270.橋上の魔導戦
「──《白亜爆炎》!」
聖教魔導士オルティ・イルの掌から、世界を白く塗り潰すほどの閃光が迸った。
それは単なる火炎ではない。物理的な熱量に加え、高密度の魔力が凝縮された浄化の奔流。直視すれば網膜を焼き尽くす輝きが、ラルフ・ドーソンという一点のみを喰らい尽くさんと殺到する。
「《魔導障壁》」
対するラルフの声は、あまりに平坦だった。
刹那、展開された不可視の力場が、白き津波を真正面から受け止める。空間が軋み、光が弾け、余波だけで周囲の大気が沸騰する。
互いに無詠唱。
瞬き一つの間に数工程の術式を編み上げる、神速の領域。
この世界における最高峰、人類の限界を超えた魔導士同士の衝突であった。
「《十字裂空》!」
オルティは追撃の手を緩めない。白炎の余韻を切り裂くように放たれたのは、十字の斬光。
カキンッ! と鋭い破砕音が響き、ラルフの障壁が硝子細工のように粉砕された。
防御を失ったラルフの肉体に、聖なる刃が到達する。
鮮血が舞い、その体が四散する──かに見えた。
だが。
斬り裂かれ、虚空へズレていくラルフの顔面が、ニヤリと不気味に歪む。
次の瞬間、その質量は陽炎のように揺らぎ、霧散した。
幻影魔法――。
オルティが驚愕に見開いた視界の隅、すぐ横の欄干から場違いな咀嚼音が響く。
「ムシャムシャ……。ふむっ、悪くないね。展開速度は一流だね」
そこには、手すりに腰掛け、悠然とポップコーンを頬張るラルフ・ドーソンの姿があった。
「もしも魔導学園に通っていたら、君も"大魔導士"の称号くらいは得られたかもね!」
「……き、貴様ぁ! ラルフ・ドーソン!!」
オルティのこめかみに青筋が浮かぶ。
命のやり取りの最中に食事とは。これほどの屈辱があるだろうか。
「妙な魔法を使いおって!! やはり貴様は魔導士の風上にも置けぬ、異端だ!!!」
「いや、その意見は偏見が過ぎるよ」
激昂するオルティに対し、ラルフはどこ吹く風だ。
「そもそも魔法とは、魔に通ずる『法』。聖魔法だって理論体系化すれば、根源的なマナの流れを汲んでいる。……魔導書をちゃんと読んでいれば、分かることだけどなぁ……」
「黙れ! 異教徒が!! 《白亜爆炎》!!」
一流の魔導研究者としての含蓄ある言葉も、今のオルティには油に火を注ぐ燃料でしかない。
彼女は再び右手を振りかぶり、先ほど以上の魔力を練り上げる。
だが、その火魔法が放たれる寸前。
「ふんっ!」
ラルフが鼻を鳴らし、握りしめていた右手を振るった。
撒き散らされたのは、黄金色の小さな粒。
それが、オルティの手元に漂う濃密な魔力の熱源に触れた、その時だった。
パンっ! ポンっ! パパパンッ!!
