278.死の接吻
ラルフが重い瞼を開くと、
そこには、不可解で、呆れるしかない光景が展開されていた。
眼前に迫る、女騎士ミラ・カーライルのどアップの顔面。
陶磁器のように整った顔立ち。
妙齢の女性としての魅力に溢れているのは確かだが、彼女はなぜかぎゅっと両の目を閉じ、不自然に唇をすぼめている。その密着寸前の距離感に、理性よりも先に、ある本能的な不快感が湧き上がった。
(悪い気は……しない、どころか、むしろ歓迎すべき事態かもしれない。だが、これだけは譲れない!)
ラルフの身体が、意識とは関係なく動いた。
「ニンニク臭いっ!」
絶叫と共に、ラルフは本能のままにミラの顔面を片手で鷲掴みにした。
「むぎゅっ!!」
ミラの口から、情けないながらもどこか愛らしい奇声が漏れる。頬を握り潰され、顔全体がぐにゃりと歪んだミラは、茹でダコのように真っ赤になって固まった。
「おっ? 起きたか……。さすがは大魔導士。自力で精神支配の夢幻術から抜け出してくるとはな……」
事態の元凶の一人、ファウスティン公爵が、片手で魔導散弾銃を持ちながら、感嘆の声を漏らした。
「というか……、ミラっ! お前、一体、何しようとしてた?!」
ラルフの怒りの矛先は、真っ赤に熟したミラに向けられた。
「い、いやっ、その……。私は、その、皆に唆されてというか……。その、あるのだろうっ?! 魔法によって深い眠りに落ちた者が、愛する人の、その……く、く、口づけによって、目を覚ますという伝承が……!」
しどろもどろの釈明。その顔面は、もう熱を持つほどに真っ赤で、騎士としての威厳など微塵も感じられない。
ラルフの前世のロマンス作品に似た、古びた伝承がこの世界にも?
そう訝しんだラルフの疑問を、スズが即座に打ち砕いた。
「私が教えた。……そして、適任は、この状況と顔面偏差値から見て、女騎士さんしかいないと……」
「……お前なぁ……」
ラルフは天を仰ぎ、深く、長いため息をついた。
「……じゃあ、ファウストさんが良かった? それはそれで、私としては喜ばしいものがあるけど」
スズの放った、更なる地雷原に、ラルフは顔を青ざめさせる。
「わかった! わかったから!」
必死でスズを制止するラルフ。彼の脳裏には、ナイスミドルで厳ついファウスティンの顔が迫ってくる地獄絵図が浮かんだ。
ふと視線をやると、ミラの父であるカーライル騎士爵が、何故かちょっと残念そうな表情を浮かべている。
(恐らく、これを口実に、無理にでもミラとの婚姻話に持ち込もうと考えていたな?)
