261.深く、浸透する
ラルフ率いるロートシュタイン一行が、聖女解放という壮大な目的の下、聖教国への経済的侵略という大作戦を決行している最中――。
王国、ロートシュタイン領。
領主不在の館の中庭は、異様な喧騒と、焦燥のるつぼと化していた。
次々と、捕縛された聖教国の神官や荘園主が、この見知らぬ地に送り込まれてくる。
ある者は、唸りを上げる大型魔導車の狭い荷台に押し込まれ、またある者は、空を覆う巨大なワイバーンの背に半ば気絶した状態で括り付けられていた(何人かは恐怖で失禁し、引率役のレッドフォードは、その惨状に露骨に嫌悪の表情を浮かべていた)。
彼らは、文字通り、生まれてはじめて外国の、ロートシュタインの土を踏むことになったのだ。
「クソっ! どういうことだ?! 貴様ら、どうなるか、わかっておるのかっ?!」
ヤンストラの、怒りというよりは、混乱と恐怖に塗れた声が、中庭に響き渡る。
周囲を囲むのは、明らかに戦闘慣れした、そしていかにも"ガラが悪い"と形容すべき冒険者たち。彼らは不敵な笑みを浮かべ、聖教国からの客人たちの逃走の可能性を、物理的に、そして精神的に打ち砕いていた。
「ようこそ、王国、ロートシュタイン領へ。聖教国の皆様……」
平民の装いでありながら、その立ち姿、髭を蓄えた初老の顔立ちから放たれる気品と威厳が、周囲の冒険者の粗暴さと鮮烈な対比をなす。その人物が、恭しく、しかしどこか悪戯っぽい調子で挨拶をした。
「貴様! 王国貴族だろう?! この扱いはどういうことだっ?!! こんな事をして、タダで済むと思っているのかぁ?!」
ヤンストラが再び喚き散らす。その声には、特権階級に特有の傲慢さが、まだわずかに残っていた。
初老の男性は、静かに、そして楽しげに笑う。
「"タダ"では済まないなぁ。何故なら、貴方がたの滞在費は、全部こちらが持つのだから……。あー、安心しろ。三食昼寝付き……。さらには、晩酌も、ここ『居酒屋領主館』で飲み放題を用意してやった……。なーに、一週間ほどで聖教国に帰してやる。それまでは、きっちりと、勉強をして貰うがな……」
「……へ? ……」
ヤンストラは、その瞬間、自分が何を理解すべきか、すべてを失った。彼が知る「捕虜」の概念とは、あまりにもかけ離れていた。
その日から始まったのは、この男、ヴラドおじさんによる、異色の「帝王学」の授業だった。
無理矢理連れてこられた荘園主と神官たちは、いい歳をして再び学舎に叩き込まれたように、肩を並べ、戸惑いながらもヴラドおじさんの熱弁に耳を傾ける。
「……で、あるからして! 国力の維持と民の幸福の最大化こそが、統治者として最も重要視しなければならない! 重税と搾取が長期的には国力の衰退を招くという実例は、歴史書を見れば枚挙にいとまがないことが、それを証明しておる!」
黒板をバンバンと叩く音と共に繰り広げられる、資本主義と封建統治を根本から否定する帝王学の講義。聖教国の捕虜たちの凝り固まった頭では、その論理の奔流に、もはや理解が追いつかない。
さらに、ヴラドおじさんは続ける。
"釣りこそが人間の原初の営みで、食糧調達の意義を超えた、崇高な自然への回帰である"、という、謎の思想まで熱弁しだす始末……。
そして、昼食。
彼らの目の前に出されたのは、光沢を放つチャーハンと、新鮮な緑のサラダ、そして温かなスープ。
彼らは、目を見開いた。その美食に、しばしすべてを忘れ去った。
一時間の休憩を挟み、始まったのが、第二の講義。
グレン子爵による、"マクロ経済"の授業だった。
「皆さん、静粛に。……先ほどの講義では、重税が消費を冷え込ませるという話を、こくお……、おっと! ヴラド氏がしましたね? 此度は、それとは逆に、富の再分配がいかに国を豊かにするのかを、数理的に証明します。……まず、特権階級の皆さんが理解すべきは、富の再分配が単なる慈善行為ではないということです。これは、あなたの金庫にある財産を、より巨大な富に変えて戻すための賢明な投資なのです。その鍵となる概念が、『乗数効果』、または経済の波及効果です。……仮に、我々が飢えた民衆の労働者階級に、富の一部を再分配するとしましょう。一回きりの金貨百枚の支出だと考えてください。皆さんは『金貨百枚が消えた』と嘆くかもしれませんね……。しかし、『マクロ経済学』の理論は、そうは言いません……」
徹頭徹尾、論理的かつ冷徹な経済原理を語るグレン子爵の手には、ラルフが執筆した、『ゴブリンでもわかる、マクロ経済入門!』の異様な表紙があった。
この段階になると、聖教国から連れてこられた荘園主も神官も、脳裏に一つの疑念を抱き始めていた。
(あれ? これ、なんか、とんでもなく、新しい知識じゃね?)
