266.大教会の混乱
大教会の荘厳な巨大空間、大ホール。
円錐形に白を基調とした壁が天へとそびえ立ち、その内部は、所々に埋め込まれた幾何学的な模様を描く磨りガラスを透過した日の光に満たされていた。神聖な光芒は、大理石の床に幻想的な模様を投げかけ、場を満たす厳粛さを強調する。
その中央、巨大な祭壇の前に設けられた簡素な席に、四人の枢機卿が集まっていた。彼らの纏う青色のローブが、純白の空間に重々しい影を落とす。
議題は、彼らにとって忌々しい、そして看過できない事態――「聖女解放運動」についてだ。
彼らは身を寄せ合い、まるで自らの声がこの広大な空間に吸い込まれることを恐れるように、ひそひそと密談を交わす。
その時、青銅の扉が重厚な音を立てて開き、一人の司祭が声を上げた。その声は、広大なホールに反響し、枢機卿たちの密談を断ち切った。
「厳粛なる枢機卿会議の御前に―― ただ今、新たなる神託を担う少女を伴い、聖教国の護りを司る者、聖教魔導士長オルティ・イル様が、参上なされました。御入場を、御許しを請い願います!」
仰々しい、誇張に満ちたその言葉は、魔導士長の帰還が単なる報告ではなく、一つの事件であることを示していた。
「……うむ。入れ!」
枢機卿の一人が、苛立ちを押し隠すように短く叫んだ。
広大で荘厳なホールを、オルティ・イルはツカツカと、まるで聖域の空気を踏みつけるかのように歩いてくる。
その隣には、一人の少女。
オルティは、枢機卿団の前に進み出ると、深く、しかし形式的ではない、明確な意思を込めた礼をした。そして、静かに、だがホール全体に響き渡る声で告げる。
「聖教魔導士長オルティ・イル、ここに罷り越しました。枢機卿団より賜りし、偉大なる御命令――聖女の奪還を、完遂いたしました。聖なる灯火は今、再び聖域へ帰還いたしました」
枢機卿の一人が、安堵と傲慢さが混じった声で問いかける。
「オルティよ……。神の思し召し、見事に果たされた。……して、ジョン・ポールとやらは、どうした?」
オルティの表情に一瞬の陰りが差す。それは、命令の遂行者としてではなく、何かを悼む者としての感情の揺らぎに見えた。
「……滅しました……。彼の者は、救いようのない穢れ、異端でありました……」
「ふむ。よろしい。……して、その者が、新たな聖女か?」
視線は、オルティの隣の少女へと注がれた。
赤茶けた髪を無造作に結い、そばかすが目立つ、何の変哲もない少女。
彼女はただ押し黙り、その感情の機微は一切垣間見ることはできない。
瞳には、光を反射するだけで、感情の色はなかった。まるで、内面を隠す鉄の仮面を貼り付けているかのようだ。
「彼女こそ。新たな聖女――ヘストナ・ヴァール様です」
オルティがそう伝えても、少女は俯いたまま、五感のすべてを閉ざしているかのようにも見えた。外界との接触を拒絶する、硬い貝殻のように。
「ふむっ、ならば、"神託の間"にお連れしろ……。すぐに、"聖女の天蓋"を張るのだ! 異教徒どもが攻めてくるぞ……。神聖なるこの国を滅ぼさんとする……聖敵どもがな……」
枢機卿は、その言葉に力を込めるように、自らの拳を固く握りしめた。彼の声には、焦燥と、この国が揺らぐことへの恐怖がにじみ出ていた。
しかし、その命令に、別の枢機卿が辛辣な意見を述べる。
「おい……。マズイのではないか? 王国の大店を殺したのは? さらなる大義名分を敵に渡したことにならんか?」
その懸念は、理性的で現実的であった。しかし、最初の枢機卿は、それを幻想の言葉で打ち消す。
「心配いらん……。新たな守護聖女が誕生したのだ……。聖教国の守りは揺るがない……。何も変わらん。変わらんのだ……。これまでどおり。そう、何も変わらず、この聖教国はあり続ける!」
それは、まるで現実逃避のうわ言のようだった。
彼は信じていた。変革などあり得ない。
この聖教国が自分の、生きてきたすべてだ。枢機卿という立場を親から引き継ぎ、何不自由なく暮らしてきた。
飢えることもなく、汗水垂らし働くこともなく。大教会の中にあるのは、自分が選ばれし者だからだという、甘美な幻想。
しかし、その幻想を打ち壊す、血の通った現実の報告が、駆け込んできた神官によって齎された。
「緊急! 緊急のご報告です!! 各地の荘園主達、及び指定教会が、一斉蜂起!! 農奴たちも武器を手に、聖女解放を叫んでいます!!」
その報は、爆弾が炸裂したような衝撃だった。
「なんだとっ?!! そんなはずはなかろう! 何故に奴等が我ら大教会に弓を引き、どうやって生きていくというのだ?!!」
彼は、混乱の極限に達していた。
