275.ラルフの油断
居合わせた誰もが、驚愕に目を見開いた。
ラルフが――あの、ラルフ・ドーソンが、
"キレた"……。
いつも、どんな逆境でも飄々とした態度を崩さず、まるで人生のすべてを笑い飛ばしているかのようにヘラヘラとふざけていたあの男が。全身から溢れ出る激情を隠そうともしない。
ホール全体に、質量を持ったかのような魔力風が吹き荒れる。
ラルフの肉体を覆い、青白い魔力の稲妻がバチバチと迸っていた。それは、抑えきれない怒りの顕現だった。
「おー。怖い怖い……。ラルフ・ドーソン……。取引をしましょう……? 貴方には、"貴方が望むものすべて"を、差し上げます……。ですから、どうか、私の、私達の国をそっとしておいてくれませんか?」
ラルフの異様な剣幕にも、教皇オルショワは微動だにしない。
ただ淡々とした声で、静かに謎の取引を持ち掛ける。その底知れない落ち着きが、かえってラルフの怒りを煽った。
「うるせぇよ……。アンナを……返せ……」
まるで獣のような獰猛さに歪んだ顔で、ラルフは重い一歩を踏み出した。その目は、血管が浮き出て血走り、純粋な憤怒に燃え盛っている。
「……アンナさんも、貴方の望むまま、思うままに、どんなことでも。自由にできるのよ? 私なら、"私の力"ならそれが可能だわ……。どう? とても魅力的な提案でしょ?」
オルショワは、甘く囁くように言った。まるで、アンナの意思や魂までもが、既に彼女の掌中にあるかのように。
その言葉こそが、さらなるラルフの逆鱗に触れた。
彼の奥底で、かつてないほどの殺意が湧き上がり、危うく口をついて出そうになる。
しかし、……ラルフはそれを歯の根でギリギリと噛み殺した。
それは、かつて共和国との戦争で、彼自身が多大なる尊い命を奪うことになってしまった、その罪と悔恨から生まれた不殺の矜持。彼の精神的な最後の砦だった。だからこそ、
「……なぁ、頼む……。僕に、魔法を使わせないでくれ……。今の僕は、貴様を殺しかねない……。それだけは、したくないんだ……。だから、頼む……。アンナを返してくれ。そして、話し合いをしよう……。悪いようには、しないから……」
ラルフは、まるで血を吐くようにその言葉を絞り出した。
どうしようもない激怒を飲み込み、可能な限り平和的に解決したい。
もう二度と、罪と禍根にまみれた歴史を繰り返したくはない。
魔法とは、そのような破滅のために使われるべきではない。
それが、ラルフ・ドーソンの鋼鉄の意思だった。
「……わかったわ。ラルフ・ドーソン……。貴方の望みどおり。アンナさんを返してあげます。……では、手を取って? ……一緒に、アンナを迎えに行きましょう?」
打って変わって、オルショワは慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。彼女はツカツカと、ラルフの眼前にまで歩み寄った。
ラルフは、警戒心を解かぬまま、教皇を睨みつける。
「本当……だろうな?」
「私だって、勝ち目のない戦いなんて、したくありませんもの……。どうやら、貴方相手には、分が悪いと悟りましたわ」
オルショワは肩を竦める。その表情はあまりに自然で、真実を語っているようにも見えた。
「……アンナは、無事なんだろうな?」
「もちろんです……」
しばしの、息の詰まるような静寂。
ラルフは、深く、深く深呼吸をした。まるで、心の奥底に吹き溜まった憤怒と殺意を、その息で浄化させるかのように。
そして、
「よし……。教皇様、一旦は、貴女を信じよう……。アンナは、どこだ?」
「私の寝室です。……では、一緒に参りましょう?」
差し出された、白く細い手を、ラルフは思わず取ってしまった。
その瞬間だった。
「やめろッ! ラルフッ!!」
群衆の中から、魂の叫びを上げたのは、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵。
時を同じくして、オルショワは突如として、凶悪な笑みを浮かべた。その両の瞳が、血のように赤く輝く。
「ハッハッハッ!!! もう遅い! 《魅了》」
教皇の、その真紅の眼差しを捉えてしまったラルフの瞳孔が、大きく開かれる。
彼の心臓が、ドクリッ! と、大きく、不規則に脈打った。
まるで、彼の自我と意識が、教皇の目に吸い込まれていくような、抗いがたい感覚。
そして、ゆっくり、ゆっくりと……ラルフ・ドーソンは、その身を床へと倒しゆく。
教皇の魔法により、彼は完全に意識を消失させてしまった。
彼は、自分が油断したことすら、その身に何が起きたのかも、理解できなかったかもしれない。
その時、カチャリと、硬質で金属質な音が響いた。
ガォォォォォォォォオン!!!
耳をつんざくような、凄まじい発砲音がホールに木霊し、教皇オルショワは、まるで空気の塊で殴られたかのように吹き飛ばされた。
それは、退魔師専用、水平二連魔導銃:スクリーミング・ディーモンの咆哮だった。
「やはりな……。貴様は、最初から、俺が相手をすべきだったようだ……」
ファウスティン公爵が、苦々しげに、床に這いつくばる教皇を見下ろす。
教皇は、顔面を散弾で吹き飛ばされながらも、何事もなかったかのように平然と起き上がった。
「痛いわねぇ~。ちょっと、ひどいじゃない? キレイな変化が、台無しなんだけど〜」
オルショワは、不貞腐れたように顔を上げた。
その口調は、もはや先ほどの教皇とは別人の、軽薄な少女のものだった。
それを目にした、ロートシュタインの冒険者たちは、思わず声を上げる。
「うっ……。なんだ? アレは……」
「やっぱり、人間じゃなかったんだ……」
オルショワの、元々色素の薄い白い顔。
その顔の半分は、ファウスティンの散弾によって吹き飛ばされ、そこから覗いているのは、紫色の斑の肌と、黄色い目。
それは、人間でも、亜人でも、魔獣でもない……。
「なるほど……。やはり、貴様、“サキュバス”だったか……」
ファウスティンの冷たい、侮蔑に満ちた目がその淫魔を見下ろす。
すると、正体を見破られた少女は、
「はぁ~あぁ! 上手くいってたのになぁ〜。貴方達、本当に迷惑なんだけど? ……せっかく、私のための国を作っていたのにぃ……」
と、つまらなそうに立ち上がった。
「ファウスティン公! ラルフが、ラルフがぁ!!」
いつも冷静沈着な、ヴィヴィアン・カスターの悲痛な叫びが響く。
ラルフは、意識を刈り取られたまま、その身体を横たえ、ヴィヴィアンの膝の上に頭を預けていた。この事態の厄介さを、一流の退魔師であるファウスティンは瞬時に理解した。
「ちっ……。貴様、ラルフの意識を持っていったな?」
「そうそう! ……貴方達さぁ、なんか頭固そう。聞き分けなさそうだしぃ……。そいつの命と引き換えにさあ、……どう? ここは、一つ……。穏便に済ませようよ〜」
顔面の半分を、悪魔としての恐ろしい笑みに歪ませたオルショワ。いや、サキュバスが問う。
しかし、ファウスティンは迷わず、再び魔導銃を構えた。
「……いや。"魔の者"ならば、問答無用だ……」
その決意を秘めた言葉に、
「へっ?」
長きに亘り、聖教国の教皇という座に就き、この国を支配してきたオルショワと名乗るサキュバスは、まばゆいばかりの光を見た。




