251.朝日のあたる家
重いまぶたを押し上げると、窓の向こうから零れる木漏れ日のダンスと、小鳥たちの楽しげな鳴き声が、静かに意識を呼び覚ました。
どうやら、心地よい夢の残滓が、まだ胸の奥で微かに波打っている。
デューゼンバーグ伯爵夫人、リネアは、ふと自問する。
(ここは、一体どこだろう?)と。
見上げた天井は、見慣れた邸宅のそれとは違い、波打った木目が生きているかのように躍動する、精巧に組まれた見事な木材の天板だった。
横に目をやれば、力強い丸太を組み上げた壁。部屋全体に、まるで早朝の森林に迷い込んだような、爽やかで、わずかに青臭さを残す木の香りがふわりと漂っている。
本棚には、古めかしく、魔導書と思しき書物が整然と並ぶ。
それは、幼い頃に耽読した物語の世界に、ふとした拍子に足を踏み入れてしまったかのような、幻想的な錯覚をリネアに抱かせた。
肌を刺すキンと冷えた朝の空気。にもかかわらず、さほど寒さを感じないのは、自身のお腹の上で、規則正しい寝息を立てる、小さな、小さな狼の存在のおかげだろう。まるでティーポットのように温かいその体温が、じんわりとリネアを温めている。
ぼんやりと、昨夜の記憶の断片が蘇る。
そうだ。ここは王都の邸宅ではない。若き公爵、ラルフ・ドーソンが治める、ロートシュタイン領――。
昨晩、あの居酒屋領主館にて、久しぶりに家族水入らずの、そしてあまりに自由で楽しい会食を堪能したのだった。
そこで供された、娘のエリカが作ったという"ハヤシライス"という名の料理の衝撃的な美味。
そして、客席に集った顔ぶれ――クレア王妃、偉大なるエルフ、聖教国の聖女様方。
あのざっくばらんな空間での語らいは、本当に心から楽しかった。それは、まるで結婚する前、学園に通っていた頃の、無邪気な熱狂を呼び覚ますようだった。
その歓喜に引き寄せられるように、お酒も自然と進んだ。女性陣の勧めに従い、未知の酒を次々と口にした。アルコールを感じさせない"ハチミツハイボール"や"紅茶ハイ"は、まさに隠された危険。
気づかぬうちに、酔いは深く、身体に回っていたのだ。
そして、ラルフ公爵と吟遊詩人のソニア、エリカの奏でる即席の演奏。
客たちのボルテージは最高潮に達し、リネアは、ぼんやりとした記憶の中で、「いぇぇぇぇぇぇ!」と叫びながら、クレア王妃と肩を組み、狂乱のダンスを踊っていたことを思い出し、思わず両手で頭を抱えた。
その時、唐突に「んがぁ!」という豪快な声が聞こえ、そちらに目をやると、床で悠々と寝入っている偉大なるエルフ、ユロゥウェルの姿があった。
風邪をひきそうなものだが、彼女は巨大な狼を抱き枕代わりに抱きしめている。それは、エリカが「お母さん」と呼んでいた、あの威風堂々たる魔獣に他ならない。
ふと、もう一つのベッドに目をやると、
「う〜、暑いぃ、暑いよ〜」
と、うわ言のように寝言を呟いている元聖女様。彼女は厚手の毛布にくるまれ、その周りには四匹の子狼が身を寄せ合って眠っている。確かに、あれは見るからに暑そうだと、リネアは思った。
リネアは静かに上半身を起こし、自分のお腹の上で丸くなる子狼の、ふわふわとした柔らかい体毛を撫でた。
小さな身体が、規則正しい寝息と共に上下している。そっと、子狼をシーツの上に降ろし、ベッドから降り立った。
扉を開けると、そこが非常に高い場所にあることに改めて気付かされた。
再び、昨晩の記憶が蘇る……。
意気投合した女性陣だけで、領主館の裏庭にある、ユロゥウェルの住処で「飲み直そう」ということになったのだ。
おぼろげな記憶の中で、暗闇の中を「うわぁ! キャー! 高いぃ! キャー!」と何故か大笑いし騒ぎながら、この長い梯子を登った光景がフラッシュバックする。
デッキの上に立つと、秋の冷たい空気が肌をキュッと引き締める。よく見れば、この丸太で組まれた家は、巨大な木の上に築かれたツリーハウスのようだ。領主館の窓を見れば、メイドたちが朝の掃除に精を出し、洗濯物を運んでいる。
デッキをぐるりと回り、反対側へ行くと、ロートシュタインの街並みが眼下に広がった。
透き通る秋の空気と、冷たいが清々しい陽射し。低く白い霞がたなびき、街の所々から、煮炊きする湯気や煙が静かに昇っている。
思わず手摺りにもたれ、その牧歌的な景色を眺めた。
(なんて、美しい街なのかしら……)
心の底から、そう静かに感じ入った、その時。
「お母様ぁ! 起きてらっしゃる?!」
と、エリカの張りのある声が響いてきた。再びデッキを巡ると、木の真下で、エリカがこちらを見上げていた。
「起きていましたよー!」
