280.罪と罰
淫魔は、背に負う漆黒の翼を最大に広げ、風切り音を立てて大教会の天井へ向かって加速した。
目指すは、砕けた天窓の開口部。その向こうに広がる、自由の青、晴れ渡る大空の色こそが、現在の彼女の生存圏であった。
地上の大ホールを埋め尽くす不届き者――ロートシュタインから押し寄せてきた侵略者どもから逃れ、態勢を立て直すことこそが、目下の最優先戦略。
何十年もの歳月を費やし、教皇の位にまで上り詰めて自らの"人間牧場"として育て上げてきた聖教国を放棄するのは忍びない。
だが、こうなっては背に腹は代えられない。
「人間って、本当に不自由よねぇ。空も飛べないなんて」
眼下で騒ぎ立てる群衆を、彼女は紅玉のような瞳で嘲笑い、一直線に割れた天窓を目指す。
これで、人間は追って来まい。
眼前に迫る、晴れ渡る自由を前に――。
グンッ!
と、激しい衝撃が右脚を襲った。何が起こったのか理解できず、咄嗟に虚空で体勢を崩しながら振り返る。
「よっしゃぁぁぁぁあ! ヒット! ヒット!! 上手く掛けられたぜぇ!!!」
視線の先にいたのは、ラルフ・ドーソン。
彼は、黒光りするぶっっっっとい釣竿を、獲物の手応えに大きく撓ませていた。
「はぁぁ? ちょ、ちょっと〜! なによ? コレ〜!!!」
サキュバスは、自らの右脚に、半透明で虹色に光る細い糸が絡みついていることに気が付いた。
それは、まるで空気の振動のようにかすかに揺らめき、ラルフの持つ釣竿の先端に収束していた。
「ラルフっ?! さすがだ! よくやった!!」
ファウスティン公爵は、戦況をひっくり返した友人の手柄を、不敵な笑みとともに褒め称えた。その表情には、高揚と安堵の色が混じっていた。
「えっ?! ウザっ! 何これ、切れないんだけど〜!」
サキュバスは、翼を猛烈に羽ばたかせ、力任せに引き千切ろうとする。
さらには、鋭利な爪で切り裂こうと試みるが、その糸は、極めて頑丈にして、粘り気のある靭やかさを持っていた。
すると、ラルフは鼻息荒く、自慢気に胸を張る。
「無理無理! それは、ロートシュタインの怪魚、"ロットン君"を釣り上げる為に僕が開発した、"魔鉱テグス"だっ!! その気になれば、大海竜も釣り上げることができるぞぉぉぉぉ!!!」
雄叫びを上げるラルフ。
(そりゃあ、さすがに無理じゃないか?!)
ラルフをよく知る者たちは、心の中で、その言葉を疑う。
しかし、ふと、不安がよぎる。
この大魔導士は、しばしば常識という概念を打ち破る、規格外の魔導具を開発するのだ。もしかしたら、彼はまた、とんでもないモノを完成させたのかもしれない、と。
「いやぁぁぁ〜! や、やめ、やめなさいよ〜!!」
必死の形相で、サキュバスは悲鳴を上げた。彼女の身体は、ジリジリと、ラルフが軽快に操作する糸巻に引かれ、逃れようのない運命に逆らうかのように、地上へと引き戻されつつあった。
その時、唐突に、ある人物が口を開いた。
「任せて。ここからなら、射程距離……。きっと、"これ"が役に立つと思っていた……」
ダンジョン・マスターのスズが、音もなくラルフの隣に歩み出て、手にしていたモノ。それは、赤茶げた槍。先端は二股に分かれ、それが螺旋を描くように、そのまま持ち手に繋がっていた。
それを見たラルフは、目を見開き、絶叫とも言える鋭いツッコミをいれる。
「お前ぇ!!! なんてモノ作ってんだよぉぉぉぉぉぉ?!!! そ、それ、ロ、ロンギヌスの……」
ラルフが言葉を言い終える前に、スズは無言で、その槍を「ふんっ!」と、全身のバネを最大限に使い、投擲した。
槍は、赤い流星となり、虚空を切り裂いて、空中に吊るされたサキュバスの胸に吸い込まれた。
「ごふっ!」
紫色の血飛沫を上げ、その身体は投擲の恐るべき威力によって、背後に激しく吹き飛ばされ、大ホールの白亜の壁に、まるで蝶の標本のように串刺しになった。
すると、タッタッタッ! と、一陣の風のような助走が、石の床に響く。
「てぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
カーライル騎士爵が、ロングソードを構え、天高く跳躍する。
そして、一瞬の銀光。
串刺しになったサキュバスの首は、鋭い一閃によって斬り落とされた。
ドサァ! と、カーライル騎士爵は着地と同時に床を滑り、体勢を立て直す。少し遅れて、トサリっと、鈍く乾いた音を立てて、サキュバスの首が、白い石造りの床に転がった。
しかし――。
「も〜。ホント、嫌なんだけどぉ〜。なんで私だけ、こんな目に遭わなきゃいけないの〜?」
首だけになったサキュバスが、心底悔しそうに呪詛を吐いた。
壁に磔刑のように打ち付けられた身体は、もろい砂の城のように、真っ白な塩となり、サラサラと音を立てて崩れ落ちていった。
首だけになったサキュバスに、ファウスティン公爵が静かに歩み寄る。
水平二連魔導銃:スクリーミング・ディーモンを片手に、殺意を込めた目で、まだ生きている生首を睨みつけた。
「安心しろ。俺が今、"楽"にしてやる。どうしようもない飢餓感も、絶え間ない渇望も、もう貴様は感じる必要のない……。無に還してやる……。"魔の者"よ。……俺だけは、憐れんでやろう」
