263.ナイト・フライヤー
廃教会の、夜風が吹き込む窓辺。その古びた木枠に、まるで幻影のように音もなく現れたのは、一羽の巨大なフクロウだった。
「……ありがとう。ベド」
テイマーであるヴィヴィアン・カスターは、その翼の主を静かに迎える。ベド。彼女が信頼して使役するメッセンジャーだ。彼女は、静謐な夜の空気を纏うフクロウの柔らかな羽毛を慈しむように撫で、足にしっかりと結ばれた文を解いた。
この廃教会は、ロートシュタインによる聖教国の「経済的侵略作戦」の拠点として機能している。さながら、反体制派の秘密基地だ。
広域地図を古びた長机の上に広げたラルフ・ドーソンは、満足気に黄金色のビールジョッキを片手に、着々と進むロートシュタインの経済支配エリアの盤面を眺めていた。
「まるで、ボードゲームだな……」
乾いた呟きと共に、彼はジョッキを傾け、冷たい液体で喉を潤す。その顔には、一歩ずつ勝利へと近づく確信の色が浮かんでいた。
「ラルフ! アンナさんからの報告が届いたぞ」
ヴィヴィアンが声をかけ、小さく折り畳まれた文を彼に渡す。
「ちっ……、ジェイコブ司祭が捕まったようだ……」
報告に目を通しながら、ラルフは苦々しく舌打ちをした。その音は、廃教会の静寂の中で、妙に響いた。
「大丈夫なのか? まさか、処刑されたりは……」
ヴィヴィアンは、戦場の空気を知る者特有の、鋭い懸念を口にする。
「とりあえずは、その心配はないようだが……。ただ、大教会の内部協力者が一人減ったのは、痛手かもなぁ」
ラルフは頭を掻きながら、苛立ちを隠せない。
「しかし、最終的には、大教会に殴り込みをかけるのだろう? ならば、チマチマと策を弄する必要などあるまいに」
ピザをムシャムシャと頬張るカーライル騎士爵が、不服そうに言った。随分と"脳筋"な発言ではあるが、彼の背後には、娘のミラと共に聖教国で買い漁った豪華な聖剣がズラリと並んでいる。どうやら、新しく手に入れた「玩具」を早く振り回したくて、闘志を持て余しているようだ。
「できれば、犠牲者を一人も出さず作戦を遂行したいのですよ……。もう、あのような悲劇はごめんですから……」
ラルフの目に宿ったのは、遠い日の影。「あのような」とは、共和国との凄惨な戦争のことだった。ラルフもカーライル騎士爵も、その前線で、無数の血を見てきた。
「ふんっ、相変わらず。甘い男だ……」
カーライル騎士爵は、そう言って大ジョッキを喉笛鳴らして飲み干す。
ラルフは構わず、アンナからの文を読み進めた。すると、彼の眼が、ある一文に引き付けられる。
「おや? 教皇様が、ついにご登場か……。ふーん……、どんな爺様かと思いきや、若い女の子なのかぁ」
その言葉に、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵が眉をひそめた。
「何? 若い? 当代の教皇は、五十年前に即位したと聞いたが?」
「はっ? えっ? 五十年前? 何かの間違いじゃないの? アンナからの報告では、確かに少女だって書かれてるけど……」
ラルフは改めて文に目を落とす。
すると、ファウスティン公爵は静かに椅子から立ち上がり、教会の隅、テーブルでピザやハンバーガーなどをガツガツとむさぼり食う一団に向かった。
彼らは聖教国の各地で重税を課していた荘園主や神官たちだ。今や冒険者に捕らえられ、これから楽しい楽しいロートシュタイン研修に送られる身の上である。
「おい! 教皇は若い女ってのは本当か?」
ファウスティンは、鋭くどすの利いた声で質問を投げかけた。その声は、捕虜たちの卑しい食事の音を一瞬だけ引き裂いた。
「モグモグ……、"様"を付けんか! ムシャムシャ、この異教徒めが……、ムシャムシャ……」
「不敬にも……モグモグ……ほどがあるぞ! モグモグモグモグ……」
「ゴクゴクっ、ぷはぁ~! ……王国の貴族は、礼儀を知らんのか?! ムシャムシャ……」
彼らは食べる手も口も止めずに、ファウスティンを咎めた。
その醜い食欲と権威主義の混ざった姿に、ファウスティンは深い溜息を一つ。そして、静かに諭す。
「おい、いいか? 取り上げやしないし、好きなだけ食わせてやるから。一度食うのを止めろ、な?」