ラルフはそう推察し、再びため息をついた。
なによりも、家系ラーメンでも食った後であろう、ニンニク臭が漂う熱烈な接吻など、絶対に勘弁願いたすぎる。
周囲を見渡せば、駆けつけた冒険者達も、皆ニヤニヤと悪意のない笑みを浮かべ、事の成り行きを愉快そうに見守っていた。恐らく、彼らもミラをけしかけた共犯者なのだろう。
「……というか、教皇は? いや、サキュバスはどうした?!」
一転、ラルフは真剣な表情で周囲を見回す。
「安心しろ。かなり、弱体化させたぜ」
ファウスティン公爵が、銃口から硝煙を上げる魔導銃を横に構え、そう述べた。
床に横たわるボロ切れのような何か。
それは、ファウスティンの魔導散弾銃を何発も食らい、身体のあちこちに風穴が空き、肉体の一部が欠損した、おぞましい淫魔の姿だった。
しかし、その口調は、まるで痛痒を感じていないかのように軽薄だった。
「ケッケッケッ、あ~あ~。ホント、痛いんだけど……。どうしてくれんのよぉ? もう〜。これ、回復するのに何年かかるかしらぁ」
四肢の欠損すら些末な事のように嘆くサキュバス。さすがは悪魔の一種、その生命力は人間とは比較にならないらしい。
「回復なんてさせねぇよ。こんだけのことを仕出かして、タダで済むと思ってんのか?」
ファウスティンは、冷徹な視線でボロボロのサキュバスを見下ろした。
「あー。怖い怖い……。ねぇ、退魔師さん? 貴方なら私の力をどう有効活用できるか、知ってるんでしょ? ねぇ、お願い。貴方の望みはすべて叶えて上げるからさぁ。ちょっと今回は、見逃してくれないかなぁ……」
床に横たわりながら、サキュバスはニヤリと微笑を浮かべた。
それは、まさに悪魔の囁き。淫魔の持つ魅了の魔術は、他者に甘美な幻想を信じさせ、果ては魂まで支配する。だが、ファウスティンは動じない。
「ふん……。だから、貴様ら魔の者は、"憐れ"だというのだ……。人の心を、慈しみを知らんからだ。人間に憑り付き、奪うことだけが生存の理由となる貴様らは、永遠にそれを知ることはないだろうからな……」
ファウスティンは鼻を鳴らし、吐き捨てるかのように言い放った。
「ケッ、何がいけないのさぁ。結局、人間たちだって、欲望に忠実に生きたいだけじゃ〜ん。そこの男みたいに、"面倒臭いことは避けて、適当に生きたい"とか、あの女みたいに、"好きな男との間に子を成したい"、とかさぁ」
不服そうに言い募るサキュバスの言葉に、ラルフはハッと我に返る。
(あの女? そういえば……)
「そういえば、アンナは、……アンナはどこだ?」
不安を滲ませた声で、ラルフは周囲の者に問いかける。
「ラルフっ! アンナさんは無事だ!」
階段の上から、ヴィヴィアンの声が響いた。彼女の肩を借りるようにして、薄着のアンナが、頭痛をこらえるかのように片手で目元を押さえながら、ヨロヨロと階段を降りてくる。
ラルフは一歩踏み出し、足早に彼女達へ歩み寄った。そして、身につけていた魔導士のローブをバサリと首元から外すと、優しく包み込むようにアンナの肩にかける。
「大丈夫か? ここは僕達に任せて、外の天幕で休んでいろ」
心からの気遣いの言葉。しかし、アンナはそれを静かに受け流した。
「大丈夫です。少し、目眩がしますが……。お気遣いは感謝します、旦那様。でも、私も、最後まで、お付き合いします」
優秀なメイドとしての、誇り高き、勇ましいほどの視線がラルフにまっすぐに向けられた。
「ケッケッケッ……。あーあー、もう最悪なんだけどぉ。私の獲物、全部取られちゃったし……。ついてないなぁ、もう……」
まるで世界が自分中心に回っていると信じる幼子のように、サキュバスは不貞腐れた声を上げた。
「ラルフ……。実は、教皇の部屋に、もう一人神官らしき男が気を失っていたのだが、……その、とても、私がどうにかできる様子ではなく……」
ヴィヴィアンが、何か言いづらそうにラルフの耳元で囁いた。
「サキュバスの夢幻術は僕が術式を乗っ取って、再構築したはずだ。今ごろは、無に還元されてると思うが……」
