256.ジョン・ポール、堕楽の手腕
応接間の空気は、沈黙という名の重い鉛に満たされていた。
荘園主ロジオン・ヴァールは、自邸の最も格式ある空間で、今しがた娘のヘストナが案内してきた男と対面している。
ジョン・ポール。
王国より来たと称するその行商人は、この聖教国では類を見ない、極めて異様な装束を纏っていた。それは単に厳粛というに留まらず、使用されている生地の光沢、縫製の一針一針の精緻さが、この男が運ぶ富の底知れなさを雄弁に物語っていた。
ロジオンは、その仕立てが、自らの領地の年間収入に匹敵する、恐ろしいほどの価値を持つことを瞬時に察した。
「それで、ジョン・ポール殿。鑑札を所望されるとのことだが……」
ロジオンは、喉の奥にへばりつく嫌悪感を悟られまいと、努めて静かな声で切り出した。
「ええ、その通り。是非、この聖教国での交易の許可をと、切に願っておりまして」
男の顔に張り付いた笑みは、まるで精巧に彫られた仮面のように不気味で、一切の感情を読み取らせない。分厚い眼鏡のガラス板の奥には、獲物を定める爬虫類のように細く、歪な光を宿した眼が静かに瞬いていた。
「では、金貨、百枚を頂こう」
そう告げれば、この得体の知れない異質な男は、たちまち狼狽し、尻尾を巻いて退散するだろう。ロジオンはそう高をくくっていた。だが、男の反応は彼の予想を裏切る。
「承知いたしました。……支払いは、王国金貨にて、差し支えございませんでしょうか?」
その笑みを微動だにさせぬまま、ジョン・ポールは問い返した。
ロジオンは一瞬、目を見開く寸前で感情を凍結させる。この心理戦で微細な動揺すら見せれば、己の立場は崩壊する。彼はさらなる賭けに出た。
「……て、王国金貨か? うむー、困るなぁ。為替の手間がかかる。ならば……五百枚だ」
どうだ、これで。ロジオンは心の中で勝利を叫びかけた。
「構いませんよ。両替の手間は、私が負担すればよろしい。なに、手間賃とて商売の内ですからねぇ」
男の鋭い眼光は、ロジオンの虚勢を射抜く。ロジオンの背筋にゾクリとした戦慄が走った。それは、この男がただの商人ではなく、もっと大きな何かを背負っているという、本能的な恐怖だった。
「……あ、あぁ。そうだ。失念していたな。この荘園は、古くからの習わしで、事務手数料として、金貨二百枚を別途徴収することになっていた……」
苦し紛れの言い訳。だが、ジョン・ポールは鷹揚に頷く。
「そうでしょうとも! 事務方を雇うのも、タダとはいきません。人件費高騰という昨今の悩みの種は、どうやら王国も聖教国も同じのようですねぇ」
完全に動じない。ロジオンが言葉を失いかけたその時、ジョン・ポールは、テーブルの上に、いかにも重そうな革製の布袋をジャラリ、と放った。
そして、もう一つ、さらに一つと、金貨の詰まった袋が積み上げられていく。ロジオンは無意識に、ゴクリと唾を飲み込んだ。彼の欲望が、恐怖を上回り始める。
「あ、ああ! そ、そうだ! 為替比率! その換算を、失念していた……」
「ほう……? 外国為替市場を持たず、他国との資本取引も厳しく封じられたこの聖教国において、いったい何を基準に、その為替レートを導出されたのですか?」
そのあまりに正確で、論理的な指摘に、ロジオンの額には一筋の冷や汗が流れ落ちた。
ジョン・ポールは、勝ち誇るでも、見下すでもなく、ただ、その変わらぬ不気味な笑みを浮かべ続けている。
その無表情さが、何よりも恐ろしいプレッシャーとなってロジオンを押し潰した。ロジオンは、とうとう思考を放棄する。
「ふ、不敬だ! あまりに礼を失する! 去れ!この国から去るがいい! 異教徒めがっ!! その金貨を置いて、とっとと立ち去れ!」
