ってるよねー?!」
平和的な姉妹喧嘩――というより、高額な物欲の応酬が、革命の橋の上で繰り広げられる。
ヘストナは、顔を強張らせながら、恐る恐る姉たちに割って入ろうとする。
「あ、あのぅ……。今は、それどころでは、ないというか……」
しかし、トーヴァは、まるで彼女を叱りつけるように言い放つ。
「じゃあ! 貴女は、魔導車欲しくないの?!」
「あ……。"ロードスター"……。ちょっと欲しい……」
ヘストナは、モジモジと顔を赤らめ、物欲を告白した。
どうやら、遺伝っぽい……。
その様子を眺めていたラルフは、ハァ……、と盛大にため息をつき、心の奥底からの願望を吐き出した。
「もう、お前らなんでもいいからさぁ。さっさとやるぞー! もう、僕、早く終わらせて、ロートシュタインに帰りたいんだよぉぉぉぉ!」
こんな面倒事は、一刻も早く終わらせるに限る。
その時、エッホエッホ、という威勢の良い掛け声と共に、ドワーフ達が酒で満たされた巨大な樽を担いでやってきた。それを、橋の中央にドンッと、据える。
「ラルフ様ぁ、持ってきやしたぜー!」
「すまんねぇ。そんじゃあ、いつも通り、サクッと蒸留の舞をお願いしますわ! おーい、ソニアぁ! エリカぁ! お前らも出番だぞぉ!」
ラルフの呼び声に応じ、タッタッタッ! と軽快な足音を響かせ、吟遊詩人のソニアが弦楽器を抱え、エリカが片手で持てる打楽器を携えて、橋の上に現れた。
「ふぅ……待ちくたびれましたよぉ。もしかして、私の出番ないのかなぁ、なんて」
珍しく不満を口にしたソニア。
「あたしも、コレ、早く演奏してみたかったのよねぇ」
エリカは、ソニアの父親である木工職人が、ラルフの前世の知識から製作した打楽器――円形の木枠に金属のジングルを取り付けたパンデイロを、シャラシャラと震わせた。
ラルフもまた、マジック・バッグから、愛用の弦楽器を取り出す。
そして、まるで、厳かな神事でも始まるかのように、聖女トリオと、ドワーフ達は、橋の中央に置かれた酒樽の周囲に、均等な円陣を成した。
ラルフ、ソニア、エリカの演奏班は、一歩下がり、楽器を構え、その儀式のはじまりを待つ。
何が起きるのか――。
わけも分からず、聖教国の人々は固唾を飲んで見守った。
革命に相応しい、厳かで神秘的な景色が繰り広げられるだろうと、彼らは不安と期待で、酔いに朧気ながらも、張り詰めた緊張感だけはビリビリと察していた。
なのに……。
唐突に聞こえてきたのは、その静寂を破る、トーヴァ・レイヨンの素っ頓狂な掛け声だった。
「それでは! 聖なる"蒸留酒音頭"、いってみよぉぉぉぉぉ! 僭越ながら、皆々様、お手を拝借っ!!! あっそーれっ!!」
その音頭を合図に、演奏班から軽快で洗練された音楽が響き渡り、聖教国の人々が、文字通り別の意味で目を見開く、信じられない、理解し難い、目を疑うような儀式が始まった。
(なんか、……思ってたのと、違う……)
それが、彼らの共通した心理描写だった。
樽を中心に、陽気に舞い踊る聖女三人衆と、屈強なドワーフ達。
「蒸留〜♪ あっそーれ!! 蒸留♪」
偉大なる聖女の、なぜか愉快でバカっぽい歌声が、「革命」という歴史書の一ページに載るのか? と。先ほどの興奮と酔いが一気に醒めるような、あまりにも現実離れした、滑稽な光景が、今、この場所で繰り広げられていた。




