262.完成する敵意
聖教国のとある一角。ロジオン・ヴァールが治める荘園の邸宅は、今や巨大な建築現場と化していた。陽気にも聞こえる「トンテンカン」という木槌の音が、秋の空気に乾いた響きを立て、あたりには山と積まれた真新しい木材が、森の香りを放っている。
「なぁ、これは……。さすがに、デカくないか? エリカ殿……」
ロジオンは、目の前に広がる骨組みを見上げ、呆然と呟いた。
その巨大さは、まるで未完成の要塞だ。たまらず彼は、隣に立つ金髪のドリルツインテールの少女、エリカに視線を送る。
「いいんじゃない? せっかくお金稼げたんだから、贅沢すれば良いのよ……」
エリカは図面から目を離さず、ぞんざいに答える。その声には、億万長者のような気まぐれな鷹揚さが滲んでいた。
改築工事の現場は、まさに多様性の坩堝。
ロートシュタイン領から来た頑強なドワーフの大工たち、日雇いの冒険者、そしてロジオンが治める農奴たちが、入り乱れて作業している。薄着の彼らの肌は、汗で光を弾いていた。
「張板持ち上げるぞ! 下に潜り込むなよ! せーのっ!」
「おいっ! これ梁の数合ってるかぁ?! 先に揃えとけって言ったよなぁ?!」
職人たちの怒号が、威勢よく飛び交う。
しかし、ロジオンが密かに抱く困惑は、その騒音の中にあっても消えなかった。
つい先日まで、痩せ細り、まるで枯れ木のようだった農奴の男たちが、この数日でムキムキと筋骨隆々になっているのだ。
ロートシュタインのジョン・ポール商会が来てから、彼らは飽きるほど肉と米を食っている。それは理解できる。だが、(たった数日で、こうなるか?!)と、——ロジオンは目眩がした。
彼らがもし一揆でも起こせば、鎮圧は不可能だろう。
しかし、その心配は杞憂である。
ジョン・ポール商会という王国の最大手がこの地に引き入れられ、さらに"滋養強壮の薬"という大義名分で酒を安く売ってくれる、慈愛の荘園主様。それが、今や農奴たちのロジオンに対する共通認識となっていたからだ。
ロジオンの隣で、設計図を鋭く睨んでいたエリカが、突然、甲高い声を上げた。
「ほら! そこ!! 何やってるのよ?! 梁の背が逆よ! 木表を上にして!」
「へ、へいっ!」
屈強な男たちが一斉に頭を下げ、冷や汗を垂らす。
ロジオンは、思わずエリカを畏怖の念で見つめた。
(この幼い少女が、一番恐ろしいのでは?!)
「ふんっ! 困っちゃうわねぇ……。む?! ちょっとぉ! 誰よぉ! この図面引いたの?!!」
彼女は、何か重大な不備を発見したようだ。"安全第一"と書かれたヘルメットから零れるドリルツインテールは可愛らしいが、その真剣な眼差しは、歴戦の現場監督そのものだ。
「へ、へい! あっしです!!」
ドワーフの職人が慌てて駆け寄る。
「アンタ、打ち合わせ出てないの?! この設計図は古いのよ!! ヴァール夫人が、角のない曲線主体の外観にしたいって、変更したのよ!!」
「はぁ?! し、知らねーよ! そんなの?! か、角を取って、ドーナツ型にでもするのかよ?!」
「家の持ち主がドーナツ型の家に住みたいって言ってんだから、何の文句があるのよ!!」
そのやり取りを聞いたロジオンは、喉の奥でつぶやいた。
(自分……まったく……、何も聞いてないのだが……)。
自分の邸宅が、一体どのような素っ頓狂な改築をされるのか、憂鬱でたまらない。
かつて、大教会での集会で立ち話をした荘園主の先輩の言葉が、金言のように脳裏に響く。
「"女は結婚すると、家のことには煩いからなぁ……"」
と。どうやら、この新邸宅にロジオンの意向は一切反映されないらしい。
実はこれも、ラルフの巧妙な経済的謀略の一端だった。
「荘園主や神官共に、徹底的に贅沢をさせろ! 金貨を溜め込ませるな!!」
という号令の下、唆された支配者階層たちは聖教国中で建築ラッシュを巻き起こしていた。
そして、その支払いが労働者へと渡り、金を得た農奴たちは、荘園主や神官に金を払い、酒や甘味、果ては"いかがわしい薄い本"を購入する。
まさに、経済は爆速で回り始めていた。
木材は、ロートシュタインから空輸された、木の魔獣トレントの最高級木材である。
やがて昼時、エリカは現場の片隅で、簡素な作業台に向かい、真剣に寸胴鍋をかき混ぜていた。その真剣さは、まるで歴戦の戦士が獲物を仕留めるかのようだ。やがて、とてつもないスパイスの芳しい湯気が立ちのぼる。
「ふむっ! こんなもんね……。案外、聖教国にも良いスパイスがあるじゃない!」
味見をしたエリカが、満足気に呟く。
ロジオンは、その光景を目の当たりにし、思わず言葉を失った。
(この子、とんでもない働き者なんだけど?!!! えッ! ウチに欲しいんだけど!!!)
