253.円卓の裏切り者たち
魔導灯の淡い、しかし温かな琥珀色の光が、円卓を囲む四人の男たちの顔を薄く照らし出していた。彼らは皆、厳かな神官服を身に纏っているにも拘らず、その雰囲気は祈りを捧げるというより、むしろ密議を交わす者のそれだった。
テーブルの上では、深紅の赤ワインが満たされたグラスが静かに揺れる。
グラスの縁を指で弄びながら、四人は皆、表面上は穏やかな、しかし腹の底では何を考えているか知れない薄い笑みを浮かべていた。
彼らの間を流れる空気は、極上のワインの芳香に似て、重く、そしてどこか甘い、良からぬ企みの予感に満ちていた。
「ペトロフ大司教、聞きましたかな? 例の、"聖女解放"の動きがあるという噂を……」
最初に口を開いたのは、フェルナンデス司教だった。その声は低く抑えられていたが、抑制しきれない好奇と探りが滲み出ていた。
「ふっ、フェルナンデス司教。それが、どうしたというのだ? そなたに、何の関わりがあるというのかね?」
ペトロフ大司教は、軽くグラスを傾け、返した。
その口調はにこやかだが、瞳の奥に宿る光は警戒の色を濃くしている。互いに、手の内を曝すまいとする腹の探り合いが、静かに始まっていた。
「ふふっ、ふふふっ……。ペトロフ大司教……。笑わせないで下さいよ。聖教国が長年、脈々と受け継いできた、"守護聖女"……。その在り方そのものが、まさに根底から覆されようとしているのですよ? 貴方とて、気が気ではないのではないかな?」
今度は、オースティン枢機卿が、悠然とした態度で話を継いだ。
「ふんっ、何を言いたいのだ、オースティン枢機卿? 相変わらず、含みを持たせた言い方が得意のようだ……」
「おい、ジェイコブ司祭。お前はどう考えている? 忌憚なき言葉を聞かせてみよ!」
フェルナンデス司教は、まだ歳の若い司祭に、やや強い調子で声をかけた。それは問うというよりも、むしろ恫喝に近い響きがあった。
「ぷはぁ〜、いやはや、やはり、ロートシュタイン産の赤ワインは格別ですねぇ! ……えっと、なんの話でしたっけ?」
若い司祭、ジェイコブは、まるでこの一触即発の緊張感を楽しんでいるかのように、大げさに息を吐き出し、けろりとした表情で聞き返した。彼の言動は、周囲の重鎮たちの緊迫感を一瞬で霧散させる、不可解な軽薄さを孕んでいた。
「バカモンが! 聖女を解放するという、ロートシュタインの若き公爵、ラルフ・ドーソンの企みについてだ!」
フェルナンデス司教は、思わずテーブルに唾を飛ばす勢いで激昂した。
「あー。それですか? ……解放しちゃえばいいんじゃないですか?」
その言葉は、あまりにもあっけらかんとしていた。
「なっ?!」
フェルナンデスとオースティンは、思わず目を見開いた。常識や信仰、そして彼らの権益を揺るがしかねない話題に対して、この若者の答えはあまりにも単純過ぎたからだ。
構わずジェイコブは、グラスを揺らしながら続ける。
「だってぇ、王国と聖教国が戦争になったら、聖教国勝てます? あ! 厳密に言えば、ロートシュタイン領と聖教国かぁ……。どうです? 勝てます?」
彼の口調は呑気で、まるで他人事のように聞こえる。
だが、その問いは、テーブルに座る全員の心臓に、氷の刃のように突き刺さった。
すると、これまで黙して目を閉じていたペトロフ大司教が、深い溜息と共に、重い言葉を呟いた。
「……無理だな……」
その場に、鉛のように重苦しい沈黙が落ちた。
王国の、ロートシュタイン領。
大魔導士、若き公爵ラルフ・ドーソンが統治するその地は、疑いなくこの世界で現在最強の軍事力を有していた。
海の怪物を屠る火力を誇る戦艦"ウル・ヨルン号"、そしてジョン・ポール商会が隠し持つ"戦車"。
そして、レッドフォードという名の巨大なワイバーン……。
さらに、そこに集う人々ですら、戦場に出れば一騎当千の武の者ばかりだ。
屈強なドワーフたち、得体のしれぬエルフたち、歴戦の冒険者たち、そして、かのクレア王妃……。
いや、何よりも恐ろしいのは、"殲滅の魔導士"の二つ名を持つ、
ラルフ・ドーソン……。その人だ。
