表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
居酒屋領主館【書籍化&コミカライズ進行中!!】  作者: ヤマザキゴウ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

258/293

258.甘き侵略のはじまり

 その日、それは静かに、だが不可逆的に始まった。

 勇ましい号令が響いたわけではない。

 天を焦がす狼煙が上がったわけでもない。ただ、聖教国の民は、日々の営みに染み込む、微かな「違和感」に、ふと、立ち止まったのだ。


 厳格な清貧を国是とする街角には、エキゾチックな装飾の屋台が、いつの間にか根を下ろしていた。

 農奴が額に汗する広大な農園には、見慣れぬ服装の異国の商人が、平然と品定めに来る。

 それは、まるで地面に雨水が染み込むように、抵抗もなく、ジワジワと、だが確実に、神聖なる景色を塗り替えていった。


 最も不可解なのは、本来、異教徒の排斥を説くはずの教会神官たちや、封建的な荘園主たちの態度だった。彼らは、この突然現れた異邦人たちに対し、排除どころか、歓迎の意さえ示しているように見える。その裏に、どんな密約や、冷徹な経済の思惑が渦巻いているのか、一般の民には知る由もなかった。


 ある村。農園に続く道の脇で、農奴の子供たちが、不意に出現した小さな屋台を、遠巻きに、まるで魔術の道具でも見るかのように警戒していた。

 その屋台の店主は、まだ幼さが残る少女。彼女は、不安げな子供たちに気づくと、人懐っこい笑顔で、ちょいちょいと手招きをした。

 恐る恐る、一歩一歩、石を踏むようにして子供たちは近づく。


「いらっしゃいませ。もしよかったら、一つ、いかが?」


 少女の声は、太陽のように明るく澄んでいた。


「外国の姉ちゃん、それは一体なんなの?」


 子供たちのリーダー格らしき、利発そうな男の子が、警戒心丸出しの瞳で尋ねた。

 少女は、濃密な黒い塊を指差し、説明する。


「これはね、ガトーショコラ。ええと……手軽な、"栄養補給食"よ」


「ほきゅう、しょく?」


子供たちは首を傾げた。彼らにとっての「補給食」とは、硬い干し肉か、酸っぱい保存食くらいのものだ。


「一人一つ、試食をどうぞ!」


 少女はそう言って、試食とは思えないほど大きな、濃密な黒い塊を、丁寧に包み紙で渡していく。その甘く香ばしい匂いは、幼い食欲を容赦なく刺激した。

意を決し、リーダーの男の子が、「ハムっ!」と、ガトーショコラにかぶりついた。


 瞬間。

 男の子の目が見開かれる。脳天を打ち抜かれたかのような、純粋な衝撃。長きにわたる清貧の生活の中で、彼らが知らなかった、甘味という名の概念が、舌の上で爆発した。


「モグモグ、モグモグ……あ、甘ぁぁぁぁぁぁぁぁい!」


 彼は天を仰ぎ、まるで人生で初めて光を見たかのように叫んだ。


「えっ? 甘いの?!」


「モグモグ……えっ?! ホントだ! 甘い!」


 その騒ぎを聞きつけ、この地の治安を預かる聖庁衛士団の兵士たちが、剣帯を鳴らしながら駆けてきた。


「おい! そこの移民! それは何を売っているのだ?!」


 衛士は、厳つい顔で屋台を睨みつける。


「これは、ガトーショコラという、"栄養補給食"ですよ」

 

