276.アンナの夢
ドーソン公爵夫人、アンナは「ハッ」と息を呑んで目覚めた。
そこは、見慣れた自室の天蓋。
薄絹越しに透けて見える天井のレリーフには、窓から差し込む朝陽が半分だけ黄金色の光を落としている。
その景色だけが、現実の確かさを物語っていた。
だが、夢の残滓だろうか、胸にわずかな動悸が残っている。その内容は霧散し、掴もうとすればするほど、景色の姿形も、時間の前後関係すらも曖昧になってゆく。ただ、「騒がしい人達に囲まれていた」という、熱を帯びた残像だけが、胸をざわつかせていた。
と、その時、控えめだが規則正しいノックが三度響く。
「……どうぞ」
アンナの許可を得て、静かにノブが回された。
「奥様、お目覚めになりましたか? ……何やら、すぐれぬ顔をされているようですが」
老齢のメイド長が、心配を滲ませた声で問いかける。
「……いいえ、大丈夫です……。ただ、そう……なんだか、夢を見ていたようで」
アンナは胸元を押さえたまま答えた。
メイド長は、いつものように、公爵家の予定を告げる。
「旦那様は、お昼頃にご到着されるとのこと。メアリー様は、もうすでにお出掛けになられましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、アンナの心に冷たい違和感が走る。
(メアリー……? 誰、だったかしら?)
愛する自分の娘の名だというのに、一瞬、他人の名前のように感じてしまったことに、アンナは愕然とする。これは寝ぼけているどころではない。心の奥底で、「娘」という存在の輪郭が、脆く崩れ去るような不確かな感覚だった。
「……あ、ああ……そうでしたわね……。今日は、魔導学会の日でしたわ!」
咄嗟に言葉を継ぐ。
娘のメアリーは、齢十歳にして既に魔導研究者。
今回の論文発表は四本目。
父である大魔導士の最年少記録を破る、賢者の塔からの"大魔導士の称号"がかかった晴れ舞台のはずだ。
昨晩も、アンナは鼻息荒い娘の予行練習に付き合っていた、その確かな記憶は、先ほどの戸惑いを打ち消そうとする。
「メアリー様の晴れ舞台、奥様は見に行かれないのですか?」
メイド長が問う。アンナはわずかに不貞腐れたように答えた。
「いいのよ……。あの子は、私より、"あの人"に見に来て欲しかったでしょうし……」
娘の晴れ舞台。だが、メアリーの言葉が蘇る。
『でも、お母様が聞いても、チンプンカンプンでしょ?ハァ……、本当は、お父様に見て欲しかったのに。そんな日に限って、王城での御公務だなんて……』
父娘が仲睦まじいのは微笑ましいことだが、魔導士ではないアンナは、どうしてもその「世界」に入れず、どうしようもない疎外感を抱いてしまうのだ。
豪華絢爛な公爵家の生活の中、その心の隙間に漂う寂しさを、アンナは毎朝のように感じていた。
「奥様、朝食の準備ができていますよ」
メイド長が静かに告げ、ドアを閉めた。
ベッドを降り、窓辺に向かう。
眼下には、青々とした芝生が広がるが、そこには、なにも賑わいがない。
ただ、静寂だけがある。
窓に映る自分の姿。
そろそろ四十に手が届きそうな、目元の皺が気になる顔。公爵夫人としての身嗜みは、髪こそ乱れていないが、その内面は、朝の光にさらされ、ひどく疲弊しているように見えた。
階段を降りる。豪華絢爛な調度品が、まるで展示物のように規則正しく並べられた廊下を歩き、広間への扉を開ける。
日の光を浴びて輝く純白のテーブルクロス。壁際に、背筋を伸ばして控えるメイド達。豪華なはずのその部屋が、なぜかアンナには、酷く、狭く感じられた。
(いや、狭いはずがない。ロートシュタイン領主館の、身内が集まるこの広間は、他領の応接間よりずっと広く造られているのに……。)
アンナは、巨大なテーブルに、ただ一人、腰掛けた。
その時、ふと、視界の隅に、まるで幻影のような、奇妙な情景が浮かび上がった。
領主館の一階、すべての壁が取り払われ、広大な空間になった場所に、多種多様な人々が集い、場末の酒場のように酒を酌み交わし、笑い声を上げている光景が。そして、厨房に繋がるカウンターの中では、愛しの旦那様、若い頃のラルフ・ドーソンが、包丁を握り、苦笑いを浮かべている……。
しかし、それは、単なる妄想だ。
アンナは、この違和感を意識的に振り払う。
料理長が丹精込めて調理した、柔らかいパンと干し肉のスープで腹を満たしたが、喉を通るものは、まるで味がしなかった。
その後、アンナは読書で時間を潰した。
手に取ったのは、神学と、魔導書。古めかしい文体と、退屈な論理の押し付け。
(これなら、薄い本を読みたい……)
そう思った瞬間、また、胸に奇妙な引っかかりを覚える。
(薄い本とは、一体、何なのだろう?)