「休憩よー! アンタ達、昼メシは、カレーうどんよぉ!!!」
と、エリカは宣言した。
屈強な男達は、
「待ってましたぁ!!」
「これよこれ!! これがあるから働けるんだわ!!」
と、ウキウキと作業を切り上げ、カレーうどんを「ずぞぞぉーっ!」と啜る。
彼らの瞳には、労働とその対価に対する純粋な喜びがキラリと光り輝く。
そして、謎にスキルの高いロートシュタインの少女を、ロジオンは熱い視線で見つめるのだった。
✢
時を同じくして、大教会。
荘厳なステンドグラスから差し込む光が、教会内部を神聖に照らしていた。教皇オルショワは、枢機卿や神官たちを前に、静かに言葉を発する。
「私の知らぬうちに、少々おかしな事になっているようですね……」
その問いかけに、跪く枢機卿の一人が、汗を滲ませながら絞り出す。
「は、……はい! い、え。その、これは、ちょっとした……。民達の、気の迷いとでも、言いますか……」
言葉を選びすぎた結果、それは言い訳の体裁すら成していなかった。
「"侵略"……。そうなのでしょう?」
教皇は、断定する。
その場にいる誰もが、沈黙を守った。
重い空気が、彼らの肺を圧迫する。
その沈黙を切り裂くように、ジェイコブ司祭が静かに口を開いた。
「恐縮ながら、僭越を承知の上で申し上げます。教皇猊下、わずか一言、発言をお許しいただけますでしょうか?」
「ジェイコブ!! 貴様ぁ、司祭の分際で、口を慎め! 猊下の御前で何を申す気か!」
若き司祭を咎める声が飛ぶ。しかし、教皇は静かに言った。
「よい。……申してみよ」
「はっ! "聖女を解放せよ"。……これが、かの侵略者達の目論見にございます」
ジェイコブは、そう断言した。
枢機卿たちは、更に冷汗を流し、事の成り行きを、生きた心地がせずに過ごす。
「そう。……なりません……。なりませんねぇ、……異端ではないですか? ……。なるほど……。なるほど……。その者、ジェイコブと言ったかしら? あなた、"裏切り者"みたいね……」
心底寂しそうに。そして、慈愛を込めた瞳で、言葉を切る。
「その若者には、"再調教"が必要のようです。……聖剣騎士達よ。その者を捕らえて……。そして、私の部屋に連れてきて……」
教皇オルショワが、静かに言い放つと、枢機卿たちは一斉に動き出した。
「そ、そんな!! ならば、ならば私を!!!」
「いや、私こそ! 異教徒を招き入れた大罪人です! どうか、どうか私にこそ、"再調教"を!!!」
いい歳をした男たちが、阿鼻叫喚の渦を巻き起こす。
それは、ジェイコブを助けようという感情ではなく、この"不届き者ごとき"が、彼女の部屋に招かれたという事実が、"たまらなく羨ましい"という、感情の激流だった。
その光景を目の当たりにしたアンナは、教皇の姿を盗み見る。
それは、真っ白な少女だった。
髪の毛も肌の色も、そして身に着けた神官服さえも白く、まるで光を纏っているかのようだ。
その教皇と呼ばれる少女は、まるで新しい玩具を手に入れた幼子のような純粋な笑みを浮かべている。アンナにとって、その穢れなき笑みは、かえって恐ろしいものに映った……。
聖剣騎士たちに捕縛される寸前、ジェイコブは後手で、アンナにしかわからないハンドサインを送った。
彼は、今も強がりとも言える薄い笑みを浮かべているが、これから自分の身に降りかかる、罪と贖罪の儀式を、やり過ごすことは到底不可能なことを悟っているかのようだった……。