下に向かってそう答えると、エリカは屈託なく続ける。
「ラルフが朝食を用意してますよー! 客間で食べますー? それとも、そこで食べますー?」
と、大声で提案してくる。リネアが振り向くと、部屋の中では、元聖女様と偉大なるエルフも、エリカの声でもぞもぞと動き始めていた。
「せっかくだから! ここで頂きましょうかしら!!」
リネアもまた、大声で返した。
「わかったわー!」
エリカは領主館の中へ駆け込んでいった。
リネアも部屋の中へ戻ると……。
「うー、頭痛い……。やっぱり、ブランデーは、ちょっと危険だわ……」
と、元聖女様が、二日酔いの頭を抱えている。
「はぁ、……そういえば、エルフ族は酒に弱いから、祭りの時だけ飲むと"しきたり"を定めたのは、この妾自身だったわ……。すっかり忘れておった……」
と、ユロゥウェルは、目元を覆い、心底憂鬱そうだ。
「でも、昨晩は、本当に楽しかったですね!」
リネアは、大きな欠伸をする子狼をそっと抱き上げる。その子は、寝起きだからか、なんだか反応が薄く、フンニャリと柔らかい。
「それが、良くないのだ……。楽しいからって、飲めば飲むほど楽しくなるかと思えば、翌日がこれだもの……」
と、ユロゥウェルは嘆息する。
「でも……。どうせ、これを忘れて、今夜も飲んじゃうんですよ……。ああ、これが、ラルフ様が言っていた、若さゆえの、過ちかぁ……」
元聖女様が、遠い目をする。
「いや、妾、二万歳をちょっと過ぎてるからな……」
と、ユロゥウェルの愉快なツッコミに、リネアは思わず笑ってしまう。
「というか、リネア殿は、酒が強いなぁ」
ユロゥウェルが呆れとも尊敬ともつかない褒め言葉をくれた。
「そうですか?」
「ええ、強いですよ。最後まで、正気でしたし……」
と元聖女様も言ってくれるが、実は、決して正気ではなかった。そのくらい、あの場所での時間は楽しかったのだ。それは、今は言わないでおくことにしたが……。
しばらくすると、「お待ちどうー」と、明るい声が聞こえた。
見れば、ラルフ公爵が、梯子を登らずに、スーッと、窓の外に姿を現した。
浮遊魔法でも使っているのだろうか?
と思い、ドアを開けると、そこには巨大な赤いワイバーンの頭に乗ったラルフが立っていた。
(そういえば、こんなのもいるって、聞いた気がする……)
もはや、驚くことすらなかった。
ラルフはデッキに軽やかに飛び移る。
そして、部屋に入ってくると、「ちゃぶ台」と呼ばれる簡素なテーブルに、銀色の箱の中から、朝食を取り出し、器を並べ始めた。
どうやら、ここでは直接床に座り、食事をするらしい。しかし、リネアはもう、そんなことは全く気にならなかった。
「シュガートーストと、ゆで卵付きのサラダ、あとはこのリグドラシルから収穫した、オレンジとバナナ……。飲み物は、ミルクティーです」
その豪華で色彩豊かな朝食に、リネアは思わず目を見開いた。まさに、至れり尽くせり!
昨晩の料理も凄かったが、ここでは、こんな美食が毎日供されるというのか?
確かに、貴族として贅を極めた、技巧的な美食ではない。素朴で、粗野で、庶民的なのだろう。しかし、もはやリネアにとっては、これこそが究極の美食だった。
「よーし、お前ら、乗れー!」
ラルフの号令と共に、狼たちは、ワイバーンの頭に飛び移り、ラルフ共々、大樹の下へと去っていった。
早速、リネアは魅惑の朝食をいただくことにする。他の二人に倣い、「いただきます……」と、静かに唱える。それが、ここの流儀。
シュガートーストは、カリッ、モチッ、甘い!
絶妙な食感と風味。
ゆで卵と新鮮なトマトと葉野菜。それにかかる、未知の、そして絶品のドレッシング。
そして、甘酸っぱく、まるで季節外れの恵みのような果物。
そして、敢えてこのメニューに合わせる為に、甘さを排した濃厚なミルクティー。
何故、このロートシュタイン領が、王国中の貴族はおろか、諸外国の重鎮達までをも魅了するのか――リネアは、完全に理解した。
(ロートシュタインに、別荘を建てられないかしら……。できれば、ここと同じような。ログハウスとやらがいいけど……)
その壮大な企みを、このあとすぐにでも夫であるリックに相談しよう。
シュガートーストをモグモグと頬張りながら、リネアは、心の中で悩んでいた。
(シュガートースト……。おかわりできないかなぁ? う〜ん……でも……)
何故なら、昨晩のハヤシライスがまだ残っていて、今日の昼には"オムハヤシライス"という進化系メニューになる、と聞いているからだ。
それを腹に入れる余裕は、どうしても確保しておきたいのだった……。




