274.暴風
大乱闘の余韻を含んだ風が、白き石造りの橋を吹き抜けていく。
剣戟の音は止み、代わりに漂い始めたのは、戦場には不釣り合いなほど芳醇なスパイスと、酒精の香りだった。
聖剣騎士団の負傷者たちは救護班の天幕へ運び込まれたが、幸運にも軽傷で済んだ者たちは、既に大天幕の下で車座になっていた。
彼らの手にあるのは、ロートシュタインからもたらされた未知の美食と美酒だ。
「ふぇ〜……。これで、やっと終わったなぁ……」
「ああ……。こんな馬鹿騒ぎ、やってられんわ……」
騎士の一人が、無色透明の米酒をチビリと舐め、生きている実感と安堵を吐き出す。
聖戦だの異端討伐だのと煽られはしたが、彼らの腹の底は冷めていた。
聖女を解放するならすればいい。自分たちの生活と給金さえ保障されるのなら、命を賭してまで守るべき義理など、この腐敗した教会にはないのだ。
そんな彼らの弛緩した空気に、屈託のない明るい声が割り込んだ。
「アンタたちも、カレー食べる?」
エリカだ。彼女は大鍋を抱え、捕虜となった騎士たちへ臆することなく声をかけて回っている。この聖教国においても、彼女のカレー布教活動に迷いはないらしい……。湯気と共に漂う黄金色の香りは、頑なな騎士たちの心をも容易く溶かしていった。
その和やかな“占領劇”を見届け、後始末を終えたラルフが声を張り上げた。
「よっしゃぁ! そんじゃあ、いよいよ本丸、大教会に突入するぞー!!!」
その号令は、聖女解放という壮大な計画が、ついに最終局面を迎えたことを告げる……。
ロートシュタインからはるばる訪れた冒険者や騎士たちが、再び列を成して橋を渡り始める。
先頭を行くラルフに続き、野太く、それでいてどこか楽しげな勝どきを上げながら、彼らは大教会の正門へと殺到した。
「開けろー!」
「開けろぉ! コラァ!!」
眼前にそびえるのは、威圧的なまでに巨大な石造りの大門。冒険者たちの怒号が叩きつけられる。
ラルフは一歩進み出ると、門の向こう側にいるであろう者たちへ向けて、あえてのんびりとした口調で呼びかけた。
「おーい! こんな立派な建築物を、魔法で吹き飛ばすのは忍びないんだ……。頼むから、自分たちで開けてくれないかぁ〜!」
平和的な提案という皮を被った、凶悪な脅迫である。
数秒の沈黙の後、ラルフの魔力が練り上げられる気配を感じ取ったのか、内側から閂を外す音が響いた。
ぎ、ギギギ、ギシ、ギシッ――。
重苦しい軋みを上げ、巨大な門が観念したように開かれる。
大教会内部、そこは"荘厳"という言葉を具現化したような空間だった。
視界を埋め尽くす白一色の大ホール。
スズのビット兵器より、割れ落ちた天窓から陽光が降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床に反射して、神々しいまでの光輝を生み出している。
その光の中央に、数名の神官たちが立ち尽くしていた。身に纏う豪奢な装衣は、彼らが枢機卿クラスの高位聖職者であることを示している。
だが、その表情に威厳はない。敗北を悟った者特有の、諦めと媚びが混じった顔つきで、代表者の一人が口を開いた。
「我々は、降伏する……。聖女解放に、私達も協力しよう……」
「話が早くて助かります……。しかし、教皇様のご意向は、どうなのかな?」
ラルフが靴音を響かせて歩み寄り、静かに問う。
「これは、我々の独断だ……」
「教皇猊下は、今は御寝所におられる……。どうか、我々を助けてくれまいか……。王国の民達よ……」
枢機卿は深々と頭を下げた。トップの意思に反する、保身のための裏切り。
腐りきった上層部の実態にラルフが呆れていると、修道女たちの肩を借り、ようやく立っているといった風情の男が運ばれてきた。
司祭、ジェイコブ。
かつて聖女の監視役としてロートシュタインへ赴き、真っ先に裏切りの尖兵となった男だ。
「はっ、ハッハッハ……。あれ如きで、あれ如きで……この私を再調教できるとでも思ったのか? ……ハッハッハ……。ロートシュタインの美酒の方が、百倍愉悦だよ……」
その頬はげっそりと痩け、まるで古木のような老人と化している。だが、その瞳だけは異様な執念でぎらついていた。
「おっ、おいっ! ジェイコブ司祭! どうした?! 一体何があったんだ?!!」
変わり果てた姿に、ラルフが慌てて駆け寄る。
「ああ、ラルフ様……。耐えました……。耐えましたよ……。ロートシュタインで口にした赤ワインの芳香と、濃厚なデミグラスソースの味だけを必死で脳裏に描いて……耐え抜いてやりましたよ……」
それは信仰告白にも似た、凄絶なうわ言だった。食への執着が精神崩壊を食い止めたのだとすれば、皮肉な奇跡としか言いようがない。
