258.甘き侵略のはじまり
その日、それは静かに、だが不可逆的に始まった。
勇ましい号令が響いたわけではない。
天を焦がす狼煙が上がったわけでもない。ただ、聖教国の民は、日々の営みに染み込む、微かな「違和感」に、ふと、立ち止まったのだ。
厳格な清貧を国是とする街角には、エキゾチックな装飾の屋台が、いつの間にか根を下ろしていた。
農奴が額に汗する広大な農園には、見慣れぬ服装の異国の商人が、平然と品定めに来る。
それは、まるで地面に雨水が染み込むように、抵抗もなく、ジワジワと、だが確実に、神聖なる景色を塗り替えていった。
最も不可解なのは、本来、異教徒の排斥を説くはずの教会神官たちや、封建的な荘園主たちの態度だった。彼らは、この突然現れた異邦人たちに対し、排除どころか、歓迎の意さえ示しているように見える。その裏に、どんな密約や、冷徹な経済の思惑が渦巻いているのか、一般の民には知る由もなかった。
ある村。農園に続く道の脇で、農奴の子供たちが、不意に出現した小さな屋台を、遠巻きに、まるで魔術の道具でも見るかのように警戒していた。
その屋台の店主は、まだ幼さが残る少女。彼女は、不安げな子供たちに気づくと、人懐っこい笑顔で、ちょいちょいと手招きをした。
恐る恐る、一歩一歩、石を踏むようにして子供たちは近づく。
「いらっしゃいませ。もしよかったら、一つ、いかが?」
少女の声は、太陽のように明るく澄んでいた。
「外国の姉ちゃん、それは一体なんなの?」
子供たちのリーダー格らしき、利発そうな男の子が、警戒心丸出しの瞳で尋ねた。
少女は、濃密な黒い塊を指差し、説明する。
「これはね、ガトーショコラ。ええと……手軽な、"栄養補給食"よ」
「ほきゅう、しょく?」
子供たちは首を傾げた。彼らにとっての「補給食」とは、硬い干し肉か、酸っぱい保存食くらいのものだ。
「一人一つ、試食をどうぞ!」
少女はそう言って、試食とは思えないほど大きな、濃密な黒い塊を、丁寧に包み紙で渡していく。その甘く香ばしい匂いは、幼い食欲を容赦なく刺激した。
意を決し、リーダーの男の子が、「ハムっ!」と、ガトーショコラにかぶりついた。
瞬間。
男の子の目が見開かれる。脳天を打ち抜かれたかのような、純粋な衝撃。長きにわたる清貧の生活の中で、彼らが知らなかった、甘味という名の概念が、舌の上で爆発した。
「モグモグ、モグモグ……あ、甘ぁぁぁぁぁぁぁぁい!」
彼は天を仰ぎ、まるで人生で初めて光を見たかのように叫んだ。
「えっ? 甘いの?!」
「モグモグ……えっ?! ホントだ! 甘い!」
その騒ぎを聞きつけ、この地の治安を預かる聖庁衛士団の兵士たちが、剣帯を鳴らしながら駆けてきた。
「おい! そこの移民! それは何を売っているのだ?!」
衛士は、厳つい顔で屋台を睨みつける。
「これは、ガトーショコラという、"栄養補給食"ですよ」
店主の少女は、きょとんとした、悪意のない顔で言い放った。
「嘘をつくな! 今確かに、甘いと聞こえたぞ! つまり、甘味。それは嗜好品ではないのか?!」
「いいえ。"栄養補給食です"……」
清貧を唯一絶対の美徳とする聖教国において、「甘味」は贅沢、即ち堕落の品に他ならない。それは信仰への裏切りと同義だ。
「えーい! ふざけた問答はよい! 貴様を捕らえる!」
衛士が少女の肩を掴もうとした、その時。
店主の少女は、木製の小さな鑑札を掲げた。
「この地の教会の、司祭様から直接許可をいただきました。これが正当な営業の証です」
「えっ、は? し、司祭様が……」
衛士たちにとって、司祭は遥か上位の聖職者であり、絶対の権威だ。少女の持つ「鑑札」は、最強の免罪符だった。
「はい! 司祭様も、このガトーショコラを非常に気に入っておられまして……。是非、民達にも広く食べて貰い、元気に働いて欲しいとの、高貴なるご意向です」
「せ、聖税は?! 聖税は、正しく納めているのだろうな?!」
「もちろんです。毎日、帳簿を付け、荘園主様の事務方にも提出することになっていますよ」
衛士たちは顔を見合わせ、戸惑いを隠せない。彼らの排他的で保守的な常識は、今、「司祭の意志」という絶対的な力によって崩されようとしている。
「皆様も、どうぞ! 試食です!」
少女は、にこやかにその商品を差し出す。
まあ、タダで貰えるなら。
衛士たちは、心の奥底でそう囁き、それを受け取った。そして、彼らもまた、その黒い塊にかぶりつく。
「モグモグ、あっ! これ、あまっ……いや、美味い!!」
「ふむっ! 確かに、これ一つで満足感もあるし、何よりも力が湧きそうな味だな!」
彼らは、未知の甘味に目を見開いた。
そうだ。これは、あくまでも、栄養補給食なのだ。
そう、自分たちを納得させた。
この甘美を二度と口にできなくなる未来は、彼らの信仰心よりも、わずかに恐ろしかった。
「して、店主。名前を聞いてもいいか?」
「はい。……私、ヘンリエッタと申します」
「ヘンリエッタ、これはいくらで売っているのだ?」
「いくらでもいいですよ」
「はっ? いや、その値段を聞いているのだが……」
「だから、いくらでも良いですよ。銅貨一枚でも、鉄貨一枚でも……。物々交換でも。麦一粒でも……」
商売の理に反した、奇妙な言葉。しかし、衛士たちはこれを「施しという善行を積もうとする、気高い少女」だと解釈した。
彼らの保守的な環境では、商売の原理原則や、冷徹な経済の摂理など、知る由もなかったのだ。
「姉ちゃん! 明日もここにいるんだよな!」
「もちろん! 明日は、もっと種類を持ってこようかしら」
「よーし! なら、僕は薬草を採ってくるぜ!」
「またのご来店! お待ちしてまーす!」
その不思議な屋台の噂は、甘美な囁きとして、瞬く間に農村を席巻した。
翌日。衛士たちや農奴たちは、家族や隣人を引き連れ、前の日と同じ場所に赴いた。
しかし、彼らの目の前に広がっていたのは、昨日の質素な屋台ではない。
屋台は、何倍もの大きさになり、色鮮やかな布で装飾されていた。
そこに並ぶ商品。それは、まるで秘密の花園に迷い込んだかのような、目も眩む光景だった。
ガトーショコラだけではない。
ショートケーキ、チーズケーキ、パンプキンパイ、モンブラン、スイートポテト、マカロン……。などなど。
ヘンリエッタが、故郷ロートシュタイン領から空輸した(レッドフォード・エア・キャリー)、まばゆいばかりの、甘味……いや、「補給食」の数々。
そして、その花園の案内人、ヘンリエッタは、まるで楽園に人々を誘う天使のような微笑みで、集まった客たちを前に手を広げた。
「いらっしゃいませ! 皆さん。ようこそ! ヘンリエッタ・カフェ出張店へ! 美味しい"補給食"を、たくさんご用意させて頂きましたよ!」
その荘園では、「栄養補給食」という名目上の、ロートシュタイン領による、甘味による経済侵略が、静かに、そして、猛烈な熱を帯びて始まった。
清貧の国を、堕落させる。甘美な、中毒性のある侵略が……。