静かな圧力を感じたのか、彼らは不承不承といった様子で飲み食いを一旦休止する。
「げプッ……。その通り、オルショワ様は、若く、とてもお美しい方だ。あの御方こそ、偉大なる女神リュシアーナ様の代行者に相応しい……」
神官は、遠い目をして夢見るように頷いた。
「そのオルショワ様とやらは、五十年前に即位されたというのは?」
「……そうだな。確かに、五十年前くらいだったな……」
と、彼らは平然と言いのけた。
ファウスティンは啞然とするより他ない。
それを聞いていたラルフ達も、目眩がしそうになった。五十年前に即位した教皇様が、若い少女? 明らかなおかしさに、この聖教国の者達は疑問を覚えていないのだ。
「な、なぁ。教皇様って、もしかしてエルフとかの長命種か?」
ラルフは、魔法のプロとして、不可思議な現象に合理的推理を試みたが。
「そこの貴様! 不敬にも程があるぞ! 亜人などが大教会に立ち入れるわけがなかろう!」
荘園主の男が、怒りで顔を真っ赤にして怒鳴る。
「こりゃあ、呆れてものも言えんわ……」
ラルフは額に手を当てた。
「ふんっ、ダメだこりゃ……。内集団バイアス、……いや、権威主義的パーソナリティを拗らせまくった、愚物どもか……」
ファウスティンは、まるで道端のゴミでも見るかのように吐き捨てた。
そこにあるのは、醜い同調(Conformity)。聖教国の人々は、権威や社会、そして集団の中で思考停止状態にある。教会を絶対的な権威とみなし、そこにある矛盾や不自然さに目を向けない。まるで、認知的不協和をごく自然と排除してしまうように洗脳された集団なのだ。
「貴様らぁ! さっきから黙って聞いておればぁ!!」
「この異教徒が! 神罰が下るぞ!!」
捕虜たちは、飛びかからんばかりの剣幕だが、見張りの冒険者達が、ファウスティンとの間に入り、剣や槍をチラつかせる。
「ちっ、もういい……。好きなだけ食ってろ」
そう命じると、彼らは鋭い眼光を飛ばしながらも、下卑た音を立てて食事を再開した。
「聖魔法による、不老不死……。いや、まさかな。……いや待てよ、見た目だけなら、できないこともないか……」
ラルフはブツブツと独り言を呟く。大魔導士として、教皇の不可思議さを魔法の論理で分析していた。
「とにかく、教皇様は厚化粧ババァか。もし、そうでなかったとしたら……」
ファウスティンは、ある最悪の可能性を口にする。
「そうでなかったとしたら? どうだというのだ、ノアレイン公?」
カーライル騎士爵が、何故か少しだけ面白そうに、その先を促した。
「……いや、思い過ごしなら、それでいいんだが……」
何か重大な思案の淵に沈むように呟くファウスティン。その深い眼差しを、ラルフはチラリと見やる。
その時。廃教会を突如として、ドスンっという重厚な振動が襲った。天井から埃がパラパラと降り注ぐ。
「な、なんじゃ?!」
「なんだ?! なんなのだ?!!」
メシと酒をがっついていた聖教国の捕虜達は、狼狽の極みに陥る。
「おっ、お迎えが到着したようだ」
ラルフは平然とその場を後にする。
重厚な扉を開くと、そこには巨大な影が夜空を背負うようにそびえ立っていた。
ラルフはそれに向かい、親愛の情を込めて声をかけた。
「ようレッドフォード。お疲れさん! 悪いんだが、休憩したらもう一便お願いしたいんだわ」
すると、何事かと教会の外に飛び出してきた捕虜達は、その光景を目にし、パニックに陥る。
「ひ、ヒィィィィィィ!!」
「ど、どど、竜族だぁぁぁぁ!!!」
彼らが目にしたもの、それは、ラルフの頼れるペット。
真紅の鱗を持つ巨大なワイバーンだった。
彼らの醜い絶叫と恐怖を振り返ったラルフは、苦笑いをする。
しばらくして、
「ぎゃあああああぁぁぁ!!」
「女神様ぁ! お助け下さい! お助け下さい!!」
絶叫を上げながら、彼らはワイバーンの背に乗せられ、ロートシュタインへ向かい夜間飛行に旅立った。
しばらく、あちらで正しき為政者としての在り方をみっちりと叩き込まれる、楽しい楽しい"研修旅行"が待っているのだ。
✢
その夜、聖教国を統べる大教会では、神託が下された。
"新たな聖女は、ヘストナ・ヴァールである"――と。
地方教会と熱狂的な信徒たちにより、その報せは、聖教国全土に火のように伝えられていった。