農奴達だけならまだしも、荘園主や地方教会までもが異端に堕ちるなど、あり得ない。
なぜなら、彼らはこの聖教国の体制と共に生きるしかないはずの者。自分と同じく、体制の恩恵を受ける側のはずなのだから……。
その動揺が収まる暇もなく、もう一人、若い助祭がホールに駆け込んできた。彼の息切れは、伝令の緊急性を雄弁に物語っていた。
「伝令! 伝令です!! ……おびただしい数の、巨大な馬なしの鉄製の馬車が、国境を越え侵入したと伝令が!! ここ、聖都に――大教会に向かっています!!!」
「なっ!!!!」
烈火の如く、状況は一変しつつあった。
国境を越え、聖教国に侵入、いや進軍してきたのは、王国のロートシュタイン領から出発した、大型魔導車:ファット・ローダーの一団だった。
それを護衛するのは、ジョン・ポール商会の工廠に隠されていた魔導戦車部隊。
聖教国が長きにわたり蔑ろにしてきた「革新的技術」が、今、牙を剥いたのだ。
さらに、三番目の伝令が、ホールを震撼させた。
「ご報告します!! 現在、フラヴォ運河を所属不明の巨大な船が遡上していると通報が!! 聖教魔導士達が迎撃に当たるも、その堅牢さに歯が立たず、未知の砲撃により聖都関門が突破されました!!!!」
まるで、体制の断末魔の叫びのように、大ホールを揺るがす声。
「う、……嘘だ! 嘘だ!! 嘘だ!!!」
枢機卿は、現実に追いつけず、己の頭を掻きむしった。
それは「嘘」などではなく、まさにその時、ロートシュタインが誇る最強戦艦、"ウル・ヨルン号"が海から運河に侵攻し、超電磁砲による一斉砲火で、水門を粉砕したところだった。
艦橋に立つ"ウル・ヨルン号"の乗組員達、そして緊急招集された海賊公社の長、メリッサ・ストーンは、自軍の圧倒的な攻撃力と、破壊され火の粉が舞う街並みを眺め、満足気で凶悪な笑みを浮かべていた。
「はっ……早く! 早く! 聖女に守護結界を張らせろ!! 聖教魔導士に、聖剣騎士団にも、伝えろ! 全員出動だ!!!」
半狂乱になりながら、枢機卿の男は喚き散らす。彼の尊厳と、彼の「世界」が崩壊していく音が、彼自身の叫び声に掻き消されていた。
その時、オルティが、少女の手を取ろうとした。
「聖女様! 早く、こちらへ!!」
しかし、ぐっと引っ張ろうとしたその手は、まるで大岩のように動かない。
おかしい……。
オルティは、驚愕に目を見開き、振り返る。
相変わらず、俯く少女。
ジョン・ポールの死に、その心が壊れてしまったのかもしれない。
そう、
オルティは思っていた。
しかし、その少女は、ゆっくりと顔を上げた。
その口元は、鉄の仮面が剥がれ落ちたかのように、ニヤリと歪んでいた。
それは、聖女の微笑みではなく、悪魔の嗤い。
そして、その笑いは、狂気に満ちた破裂音となった。
「……ンぐふっ! クックック……。クックック……。あーハッハッハッハ!!!!」
狂ったような哄笑が、神聖なホールに響き渡る。
その瞬間、
ガシャーン!!!
凄まじい音と共に、ホールの天窓は粉々に砕け散り、無数のガラス片が雨霰のように降り注いだ。
そこにいる誰もが、その異様な事態にわけがわからず、ただ降り注ぐガラス片から身を守るために、頭を抱えて蹲るしかなかった。
「ヘストナ・ヴァール!! ……いや、……貴様、何者だ……?」
オルティは、瞬時に状況を理解し、魔導士としての構えをとる。
窓を突き破った"モノ"。
それは、光の残像を残して縦横無尽に飛び回り、聖女の背後で、少しずつ、しかし明確な形を成していく。
そして、少女の頭上に、金色の円環が「ブゥゥゥン」と低い駆動音を立てて浮かび上がった。
光に包まれた少女は、宙に浮かび上がる。
その時、赤茶色の髪が輝き、次の瞬間には、深い漆黒の色に変わった。
着ていた召し物は、いつの間にか、黒い喪服のような、船乗りのような意匠を持つ衣服に変わっていた。
そして、完全に姿を変えた少女は、"ビット兵器"を合体させた、光と鋼の翼のような造形物を背に、金色に輝く円環――"サイコ・デバイス"を頭上に輝かせた姿――。
それは、あまりにも神々しく、異質で、強大であった。
「て、天使様だ……」
若い司祭が、その光景を前に、信仰と恐怖の混ざった感情で思わず呟いた。
後光を背負った、その少女――今やその本性を現した、
"ダンジョン・マスターのスズ"は、
とても満足そうに、誰にも理解できない独り言を言い放った。
「さすがラルフ……。こういう役、一度やってみたかった……」
この戦乱の幕開けは、聖教国の歴史を根底から覆す、新たな時代の序曲に過ぎない。