軽快かつ連続的な破裂音が、オルティの目の前で炸裂した。
「きゃぁぁぁ!?」
視界を埋め尽くす白い飛礫。
何が起きたのか理解できず、オルティは年相応の、いやに可愛らしい悲鳴を上げてのけ反った。
攻撃の機先を制され、呆然とする彼女を、ラルフは面白そうに見下ろす。
「その魔法だって、要は《火炎球》に光学調整を付与しただけだろ? ……それにしても、まさか聖教国に"爆裂種"があったとはなぁ」
ラルフが嬉しそうに掌の上の一粒を摘まむ。
それは、極限まで乾燥させたトウモロコシ──爆裂種。
敵の攻撃魔法が発する熱を利用し、一瞬でポップコーンへと昇華させるという、あまりにふざけた、しかし完璧な熱量計算に基づくカウンターだった。
「クソっ! 舐めやがってぇぇぇぇぇ!!!」
足元に散らばるポップコーンを踏み潰し、オルティが吠える。
「いや、舐めてはいないよ。……だって、後ろに何人控えてんのさ……」
ラルフは呆れたようにため息をつき、また一つポップコーンを口に放り込んだ。
「僕一人に対して、聖教魔導士を何十人も引き連れてさぁ……。こっちだって、命かけてんのよ?」
「彼らに手出しはさせん! これは私と貴様の、一騎打ちだ! ラルフ・ドーソン!!」
「……ホントかよぉぉぉ? もう、アンタら信用できないからなぁ……」
自分に都合のいい正義ばかりを振りかざし、こちらの理屈には耳を貸さない。
ラルフは不貞腐れたように唇を尖らせると、ヒョイっと欄干から飛び降りた。
「当たり前だろっ!!! そもそも貴様、本当に人間なのか!? 貴様の存在そのものが疑わしいのだっ! 訳の分からない魔法ばかり使いおってぇぇぇ!!」
オルティの魂の叫びには、向こう岸で見守る見物人たちでさえ、ウンウンと深く頷いていた。
特に、領主ラルフの奇行を見慣れているロートシュタインの住民たちは、敵であるはずのオルティに同情的な視線すら送っている。
背後から刺さる「また領主様が何か変なことやってるよ」という視線に、さすがのラルフも咳払いをした。
前世の知識とフィクションを融合させた独自魔法。
それがこの世界において、いかに邪道で、かつ厄介な敵役ムーブであるかは、彼自身も自覚しているのだ。
「……分かったよ。……そんじゃ、僕も聖魔法だけの"縛りプレイ"にしてやるよ」
「はっ? 聖魔法? ……だと?」
オルティが眉をひそめる。異端者が、聖教の専売特許である聖魔法を使うなど、聞いたことがない。
「じゃあ、いくぜっ!」
ラルフが獰猛な笑みを浮かべた瞬間、オルティの戦士としての本能が警鐘を鳴らした。
彼女は反射的に後方へ飛び退く。
「《聖域防壁》!!」
彼女の周囲に展開される、最高ランクの物理・魔法防御結界。
だが、ラルフの口から紡がれた言葉は、聖教の教本には存在しない呪文だった。
「──《聖雷光鞭》」
ヒュイイイイイン!
ラルフの手元から迸ったのは、まごうことなき聖なる輝き。しかしそれは、蛇のようにのたうち、波打つ光の描線だった。
予測不能な軌道を描く光の鞭が、音速を超えてしなる。
オルティは防御の完璧さを確信していた。いかに変則的であろうと、聖魔法同士の衝突ならば、出力で勝る自分の防壁が相殺するはずだ、と。
だが、その鞭は、魚の尾びれが水を弾くように、防壁の魔力干渉を、カーブを描いて到達した。
バチィィィィィィィィイン!!!
「ぴゃァ!!!!!!!」
素っ頓狂な悲鳴が戦場に響き渡った。
光の鞭の先端が、正確無比に、あろうことかオルティの臀部を打ち据えたのだ。
焼き付くような鋭い痛みと衝撃に、オルティは飛び上がり、そのまま無様に四つん這いになる。
「おっと……。すまんすまん、なにせ聖魔法は付け焼き刃なもんでね……制御が甘かった。……え、えっと、大丈夫?」
ラルフは頭をかきながら謝罪する。狙ったわけではない。……多分。
しかし、四つん這いになったまま動かない聖教魔導士長の様子が、どうにもおかしい。
肩が小刻みに震えている。
「はぁ……、はぁ……ッ、はぁ……」
「お、……おい?」
「教皇様、女神様……。私は……私は、勝てないかも……しれません……」
彼女はうわ言のように呟いていた。
「すみません……。私は、"堕落"したのかも……しれません……。この男……。この、ラルフ・ドーソンという、聖敵……。いや、この暴力こそが……。私の奥底を……」
「えっ!? いや、オルティ? どうした? 意識あるか!?」
さすがに心配になってラルフが声をかける。
すると、オルティが顔を上げた。
その顔は、涙と涎でぐちゃぐちゃに濡れており──しかし瞳だけは、狂気じみた恍惚の光を宿していた。
「もっとヤろうよ! ラルフ・ドーソン!!! もっと、もっと私を、その無慈悲な鞭で滾らせてよぉぉぉ!!!!!」
理性が崩壊していた。
ラルフは察したくない事実を、察してしまった。
(まさかコイツ……ドMか……!?)