あまりにも封建的な聖教国に生まれ、思考が硬直していただけで、彼らは決して本物の愚か者ではなかったのだ。
三時のオヤツは、濃厚なチョコケーキと、芳醇な紅茶。
「……美味かった……」
誰かが、そう呟いた。そして、午睡。
一部の神官は、芝生の上で、番犬代わりの巨大な狼と戯れ、心から大笑いしていた。
そして、本日最後の授業。
デューゼンバーグ伯爵が、重々しい声で"歴史学"を語る。
「魔導国家は、その名の通り、世界で最も進んだ魔導技術を持っていた国だった。その富の源泉は、特殊な魔力結晶『エーテル・コア』の採掘と精製技術にあったようだな……。しかし、このコアの採掘権と精製施設は、わずか五大魔導貴族と、彼らに連なる特権階級によって独占されていたわけだ。彼らは莫大な富を享受する一方、採掘現場や精製工場で働く一般民衆――彼ら『ノービス』――には、劣悪な環境と、生存に必要な最低限の賃金しか与えられなかった……」
もう、彼らは、その授業に対しての関心を止めることができなかった。
それは、偉大なるエルフ、ユロゥウェルから齎された知識……。
(えっ? やばくね?! ヤバいよね?! なんで、そんな歴史的事実、知ってんの?!!!)
脳内の防衛線は崩壊し、荘園主たちのメモを取る手が、無意識のうちに止まらなくなっていた。
日が落ちると、領主館の一階、"居酒屋領主館"と呼ばれる酒場へと移動させられた。
ここでは、提供される食事や酒が、すべて無料で飲み食いできるらしい。
店員は、ほぼ子供たち。
グレン子爵は、彼らを「孤児たちだよ。彼らは、下手をすると、お前達より稼いでいるぞ!」と、聖教国の常識を覆すことを平然と言ってのけた。
わけもわからぬまま連れてこられ、脱走しようにも、金はない。
遥か聖教国から離れたロートシュタイン領から、徒歩で帰還できるとも思えない。
そして何より――大人しくしていれば(謎の釣りに関する思想の授業はあるが……)、未知の美食が食える。こうして毎晩、未知の美酒が飲める。
明日は、農村に赴き、実地研修とやらがあるらしいが、しばらくこの奇妙な境遇に耐えれば良いだけ……。
「また、あのチャーハンを食いたい! あと、ビール!」
「火酒くれ! 火酒!! あーもー、頭痛い。勉強なんて、本当に嫌いなのだっ!!」
「マヨネーズとやらを、なんでもいいから、マヨネーズをくれぇっ!!!」
いつしか、聖教国の悪徳為政者たちは、ロートシュタインという地が生み出す美酒と美味に、その心までも侵略され、調教されていったのだ。
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時を同じくして、聖教国の大神殿。
「ジェイコブ司祭、……よくぞご無事で!」
大教会の神官が、安堵の表情で、彼を迎え入れる。
「まったく……。此度の犠牲、"女神様"の試練は、我々には理解し難いものだよ……」
ジェイコブ司祭は、心底うんざりしたように答える。巨大なワイバーンの襲撃により、聖教国の重鎮たちが命を落とし、新たな聖女となるはずだったマルシャ・ヴァールもまた、命運を断たれたという体裁になっていた。
「で? 枢機卿達の動きは?」
大神殿の荘厳な廊下を、ジェイコブは淀みなく歩きながら問う。
「はっ! 新たな、聖女の認定を急ぐとのことです!!」
「まあ、そうするしかないよね〜。それ以外に、聖教国が生き残る術はない」
ジェイコブは、その言葉を、何故か楽しそうに、口の端を上げて言った。
すると、若い神官が、緊張した面持ちで尋ねる。
「あ……、あの。ジェイコブ司祭殿……。そ、その人は、誰です?」
先ほどから、ジェイコブに付き従うように、一歩遅れて歩く、見慣れない真新しい神官服を着た女性がいた。
ジェイコブは、まるで自慢でもするかのように、朗らかに言う。
「あー! 彼女は、僕の弟子だよ。"神官見習い"だ。ほら、君も、挨拶をして……」
その女性は、意志の強そうな、しかし一切の感情を読み取れない無表情な顔で、神官たちを見据える。
「はじめまして……。よろしくどうぞ……。ロートシュタインから来ました。アンナと申します……」
彼女は、丁寧に頭を下げた。その背後に、聖教国の未来を脅かす不穏な影が、濃く長く伸びていることを、その場の誰も知る由もなかった。