あの若者は、極大魔法を用いて、たった一人で共和国との戦争を終結させた生ける英傑なのだ。彼を敵に回すことは、自国の滅亡を意味する。
その時、ジェイコブ司祭が、「クックック!」と喉を鳴らすような、愉悦に満ちた笑い声を上げはじめた。
「なにが可笑しいのだ?」
「いや! すみません……。『時代は変わる』。シンプルですが、いい言葉ですよね〜。……もしかして、今がその時なんじゃないかって? ……どうします〜?! 取り残されちゃうかもですよ〜! 時代遅れの、"老害"として」
「ジェイコブ! 貴様ぁ!」
フェルナンデスが激昂し、立ち上がりかけた、その時だった。耳を疑うような言葉が、張り詰めた空気を切り裂いた。
「私は、その時が来たら、ロートシュタインにつく……」
ペトロフ大司教だった。彼は、開いた瞳に揺るぎない決意を宿し、静かに言い放った。
すると、オースティン枢機卿が、
「おやおや。これは面白くなってきたようだ! ペトロフ大司教、あなた、聖教国を裏切るのですね?」
と、なぜか心底楽しげな声を上げた。
「……お前らは、聖教国がこのままで良いと思っておるのか? 大教会の古く悪しき慣習と、何も考えずそれを執り行う愚物ども……。聖女という"ごく普通の少女"を奉り、その悲劇と美談で金を集めるだけの馬鹿どもが蔓延っている現状……。正直、どう思っているのだ?」
ペトロフは、長年その地位に甘んじながらも、胸の奥に溜めていた鬱憤を、全て吐き出すかのように言葉を連ねた。
「まあ、確かに……。私より馬鹿な連中が、聖職者としての権威を笠に着て稼げているのには、正直、ムカついていましたねぇ」
オースティン枢機卿は、偽りなく本心を認めた。
「『清貧を美徳とする』、ってのも、正直わけわかんないですよね~。だって、女神様は、大の酒好きですよ〜」
ジェイコブは、相変わらずの軽妙さで、神聖な教義すらも茶化してみせた。
実は、この円卓に集まった四人は、心の奥底で確信していたのだ。"聖女解放"こそが、古びた聖教国にとって、新時代を切り開く唯一のきっかけになると。
しかし、出し抜けば、聖教国の反動分子に切り落とされる。静観すれば、時代の流れから仲間外れにされる。だからこそ、今ここで、互いの腹の内を擦り合わせる必要があったのだ。
おそらく、これから始まるのは、そう。
――革命だ。
聖女を解放し、聖教国は聖女の命を糧とした聖魔法の加護という最大の武器を手放す。真に自主防衛の道を、ゼロから模索する必要がある。
それはまさに、時代の転換点だった。
すると、その密議の最中、コツコツと床板を叩く軽快な足音と共に、一人の人物が現れた。
「あのさぁ~……。あなたたち……。そういう悪巧みって、居酒屋で話し合うことかい?」
現れたのは、この店のオーナーにして、噂の中心人物、ラルフ・ドーソンだった。
彼は、聖教国の重鎮たちの、あまりにも杜撰な密談に、心底から盛大に呆れていた。
そう。ここは、ロートシュタイン領の中心に位置する、彼の経営する。――居酒屋領主館。
聖教国からこの地に赴任している者たちが、極上の美酒をかっ食らい、酔いに任せ、愉快なクーデターを企てている真っ最中だったのだ。
「ラルフさまー、赤ワイン追加ぁ!」
ジェイコブが、早速、軽やかに注文を入れる。
「私はデミグラスハンバーグを! あと、オススメの赤ワイン!」
オースティン枢機卿も、密談を終えて、心置きなく食欲に走る。
「ハヤシライスを貰おう! デミグラスソースは、赤ワインに合うからなぁ」
ペトロフ大司教は、早くも、新たな時代への適応を見せつけるかのように、食の誘惑に屈した。
「ブランデーにしようかなぁ。むー、でも、夜は長い。軽めの酒にしといてから、また後で……。いや、火酒も飲みたいのだが……」
聖教国の重鎮たちは、どうやら皆、生臭坊主のようだった。
彼らは、美食と美酒に釣られ、自国を裏切り、"聖女解放運動"という名の革命に手を貸すことを選んだらしい……。
ラルフは、その光景を見ながら、深く、深く、ため息をついた。
(また。なんだか、大袈裟な騒動になりそうだなぁ)
彼の頭痛の種は、尽きることがないようだった。