しかも、よりによって戦闘中に覚醒するタイプだ。厄介極まりない。
ラルフがドン引きしていると、橋の上に整列していた聖教魔導士の一団が、ついに動き出した。
「お、オルティ団長を守るぞ!!」
「王国の外道魔導士めっ! よくも団長にあのような辱めを!!」
彼らは一斉に杖を構え、攻撃魔法の聖句を唱え始める。
団長の狂態を見て見ぬふりをしたのか、あるいは洗脳魔法でもかけられたと解釈したのか。
いずれにせよ、多勢に無勢の状況だ。
(やっぱり……。一騎打ちとか言っておいて、結局これかよ!)
ラルフは心中で毒づき、ふう、と息を吐いた。
もはや正々堂々と付き合ってやる義理はない。
「超基礎の基礎、風魔法……《風》」
ラルフが指先を振ると、そよ風程度の気流が発生し、聖教魔導士たちが密集する方向へ流れていく。
同時に、彼は懐から取り出した革袋の中身を、その風に乗せた。
真っ赤な、微粒子。
「うっ……、がっ!? ごふっ!!」
「な、なんだこれ!? 目が、の、喉が焼けるぅぅぅ!!」
効果は劇的だった。
屈強な魔導士たちが、次々と喉をかきむしり、涙を流して崩れ落ちていく。
「あー、目がぁぁ、目がぁぁぁぁぁ!」
視界を奪われ、混乱に陥る聖教の精鋭たち。
その地獄絵図を、這いつくばったまま見ていたオルティが、驚愕に震える声で叫んだ。
「ラ、ラルフ・ドーソン!!!! 貴様、それはダメだっ!!! まさか、まさか毒を撒いたのか!? 私が見込んだ"我が終生の敵"は、そんな非道であってはならないのだっ!!!!」
いつの間にか「終生の敵」認定されていたことに頭を抱えつつ、ラルフは赤い粉の残りをポンポンと払った。
「人聞きが悪いな。これは"ラグリマ・ロハ"……唐辛子を挽いたただの粉さ」
「と、トウガラシ……?」
「ああ。ウチのエリカと海賊公社が、東大陸の南部から輸入してる激辛スパイスだ。……まあ、確かに、目や粘膜に入れば毒みたいなもんだが……」
ラルフは、足元でのたうち回る魔導士たちと、激痛に耐えるためか興奮のためか、荒い息を吐くオルティを見比べ、どこか遠い目をした。
「信じられないだろう? こんな、ただ痛いだけの香辛料を使った激辛メニューを……ウチの店、"居酒屋領主館"では、喜んで金を払って食べる連中がいるんだよ……」
それは、偉大なる大魔導士の、どこか諦念のこもった呟きだった。
異世界の食文化、あるいはマゾヒズムという深淵への理解不能な恐怖。
しかし。
その言葉を聞いたオルティ・イルの脳裏に、ある感情が去来した。
激痛。……だが、快楽。
そして、その先にあるという、未知の味覚。
(……そこ、ちょっと、行ってみたい……かも)
と。
涙で潤んだ彼女の瞳が、ラルフの顔を、どこか熱っぽい視線で捉えていた。




