表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
居酒屋領主館【書籍化&コミカライズ進行中!!】  作者: ヤマザキゴウ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

277/293

277.夢幻と祝福

 ロートシュタインの郊外に、眼にも鮮やかなエメラルド色の草原がどこまでも広がっていた。


 吹き抜ける柔らかな風が、ラルフとアンナ、二人の髪を絹糸のように優しく揺らす。

 天空は透き通るような青。その明鏡には、薄く、天鵞絨ビロードのようにたなびく白雲が静謐な絵画を描いていた。


 彼らは、ただ歩く。

 ラルフは一歩前を、アンナはその背中を追うように、静かに。


「……いつも、面倒ばかりかけて、すまんねぇ」


 唐突に、ラルフはアンナを振り返らず、その言葉を放った。


「いいえ。……それが、私の務めですから……」


 アンナの返答は、感情を抑えた、いつもの無機質な響きだ。


「アンナはさぁ、なんで、僕についてきてくれたの?」


 その問いに、

 そういえば、何故だろう?

 思考の糸は千切れ、言葉は喉の奥で形を成せない。  

 そして、彼女は悟る。


(ああ……。そうか、これは夢。夢の中の不確かさならば、仕方がない……)


 アンナは、そう静かに納得した。


 瞬く間に、景色は変転する。そこは、水上都市の岸辺。


 湖の向こうには、巨大な離宮が王族の威厳を湛えて浮かんでいる。だが、この場所には、生者の気配がない。打ち捨てられたように湖面に佇む家々、岸に朽ちて打ち上げられた小舟。静けさが、湖面を滑る風にさえぎられることなく深く流れてゆく。


「後悔、したことない?」


 ラルフが初めて振り返る。

 いつもの、不敵で快活な笑み。だが、その瞳の奥には、微かな不安が水彩の染みのようにじんわりと滲んでいるのを、アンナは見逃さなかった。


「……後悔……。そうですねぇ……。している気もしますし、していない気もします」


 曖昧すぎる回答だとわかっている。しかし、これが今のアンナの心の内にある、嘘偽りのない本音だった。


「してる、気もするんだ……」


 ラルフは落胆を隠さず、その肩を重そうに落とした。


 またしても、景色は幻のように変わる。

 ここは、ロートシュタインの沖合に浮かぶ、荒々しい岩島。ゴツゴツとした岩場、海鳥の寂しい鳴き声、砕け散る白波が、大自然の厳しさを映し出す。


「……じゃあ、僕が勝手に居酒屋をはじめたことは?」


 ラルフの核心を突く問いが、再び。


 居酒屋?

 それは、なんだっけ?


 いや、それを、アンナは知っている。


 しかし、記憶の糸を紡ぐ思考は、なおも覚束ない。


「旦那様のすることに、異論を挟むことはしませんよ……だって、私は……」


 ――旦那様のメイドだから。


 ピキリッ!


 と、目に見えない亀裂が景色に走る。

 そうだ。自分は、アンナは、ラルフ・ドーソン公爵の妻などではない。


 自分は、彼のメイドなのだ。


 あの日、まだ幼い、十歳にも満たないラルフと初めて出会った、その日から。


 ピシッ! ピシッ!


 と、周囲の夢幻の景色が、ガラス細工のようにひび割れ始める。


 やがて、二人は、いつの間にか、領主館の前庭に戻ってきていた。


「いつも、ありがとうね! アンナ……」


 満面の笑みのラルフ・ドーソン。その顔は、日の光のように明るい。


 アンナは目を見開いた。

 そういえば、面と向かって、彼にこんなふうに感謝を伝えられたことがあっただろうか……。


 酔っ払い過ぎたラルフの世話を焼き。

 わけのわからない魔導具の散乱を片付け。

 突如としてヘンテコな思い付きを言い出し、それに振り回され。


 そんなことばかりの、日々。


(あれ? なんだっけ……この記憶は?)


 しかし、アンナは、稀に見る穏やかさをもって応える。


「どういたしまして……。私は、有能なメイドなので」


 珍しく、アンナは微笑んだ。それは少し恥ずかしそうに、そして、キレイに……。ほんのわずか、涙が溢れそうになったのは、彼には言えない秘密だ。


「そうだね! ……じゃあ、これからも、僕についてきてくれますか?」


 それは、まるでプロポーズのような言葉。

 しかし、彼は公爵。アンナとは身分が違う。これこそが、夢の中の出来事なのだ。

 そして、彼女は心からの言葉を口にする。


「はい……。いつまででも……」


 強風が吹き、雲が急速に流れ、強い日の光が一筋の祝福のように降り注ぐ。


「じゃあ、アンナ帰ろうよ……」


 ラルフは、未来へ誘うように、手を差し伸べる。


「帰る? ここが、この領主館が、私達の帰る場所では?」


 と、アンナは訝しげに聞き返す。


「ふふふふっ、違うだろ? 思い出せよ。僕らの、『居酒屋領主館』を!」


 ――居酒屋領主館。


 刹那、周囲の景色が粉々に吹き飛んだ。

 美しく淡い夢幻がガラスのように砕け落ち、アンナはハッと振り返る。


 そこには、


 夜の帳が降りた領主館。

 冒険者や、貴族、エルフにドワーフにリザードマンまで、混沌とした常連たちが熱狂的な行列を成して、入店を待ち望んでいる。

 芝生の上には、赤い巨躯のワイバーンが威風堂々と鎮座し、クレア王妃がじゃれ合う小狼たちを追いかけ回している。

 窓の中、一階のホールには、人々の奏でる喧騒と心からの笑い声、乾杯の音頭が地鳴りのように響き渡り、カウンターの中に立つラルフは、修羅場と化したオーダーを捌きながら慌てふためき、破茶滅茶な客達の悪ふざけに頭を抱え、時には大声で厳しく注意したりと、息つく暇もない。


 その騒乱の中心にいる自分、アンナは。


 完璧な無表情を装いながらも、どうしようもない愛しき旦那様の姿を、心底呆れたフリをしつつ、堪えきれない笑みを噛み殺すのに必死だ。


 とても、幸せそうに……。


 その"現実"を目にしたアンナは。

 愛しき旦那様に向き直り、決然と告げた。


「……旦那様……。一つ訂正します」


「なんだい?」


「……後悔など、まったくしていません」


 その言葉を聞いたラルフは、ニカッと白い歯を見せ、光り輝くような笑顔を浮かべた。


 まるで、初めて出会った時の、あの幼い少年のように。

 悪戯っ子で、まるで暴風のように騒がしい、あの男の子……。


 アンナは思う。この人は、これから、どんな世界を見せてくれるのだろう? と。


 何もない、極めて平凡な暮らしも悪くはないだろう。

 しかし、この人となら……。

 大魔導士ラルフ・ドーソンとなら、彼が奔放に描き出す、予測不可能で突拍子もない、そして、極めて騒がしい毎日が繰り広げられるに違いない。


 その、最も近く、ラルフの傍らに寄り添う権利を有するのは、自分だけだ。と、アンナは確信した。


「改めて、これからも、どうぞよろしくな!」


 アンナの細い手を取るラルフ。

 向かい合い、まるで神前の誓いのように、厳粛な瞬間が流れる。


「はい……。旦那様」


 アンナは、少し俯き、静かに、しかし強い意志をもって返事をした。


 夢が醒める。

 世界は白く、純粋な光に塗り替えられてゆく。

 その夢幻術の魔法から、二人の意識はゆっくりと、現実の現実世界へと浮かび上がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
これ教皇に実況生中継とかされてたりしない? 教会に突撃した連中皆で観客やってたりしねえ?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