「……彼も、救護班へ」
ラルフの指示で、冒険者たちが慎重にジェイコブを受け取る。廃人のような司祭は、冒険者に肩を貸されながら、どこか満足げに退場していった。
「我々も、投降させてくれ……」
枢機卿たちが、手にした聖杖を投げ捨てる。
ラルフは短く息を吐き、出口を顎でしゃくった。
「……わかった。全員、外へ出て橋を渡れ。後は向こうの連中に任せればいいから」
これにて、残る敵は教皇のみ。
孤立無援となった最高権力者と、あとは平和的な話し合いで解決できる――そう思いたいところだったが、ラルフの脳裏に重大な懸念がよぎる。
「アンナは……? アンナは、どこだ?」
先行して潜入していたはずの有能なメイド、アンナの姿がどこにも見当たらない。
焦りが滲み始めたラルフに、すれ違いざま、一人の修道女が怯えた様子で耳打ちした。
「アンナ様は、オルショワ様に呼ばれました……。今は、上におられます……」
「ちっ、怖い事してくれるねぇ……。アンナが本気になったら、どれだけヤバいことになるか……」
ラルフの背筋に冷たいものが走る。アンナの戦闘能力を知っているからこそ、彼女が追い詰められた際の被害規模が想像できてしまうのだ。
思考を巡らせるラルフに、去り際の枢機卿が声をかけた。
「我々の命と、立場は守られるのだよな?」
この期に及んでまだ保身か……。
ラルフの心中に苛立ちが渦巻く。
「いいから……。さっさと橋の向こうに渡れよ。修道女たちも、一旦避難してくれ……」
鋭い声に弾かれたように、大教会内部の人間たちは、沈没船から逃げ出す鼠のごとく大門へ向かって駆け出した。
潮が引くように人が消え、静寂が戻りつつあるホール。
ファウスティン・ド・ノアレイン公爵が、音もなくラルフの背後に立った。
「……もしも、教皇を殺す必要があるなら、俺に任せな」
物騒極まりない提案だが、そこには公爵なりの不器用な心遣いが滲んでいた。汚れ役は自分が引き受けるという意思表示だ。
ラルフは苦笑する。自分は甘い。できれば誰の血も流さず、すべてを丸く収めたいと願っている。
「お気遣いはありがたいですが、まずは何事もお話し合いですよ……」
ラルフはあくまで人の心を、言葉の可能性を信じていた。
だが、歴戦のファウスティン公爵には、その優しさが致命的な隙に見えた。
その時だ。
ホール奥、上階へと続く白亜の階段から、まるで天上の福音のような声が降り注いだ。
「はぁぁぁあ、……皆の者……私を、裏切るのですか?」
盛大なため息。階段の踊り場に、一人の少女が佇んでいる。
雪のような純白の衣装、透き通るような肌。その姿は、聖性を人の形に押し込めたかのような――教皇オルショワだった。
「貴女が、教皇様?」
ラルフが大声で問う。少女は階段の上から、人形のように無表情な視線をラルフへと注いだ。
「いかにも……。貴方が、アンナ・ハーヴェイの"愛しのご主人様"ですね? ラルフ・ドーソン公爵?」
「……ん? ハーヴェイ?」
ラルフは眉をひそめた。
メイドのアンナは平民出身のはずだ。ファミリーネームなど持っていないと聞いていた。
なのに、教皇が口にしたその名は、妙に生々しく響く。
それは本当に、いつも甲斐甲斐しく世話を焼き、時に口うるさい、あのアンナのことなのか?
違和感が胸をざわつかせた瞬間、少女の顔が歪んだ。
「あー、知らないんですの? "彼女のすべて"を……? ふふふふっ、そんなんだからぁ! 愛しのアンナは……私の“モノ”にさせてもらいましたよ……ラルフ・ドーソン公爵」
可憐な少女の顔に、底知れぬ悪意と優越感がへばりつく。
「な、何を、……どういことだ?」
ラルフにしては、珍しくさすがにたじろぐしかない……。
目に映る教皇の態度は、いくらなんでもおかしい……。先程までの聖性は消え失せ、そこにあるのは、欲しい玩具を奪い取った子供の、無邪気で残酷な愉悦のみ。そして、
「だってぇ、貴方が、彼女の欲望を叶えられない……“腑抜け”だからですよ〜?! なら、しょうがないじゃないですか〜?」
嘲笑がホールに反響する。
その言葉が意味するおぞましさに、ラルフの思考が弾け飛んだ。
「貴様……」
視界が赤く染まる。
理性のタガが外れ、腹の底から灼熱が噴き上がる。
「アンナを…………。アンナを……、
……"僕のアンナ"を、どうしたぁぁぁぁぁぁッ?!!!」
憤怒の咆哮と共に、ラルフの表情が地獄の悪鬼のごとく変貌した。
体から溢れ出した魔力が暴風となって渦巻き、荘厳な大教会の空気をきしませる。
もはや「話し合い」の余地など欠片もない……。
愛する者を奪われたラルフの、純粋な殺意だけがそこに在った。