その「金貨を置いて」という言葉に、ジョン・ポールは堪えきれずに笑い出しそうになるのを、寸前で押しとどめた。彼は静かに、もう一つ、最後の布袋をジャラリと置く。
「合わせて、金貨千枚です。……なるほどぉぉぉぉぉ! なるほど、なるほどぉぉぉぉぉぉぉ! 合格ですよ!! ロジオン・ヴァール様。……貴方は、私の取引先として、完璧に合格です!!!」
それまでの沈着さが嘘のように、ジョン・ポールは突如として気が触れたように声を荒げた。
その突然の豹変と、狂気に満ちた眼差しに、ロジオンは反射的に椅子の上で一歩身を引いてしまう。
「き、貴様は、何をしに、ここへ来たのだ……」
ロジオンは、もはや恐怖しか感じていなかった。
ジョン・ポールは立ち上がり、音もなくロジオンの目前まで歩み寄る。
ロジオンは思わず全身を硬直させたが、男はただ手を差し出した。
「商談成立の握手をしましょうではありませんか! 私にはわかった! わかってしまったのですよ! 貴方、お金が好きでしょう? 私からの提案は、実に単純な一つです。一緒に、"愉快な小遣い稼ぎ"をしませんか? ということなのですよ」
悪魔が契約を迫るかのような笑み。
ロジオンの脳裏には、差し出されたその手は、富と引き換えに魂を要求しているように見えた。
「お、……お前は、誰だ……?」
震える喉から絞り出したその問いに、ジョン・ポールは、初めて心底面白そうに、口の端をニヤリと歪ませた。
「ああ、そうでした。我が商会が、どんな品を取り扱っているのか。……肝心なことを、私も失念していたようだ」
彼は、これまでの心理戦を全て無に帰すかのように、くるりと身を翻した。
革製のトラベルバッグから、一つのガラスボトルが取り出される。ロジオンはそこで初めて、テーブルに積み上げられた金貨の袋も、その「マジック・バッグ」から現れたことを認識した。
「……こ、これは、一体……」
恐る恐る尋ねるロジオンに、ジョン・ポールは目を細めた。
「お薬ですよ! その名も、『蒸留聖水』。効能は、疲労回復、滋養強壮、安眠促進、血行促進、冷え性の改善……。日頃、荘園主としてお忙しい貴方様だからこそ、心底オススメしたい逸品です。どうです? ……試飲、なさいませんか?」
いつの間にかジョン・ポールの手に握られていた、精巧なカットグラスに、黄金色の液体が注がれる。
ロジオンは、もはや抗う気力を失い、その液体を呷った。
喉を焼き尽くすかのような、強烈な酒精。
「うぶっ!」
ロジオンの瞳が見開かれる。彼は清貧を美徳とする聖教国で、それを表向きにできない隠れた酒豪だった。
密輸された葡萄酒や、農奴が密造した混酒でしか慰められなかった彼の人生において、これは、初めて出会った「特上の中の特上」の酒だと瞬時に理解した。
「貴様! これは酒では……」
「おっと!! お静かに……。だから、……お薬だと、そう申し上げたでしょう? ねぇ?」
その瞬間、ロジオンの浅薄な脳裏に、ジョン・ポールの巧妙な企みが閃光のように駆け抜けた。
(そうだ……これは、酒ではない。薬だ……。ならば、大教会や、聖庁衛士たちにさえ、清廉潔白たる言い訳が立つ!)
目の前の悪魔の意図、その裏に潜む国家を揺るがす壮大な計画など、ロジオンの思考が届くはずもなかった。
聖税を滞りなく納め、更には無限の金貨をもたらしてくれる人物。
ロジオンの思考は、その浅はかな利益誘導だけで完結した。
彼は、差し出された悪魔の手を、ついに握りしめる。
ここに、密約が交わされた。聖教国崩壊の、静かな序曲が響き始めたのだ。
ジョン・ポールは、薄い笑みを湛えたまま、心の中で呟いた。
(一丁上がり……。聖教国、堕ちたぜ……)