そう告げ、彼は生首に銃口を向けた。
すると、サキュバスは。
「やだよ……。ヤダぁ〜。これからは、おとなしくしますから〜。……もう、人間を騙したり、しませんから〜……。もう、イジメないで下さい……。私、私、……嫌だよ……。なら、なんで、なんで私、なんで生まれてきちゃったのぅ……。なんで、私、人間に嫌われるのぅ? もう、ホントに、嫌だょぉ……」
首だけになったまま、サキュバスはさめざめと、大粒の涙を流し始めた。それはまるで、分別を知らない幼子の懇願のようだった。
だが、ファウスティンは、退魔師として知っていた。この言葉は、嘘偽りか、あるいは、魔として生まれ持った直情的で利己的な性質であり、人とは永遠に
わかりあえない、反社会性なのだと。
だから、彼は容赦なく、引き金に掛けた人差し指に力を込める。
しかし、その時。
「……本当か?」
ラルフ・ドーソンが、ファウスティンの魔導銃に手をかけ、発砲を防いだ。
その行動に、ファウスティンは激昂した。
「ラルフっ! コイツに耳を貸すな!! その言葉は信用ならん! それは、俺が一番よく知っている! 魔の者は、心を持たない害虫だ! 排除するしかないんだよ!」
激昂するファウスティンに対し、ラルフは落ち着き払っていた。
「んんん~……。でもさぁ。なんか、ちゃんと、反省してるみたいだし……」
ラルフは、困ったように頭を掻く。
ファウスティンは、魔導銃に掛けられたラルフの手を乱暴に振りほどいた。
「なら、またコイツによる犠牲者が出たら、どうするつもりだっ?! コイツが?! 何年この聖教国で偽りの支配体制を敷き、人間を、食い物にしてきた? ……五十年だぞ! 五十年っ!! その間に、何人の尊い命が犠牲になったと思ってるんだ?!!!」
公爵同士の激しい睨み合い。
口を挟めず、ただ見守る、ラルフを慕うロートシュタインの民達でさえ、この議論においては、ファウスティン公爵が正論だと理解していた。聖教国を支配してきたサキュバスなど、滅するべき悪に過ぎない、と。
「いや……。まあ、そうなんですけどね……。でも、どうなんでしょう? 悪い事した奴は、永遠に赦されないの、かなぁ? なんて?」
まるで、バカな正義感――。
ファウスティンは、そう感じた。
だから、許せなかった。
「……なら、何故、俺にこの"銃"をくれたっ? 魔を退治するためだろう?!! 人間を守る為だ! 悪魔から、その不条理と不幸から、人々を守る為だろう?! 違うのか?!!」
ファウスティンは、怒りに燃える目で、ラルフの胸ぐらをつかみ上げた。
周囲の人々は、有能なメイドのアンナですら、冷汗をかき、二人の成り行きを見守るしかない。
ラルフは、首を吊るされるような体勢でありながら、なんだか、寂しそうな顔をしていた。
そして、
「……でも。仮にも、一つの命ですよ……。たとえ魔であろうと……。断罪として、その命を奪う権利が、僕ら人間に、本当にあるのでしょうか?」
ラルフは、ファウスティンの瞳をまっすぐに見つめ返した。
しかし、ファウスティンは、その優しさを断罪する。
「詭弁だ……。それは、単にお前の情けだ。自己満足の、心地良いエゴに過ぎない。……それにより、また人が死ぬ!!! その罪を、お前は背負う事になるのだぞ?! ラルフ・ドーソン!」
ラルフを突き放し、魔導銃を床に放り投げる。ラルフは数歩、たたらを踏み、魔導銃は石造りの床をカラン、カランと滑っていった。
すると、静かに。
まるで、清らかな水の流れのように、ラルフの口から、言葉が漏れる。
「……罪なら……。もう、背負ってますよ……」
水を打ったような静寂が、大ホールを支配した。
ファウスティンもまた、俯くラルフを見つめるしかない。ファウスティンも知っているからだ。殲滅の魔導士という二つ名の所以と、それに伴う業を……。
「贖罪か? ……しかし、それは、お前の甘さだ。ラルフ……。いつか、その甘さが、お前の命取りになるぞ……」
ファウスティンは、心の底から、友への忠告を吐いたつもりだったが――。
当のラルフは、
「ぷっ……。ブフっ! ……あーハッハッハッハッ!!! カッコいい!!! 『しかし、それは、お前の甘さだ。ラルフ……。いつか、その甘さが、お前の命取りになるぞ……』ってさぁ……。カッコ良すぎでしょ?! あー、僕も、いつか言ってみたいわぁぁぁ!!!」
ファウスティンの声色をモノマネして、ラルフは盛大に笑い出した。
ファウスティンは、それを怒るでもなく、ちょっと恥ずかしそうにしていた。
「ね〜? 私……、どうなっちゃうの〜?」
すっかり蚊帳の外に置かれていた、サキュバスの生首が、寂しそうに声を上げた。
「そもそも、裁きとは、神聖なる御名の下にのみ下されるべきもの。その御前に、この哀れな不浄なる者を引き出すことこそが、我ら退魔師の務めなのだ」
ファウスティンが、退魔師としての宿命と大義を語る。
なので、ラルフは、
「はぁ~。めんどくせっ! ……じゃあ、直接、女神様に聞いてみるか?」
と、信じられない言葉を、事もなげに吐いた。