ラルフは意識が回復する寸前に行った、精神世界での魔導ハッキングの成果を、わずかに自慢気に語った。
その時、階段の上から、狂気じみた叫び声が響き渡った。
「お、おおおおお! なんと、なんということだっ! なんということをしてくれたんだ?! この異教徒どもがぁ!!! 教皇猊下ぁぁぁぁあ!!!」
誰もがそちらを向く。
「うげっ、何、アイツ」
スズが目を逸らす。
下着姿の、でっぷりと肥えた老齢の枢機卿が、踊り場で薄い頭髪を掻きむしり、愛すべき教皇の変わり果てた姿に半狂乱になっていた。
「教皇猊下っ!」
男は階段を駆け下りようとするも、つまずき、無様にも階段を転げ落ちる。「ぶもっ!」と奇声を上げ、階下の石造りの床に潰れたカエルのように腹這いに倒れた。
その見るに堪えない姿に、ファウスティンは思わず侮蔑を込めた言葉を吐いた。
「なんだ? あの、ジジィは」
「貴様らぁ、貴様らぁ……。よくも、よくも、教皇猊下をぉぉぉぉぉ!! このお方は、私の母になってくれる人だったのだぞぉぉぉぉ!!!!」
憎悪に燃える言葉がラルフ達に投げつけられる。
ラルフ、ファウスティン、そしてスズは、顔を見合わせた。
目と口をまん丸に見開いた、間抜けな顔で、その驚愕を密かに共有した。
何故なら、彼らの前世の偉大なるアニメ作品の、カリスマ的人気を誇るキャラクターの台詞に酷似した言葉を、この現実世界で聞いてしまったからだ。
すると、大半の力を奪われたサキュバスが、まるで先ほどとは打って変わった、甘く、優しげな声色で呼びかけた。
「フェスター? フェスター? そこにいるの?」
「は、はいっ! お母様! 僕は、僕はここにおります!!」
枢機卿は、必死に、変化を解かれ半死半生となったサキュバスに、四つん這いのまま近づいてゆく。
「もう、本当に駄目な子ねぇ。私が困っているというのに、肝心な時にいつも役に立たないんだからぁ」
呆れたような、しかし、我が子への愛すら感じさせる温かさを含んだ声で、サキュバスはフェスターと呼ばれた枢機卿に語りかける。
「ごめんなさい! ごめんなさい! お母様っ! ちゃんと、良い子にしますから、だから、もう打たないで下さい……。もう」
号泣とも言えるほどに涙を流し懇願する老齢の男。
ラルフ達は、まるでおぞましいモノを見せられている気分になり、何も言えず、ただそのグロテスクな寸劇に介入する術を無くしていた。
「ダメよぉ、ダメダメ……。私は、知ってるのよ? 坊やは、私に打たれるのが好きなのよねぇ。……本当に、困った子だわ。ほら、早くこっちに来なさい……」
「お願いです……お母様、お母様ぁぁぁぁ!!!!!」
枢機卿は、サキュバスの半死半生の身体を、乱暴なほどに抱き締めた。
その瞬間、張り詰めた空気が一変する。
「ダメだ! ソイツを引き離せ!」
ファウスティンの焦りを伴った叫び声が、荘厳な大ホールに木霊した。
「ケッケッケッ。まあ、こんくらいあれば、逃げ切れ
るでしょ」
サキュバスは、枢機卿の首に抱きつき、乱暴なほどに唇を重ねた。
「むっ、むぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」
枢機卿は、まるで風船が萎むように、その精気を吸い取られていく。
ガォォォォォォォォオン!
ファウスティンの魔導銃が火を噴く。
しかし、それは間に合わず、白い石造りの床の一部を破壊しただけだった。
サキュバスは、カラカラに干からびた枢機卿の身体を突き飛ばし、蝙蝠のような翼で、荘厳な大ホールの空中に舞い上がった。
「ケッケッ……。いやぁ〜、なんとかなったわ~。これで、逃げることはできそうだわ!」
サキュバスは、回復した力に満足し、人々を見下ろす。
その姿は、白い髪に、灰色と紫色が入り混じる肌。豊満な胸と、あどけない体躯というエロスのコントラストを描く、まさに性を具現化したような淫魔の姿だった。
「ソイツを逃がすなぁ!」
ファウスティンは、魔導銃を排莢し、次弾を急いで装填する。
ラルフは、懐から、ある魔導具を取り出した。