 店主の少女は、きょとんとした、悪意のない顔で言い放った。


「嘘をつくな! 今確かに、甘いと聞こえたぞ! つまり、甘味。それは嗜好品ではないのか?!」


「いいえ。"栄養補給食です"……」


 清貧を唯一絶対の美徳とする聖教国において、「甘味」は贅沢、即ち堕落の品に他ならない。それは信仰への裏切りと同義だ。


「えーい! ふざけた問答はよい! 貴様を捕らえる!」


 衛士が少女の肩を掴もうとした、その時。

 店主の少女は、木製の小さな鑑札を掲げた。


「この地の教会の、司祭様から直接許可をいただきました。これが正当な営業の証です」


「えっ、は? し、司祭様が……」


 衛士たちにとって、司祭は遥か上位の聖職者であり、絶対の権威だ。少女の持つ「鑑札」は、最強の免罪符だった。


「はい! 司祭様も、このガトーショコラを非常に気に入っておられまして……。是非、民達にも広く食べて貰い、元気に働いて欲しいとの、高貴なるご意向です」


「せ、聖税は?! 聖税は、正しく納めているのだろうな?!」


「もちろんです。毎日、帳簿を付け、荘園主様の事務方にも提出することになっていますよ」


 衛士たちは顔を見合わせ、戸惑いを隠せない。彼らの排他的で保守的な常識は、今、「司祭の意志」という絶対的な力によって崩されようとしている。


「皆様も、どうぞ! 試食です!」


 少女は、にこやかにその商品を差し出す。

 まあ、タダで貰えるなら。

 衛士たちは、心の奥底でそう囁き、それを受け取った。そして、彼らもまた、その黒い塊にかぶりつく。


「モグモグ、あっ! これ、あまっ……いや、美味い!!」


「ふむっ! 確かに、これ一つで満足感もあるし、何よりも力が湧きそうな味だな!」


 彼らは、未知の甘味に目を見開いた。

 そうだ。これは、あくまでも、栄養補給食なのだ。    

 そう、自分たちを納得させた。

 この甘美を二度と口にできなくなる未来は、彼らの信仰心よりも、わずかに恐ろしかった。


「して、店主。名前を聞いてもいいか?」


「はい。……私、ヘンリエッタと申します」


「ヘンリエッタ、これはいくらで売っているのだ?」


「いくらでもいいですよ」


「はっ? いや、その値段を聞いているのだが……」


「だから、いくらでも良いですよ。銅貨一枚でも、鉄貨一枚でも……。物々交換でも。麦一粒でも……」


 商売の理に反した、奇妙な言葉。しかし、衛士たちはこれを「施しという善行を積もうとする、気高い少女」だと解釈した。

 彼らの保守的な環境では、商売の原理原則や、冷徹な経済の摂理など、知る由もなかったのだ。


「姉ちゃん! 明日もここにいるんだよな!」


「もちろん! 明日は、もっと種類を持ってこようかしら」


「よーし! なら、僕は薬草を採ってくるぜ!」


「またのご来店! お待ちしてまーす!」


 その不思議な屋台の噂は、甘美な囁きとして、瞬く間に農村を席巻した。


 翌日。衛士たちや農奴たちは、家族や隣人を引き連れ、前の日と同じ場所に赴いた。

 しかし、彼らの目の前に広がっていたのは、昨日の質素な屋台ではない。

 屋台は、何倍もの大きさになり、色鮮やかな布で装飾されていた。


 そこに並ぶ商品。それは、まるで秘密の花園に迷い込んだかのような、目も眩む光景だった。

 ガトーショコラだけではない。


 ショートケーキ、チーズケーキ、パンプキンパイ、モンブラン、スイートポテト、マカロン……。などなど。


 ヘンリエッタが、故郷ロートシュタイン領から空輸した(レッドフォード・エア・キャリー)、まばゆいばかりの、甘味……いや、「補給食」の数々。


 そして、その花園の案内人、ヘンリエッタは、まるで楽園に人々を誘う天使のような微笑みで、集まった客たちを前に手を広げた。


「いらっしゃいませ! 皆さん。ようこそ! ヘンリエッタ・カフェ出張店へ! 美味しい"補給食"を、たくさんご用意させて頂きましたよ!」


 その荘園では、「栄養補給食」という名目上の、ロートシュタイン領による、甘味による経済侵略が、静かに、そして、猛烈な熱を帯びて始まった。


 清貧の国を、堕落させる。甘美な、中毒性のある侵略が……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
まぁー今まで甘味やら脂分やら接種経験ないと、中毒でしょうねぇ。
暴力が全てを解決するとは言われてるけど、金の暴力が1番怖いと思いました、まる
清貧な生活をしている人にガトーショコラなんて糖分とカフェインたっぷりな物を食べさしたらさぞかし脳内がキマったでしょうに…まるで天啓でも降りてきたみたいに…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