その記憶は、この公爵夫人の世界に、まるでそぐわない、「齟齬」、或いは「違和感」そのものだった。
太陽が中天に差し掛かる頃、領主館の門前に、豪華な馬車が到着した。
アンナは思わず本を放り投げ、逸る心で出迎えに向かう。愛しの旦那様、我が夫、――ラルフ・ドーソン公爵の到着だ。
メイド達が居並ぶ中、アンナは裸足のまま前庭に駆け出した。
馬車の戸が開き、愛しの旦那様が姿を現す。
しかし、そこに立っていたのは、自分と同じく歳を重ねた夫の姿ではなかった。まるで十数年も前、"あの頃"の、若々しいラルフ・ドーソンの姿だった。
「よっ! アンナ。迎えに来たぜ!」
見慣れた、無邪気な笑顔が向けられる。
「……えっ? あ、あの……。旦那様……」
アンナは戸惑う。また、得体の知れない魔導で、自分を驚かせようと企んでいるのでは? と。
だが、若きラルフは、周囲を見渡し、軽く小馬鹿にしたように笑い出す。
「なるほど……。これが、アンナの望んだ世界かぁ……。なんか、普通なんだね?!」
その言葉が、アンナの心の奥底に触れた。不思議さと、不快さが混じり合い、アンナは思ってもいない、
諦念に満ちた言葉を口にしてしまう。
「私は、普通ですよ……。普通でいたかった。アナタとなら、普通になれる気がしたのに……。旦那様は、普通じゃなかったんですよ……」
自分でも驚くほどの、諦念の声。
ラルフはそれを聞き、興味深げに問うた。
「ふーん……。ミンネとハルは、どうしてる?」
唐突な質問。
だが、アンナの口からは、抗いがたい力で、この世界の「真実」が流れるように吐き出される。
「ミンネさんは、王立魔導学園の准教授じゃないですか……。ハルさんは、今やお姫様ですし、獣人国を統べる、和平の女王様ですよ……」
ラルフは、それを聞いて、何故か爆笑する。
そして、間髪入れずに、次の名を問う。
「ハッハッハ……、あー……。じゃあ、エリカは? あいつ、どうしてるの?」
「エリカ様は、今や、香辛料の一大シンジケートの長ではないですか……。"スパイス・ファミリー"と言えば、王国のみならず、連合国の香辛料取引の御大ですよ……」
アンナは、この世界の確固たる認識を伝えたはずだ。
しかし、ラルフはまた、腹を抱えて爆笑する。
「あー……。腹痛ぇ……。マジか?! 面白っ!! なるほど、……。これが、アンナが望んだ世界なんだ……」
ラルフは目元を拭う。
その瞬間、アンナは気がついた。
ああ、これは、夢だ。
……私の、夢なのだ。
恐らく、いつか醒める、仮初めの夢。私は、この世界の住人ではない。
この「普通」で埋め尽くされた世界は、心の奥底で、夫の「普通ではない」才能や、周囲の人間が持つ「特異性」に、疎外感を抱いた自分が、無意識に紡ぎ出した、願望の産物なのだと。
ふと、振り返ると、並ぶメイド達は、まるで衣装装飾人形のように、表情を失っていた。
この曖昧な世界で、彼女たちはただの背景にすぎない。
しかし、唯一、この夢の世界に「現実的な提案」を、若きラルフは行った。
「アンナ……。ちょっと、散歩でもしないか? せっかくの、こんな機会だ……色々、話したいからさ……」
何故か、彼は恥ずかしそうに提案した。
アンナは、この不可思議な違和感よりも、愛しき人への、唯一揺るぎない「信頼」を込めて、返事を言う。
「……はい。旦那様……」
いつしか、アンナが着ているものは、公爵夫人としての豪華なドレスではなく、ごく普通の、質素なメイド服になっていた。
やはり、これは、夢だ――。
アンナは、この世界の真実を知りながら、愛する人がそばにいる、この「普通」の夢から、まだ醒めたくないと強く願った。




